山岳の戦い -1
僕は雪の残る山道を、街に向かって駆け下りていた。背には頭から血を流した幼い弟を紐で結んでいる。
東の山からは日の出がのぞき始めているが、あたりはまだ薄暗い。冷え切った空気が、鼻に痛い。
弟をなるべく揺らさないように走りたいが、ぼやぼやとはしていられない。大黒猿がいつ頭上から襲い掛かってくるかわからないのだ。
羊の首をいとも簡単に折っていた大黒猿の姿を思い出すと、背筋に冷や汗がつたう。唯一の武器であるナイフがまだ腰にぶら下がっているかを確認して、僕は走り続ける。
今のところ、大黒猿が追ってくる様子はないが、足を止める訳にはいかない。弟の怪我も気になるし、疲れも出てきている。好材料は全くないといっていい。
麓までまで残り10kmほどのところで、僕は足を止めた。橋から、踏み板が消えていたのだ。強風吹きすさぶ谷に残されたのは、古びた太いロープだけだった。
「なんだって・・・」
一体誰がこんなことを行ったのか、今は考えている暇がない。引き返して遠回りすれば、ほぼ確実に大黒猿と遭遇してしまう。僕は、意を決するとロープの張りを確かめた。
「もうちょっとの辛抱だぞ」
弟に声をかけると、僕はロープを握りしめた。唾を付けるまでもなく、手に汗をびっしょりかいている。
「慎重に・・・」
ロープに足を載せ、カニ歩きで進む。踏み板が無いせいで、ロープは大きくたわむ。すぐに、普通に歩くときの数倍時間がかかるのがわかった。
ぞくりと、背中に悪寒が走る。自分が悪手を打った後の感覚だ。大黒猿は、まず間違いなくこの山に住んでいた猿の変異呪種だ。仮に追いつかれたら、ロープを渡る速度は人間の比ではないだろう。
急いで渡らないと、見つかったらお終いだ。
ギャオオオオオ・・・
「・・・っ!」
岩肌を割るような鳴き声がする。振り返ると、肩を震わせて叫ぶ大黒猿の姿があった。変異呪種特有の、怒りに飲まれた表情でこちらを見ている。彼らは、呪いを受けていないもの、特に人間を本能的に憎しみ続けるという。
「まずい・・・」
急いで歩を進めたが、大して速度を上げることができない。羊を襲いかかったときの、あの膂力が頭に浮かんだとき、ロープがグンと揺れた。大黒猿が、ロープに飛び乗ったのだ。