傷が癒えるまで -9
あの時と違い、体力もマナも十分にある。子供のころから駆け巡った、勝手知ったる土地で、心情を除けば僕の歩みは順調だった。
谷の前の、一旦拓けた土地に着く。大黒猿と戦い、弟を見失った場所だ。周りを見渡してみると、森の中の藪が刈られている。弟の捜索の名残だろうか。
前情報通り、谷には簡素なつり橋が架けられていた。馬が怖がったので、こちら側に置いていく。念のために馬の手綱を緩めに結んでおいた。
「何かあったら、逃げるんだぞ」
目を見ながら額をつけて、そう言った。賢い馬だから、伝わるだろう。おびえた様子はないし、辺りに危険は少ないと判断して歩き出した。
橋を渡り、細い山道を登る。大黒猿の襲撃から逃げ、弟を背負って走った道だ。頭上の見通しが悪いので、いつ大黒猿が飛び出してくるか、わからない。耳にマナを集め、特に物音に注意しながら進む。
道端の井戸は生きていたし、川には魚を捕る罠が仕掛けられたままになっていた。ほとんどの景色が、僕の知っているものだった。ただ、人がいないだけだ。
道中、僕の家の羊を何匹か見かけた。僕を見ても素知らぬ顔で、草を食んでいる。羊がバラバラになっているということは、牧羊犬達は、大黒猿と戦って殺されたようだ。一匹一匹を、一人で街まで連れて帰るのは難しそうだ。
僕の家に着いた。恐る恐るドアを開けると、血生臭い。覚悟はしていたが、やはり心が軋む。
煉瓦はところどころ砕けていて、隙間から外の風が入るようになっていた。家はあっという間に土臭くなっていて、床には雪が入り込んでいる。半分ほど雪に埋まった枯葉を取り出すと、黒ずんだ血がついている。
家の裏に周ると、遺体は埋葬されていて、家の裏に棒が数本立ててあった。当時家にいた僕の家族と数が合う。捜索隊の方々が、簡単に埋葬してくれたのだろう。
「これが、ここが、みんなの、墓・・・」
ひとりごちて、棒を見比べる。
「どれが誰の墓だか、わかんないし・・・」
乾いた笑いがこみあげてくる。目から、何の予見もなく涙が流れ出た。僕は、今まで自分が墓の前に来て別れを告げたかったんだと、ようやくわかった。
街で色々なことがあったとはいえ、感覚ではまだ、僕の家はここだ。懐かしいという気持ちよりも、ここにいて当たり前という気持ちの方が強い。何もかもが、思い出になるには早すぎる。
どこの墓標に話しかけていいのかわからなかったが、しばらく家族に近況を語りかけた。
家に入り、遺品として持ち出せそうなものはないか探してみるが、僕の家は裕福な方ではなかったので、質素なしつらえの家具や編みかけの服やあるだけだった。飲み物や食料品がそのまま残っているので、弟が帰ってきたという形跡もない。
崖に落ちたのか、遭難したのか、大黒猿にさらわれたのか・・・事実が出るまでは、最悪な結論を考えないようにしていたが、こうして家の変わり果てたところを見ていると、どうしても暗い気持ちになってくる。
「こんなことなら、画家に絵でも描いてもらえばよかったね」
弟が生まれた時だろうか。母親が、そんな事を言っていた気がする。倹約を好む父親が反対して、有耶無耶になってしまったが・・・結論を急ぐなら、あの時の母親は正しかった。虚空の上にある母親に話しかけ、永遠に失われてしまった機会を惜しむ。父は大黒猿の活動が活発になっているのを気づいていたようだが、まさか集団で襲いかかってくるとは思っていなかっただろう。こんなにも早く、何もかもを失い、僕だけが残されてしまった。
思い出の一つ一つをたどり、めぼしい金品を拾い集めながら家を周ると、最後に入ったのが、両親の寝室だった。そこは生々しく戦闘の痕跡が残っていて、天井からドアまで血のついていない場所はないくらいだった。
僕が弟を背負っていたように、父も、母を背にして戦ったのだろう。壁に刺さったナイフには、血糊がついている。そういえば、寡黙な父の数少ない趣味が、ナイフの手入れだった。
深々と刺さったナイフを引っこ抜くと、僕のものとまったく同じ型だった。このナイフを父が使っているのは、見たことがない。もしかすると、弟が大きくなったらあげる予定だったものかもしれない。
5分ほど、僕の目はなぜかそのナイフから離れようとしなかった。手に取って吸いつくように眺めているうちに、自分の体温が少しずつ下がっていくのが分かった。脳の奥で、アドレナリンの匂いがする。何かが、そう、何かが繋がりそうな・・・
「対のナイフ・・・」
メリメリメリと、心の中で何かが剥がれていく音がした。家族のことや大黒猿のことをすべて忘れ、閃くという快感が、背骨の先まで駆け抜けた。
それにまだ名前はない。だが、僕の中で確かに実態を持って生まれた。所作の一つ一つが、体に読み込まれていく。
それが僕の、最初のアーツだった。無意識に考え続けていたアーツが、ナイフを手にしたことで、形になった。
羊たちを置いて、僕は山を駆け下り始める。
これが、最初で最後の、僕の墓参りだった。