佳苗③
そこから佳苗と男女の関係になるのに、さして時間はかからなかった。佳苗は俺を見掛ける度に駆け寄り話かけてくれ、俺も佳苗を見つけると自然と声をかけるようになった。
お互いの音楽の嗜好や、演者としての考えや姿勢といった音楽を好きな者同士としての会話から、互いのパーソナルな部分へと話題は入り込み、音楽だけではなく、俺と佳苗は男女として理解しあえる、理解し合いたい存在と思うようになっていった。
周囲には早々に俺達が付き合っている事がばれた。同回生だけでも三十人近くいる大所帯の空間において、部内恋愛は頻繁で、そしてその噂は風に乗るようにすぐさま皆の中を吹き抜けていく。
「お前とかなちゃんとは、意外な組み合わせだな」
「でも、いざくっついてみると案外似合ってるかも」
人の噂も何とやらと言うように、自分自身も他の部員が恋愛沙汰を起こした時、最初は囃し立てるがすぐにそのほとぼりは冷めていく。俺と佳苗についても同様で、意外性があるという事でそれなりに部員内に衝撃は与えたが、そんな熱も半年も経ってしまえばさすがに引いていた。
「お前、ちゃんと大事にしろよ」
亮一は困ったような笑顔で俺にそう言った。
「そんな顔すんなよ。分かってるさ」
そう言うと、亮一は俺の肩をぱんと叩いた。
横に佳苗がいる事が当たり前になった日々。今まで彼女がいた事はあるが、佳苗は歴代の彼女にはないタイプだった。
俺自身が少しやんちゃなタイプだったせいか、今まで付き合ってきた彼女はどれも自分と同じような少し尖ったタイプが多かった。そのせいか、感情の揺らぎが大きく激しい言い合いがあったり、機嫌のうねりに困らされたりする事も多かった。
「ここのカレーはいつ来てもおいしいね」
それがどうだ。佳苗のこの穏やかな笑顔は。何度も来ているカレー屋で、毎度同じように心の底からおいしさと幸せさで頬をほころばせる姿は見ているだけでこちらも幸せになる。
佳苗の存在は、すっかりなくてはならないものになっていた。
佳苗なしの人生なんて考えられないほどに。
*
「どうよ、調子は」
「どれの事だよ」
「どれもだ」
「佳苗とは順調。就活は散々だな」
「幸せそうで良かったよ」
亮一と俺は居酒屋で酒を酌み交わしていた。だが互いの姿はいつもの私服ではなく、まるで着慣れていないスーツ姿だった。
「夢の終わり、現実の始まりって感じだな」
時の流れは残酷で、あんなに楽しかった部活は終わり、この先の人生を決める就活という現実の荒波に俺達は放り込まれていた。
嫌だという感情もある。何故こんな事をしなければいけないのかとも思う。だが現実、働かざるもの食うべからず。それだけではない。働かざる者はそれだけで人生の敗北者のような目で見られる。ニートなんて便利な言葉が出来て、それを揶揄したりしていた時期もあったが、いざその言葉が自分に向けられた時、その恐怖は思いの外に大きく重たかった。
積極的な気持ちがあるわけではない。だが後ろに引く訳にもいかない。親だってそれは認めないだろう。それに、俺には佳苗がいる。
佳苗だって今頑張っている。俺なんかより真っ当に真面目に生きてきて性格の良い彼女の事だ。きっと俺より早々に就活は終えられるだろう。現に既に内定をもらっている企業もあるという。
悔しいという気持ちと祝福の気持ちが入り混じるが、負けてはいられない。彼氏がニートじゃ格好がつかない。
「現実か」
夢のような時間だった。何の責任もなく、ただただがむしゃらに弦を鳴らして暴れ狂い、酒を煽り、馬鹿みたいに笑い合ってた日々。つい最近の事のはずなのに、もう随分昔の事のように感じられる。
引退の日。多くの部員が涙を流した。いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざって、表しようのない感情の形は涙として流れるしかなかった。今まで感極まる事は何度かあったが泣くまではしなかった俺も、この日ばかりは子供のように泣きじゃくった。
楽しかった。楽しすぎた。こんな楽しい時間が終わってしまうだなんて信じられなかった。
でももうそれも過去だ。自分が輝いていた時間の事にいくら想いを馳せても、あの時間は二度と訪れない。過去は自分への自信にもなるが、しがみつけば未来への足枷でしかない。
俺はこの過去を無駄にしない。全力で楽しんで取り組んできた時間を無駄になどしない。
自分の為にも。佳苗の為にも。
「現実なんざ、大した事ねえよ」
そう言って俺は杯を傾けた。
「負け犬の遠吠えみてえ」
亮一は笑った。
確かに強がったかもしれない。それでも、こんな現実に負けてる場合じゃない。
「負けねえよ」
人生はまだまだこれからなのだから。