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哀は少女に巣食う

作者:

 或る日、少女は十歳の誕生日を迎えた。


 少女には、他の児童達と決定的に違うところがあった。

 十代なりたてとはとても思えない、哀愁漂う背格好。服がところどころ擦り切れていて、土埃で黄土色に染まっている。体中に瘢痕があり、数箇所に血が滲んでいる。可愛らしい顔立ちに似合わず、暗い影の落ちた視線が足元をふらふらと彷徨っていた。

 馬車馬の如く働かされる奴隷さながらの陰気な目。少女からは一片の希望も感じられない。


 何度も左手の裾を目に擦り付ける。涙は止まらない。どんなに歯を食い縛っても、自然と涙が零れ出る。視界がぼんやり染まっていく。早く忘れようと思っても、深層心理に根付いた悪夢がそれを許さない。

 何時だって独りだった。家にいるときも、学校にいるときも。

 いや……ある意味、独りではなかった。しかし、地獄のような苦痛を強いられるくらいなら、孤独でいた方がマシだったろう。学校では他の児童に苛められ、家では横暴な父親に暴力を振るわれる。親戚は皆「あの子は根暗」と陰口を叩いているに違いない。道行く人が笑う度、反射的にわたしのことかもと考えてしまう。

 他人の言葉に耳を傾けないように尽力した。無視しようと頑張った。外界と自分とを断ち切ろうとしたのだが、しかし出来ず仕舞い。一人ぼっちになれる桃源郷は、夢想に過ぎなかったのだ。



 何度も電信柱にぶつかりそうになりながら歩くこと十数分、漸く家に着いた。玄関の戸の前に立ち、取っ手に手を掛ける。戸は開いていた。そっと右にスライドし、音を立てぬようにして中に入る。

 耳を澄ませると、リビングの方から微かにラジオの放送が聞こえる。それに混じった、急き立てるような荒げた叫び声は、父のものだろう。「くそッ……!」だの「行け!」だのと、怒声や罵声を上げている。

 きっと競馬か何かだろう、と思った。あの男は碌に働きもせず賭け事に身を投ずるばかり。その癖博打に負けると、腹癒せに娘に暴力を振るうのだ。乱暴で癇癪持ち。あろうことか他人に刃を向ける、身勝手な人間の屑。汚穢の象徴のような男である。

 疲れきった様子で自室へ向かう少女。その足取りは重い。後に起こる何かを憂いている表情だ。目は真っ赤に充血し涙の筋が幾重にも顔を覆っている。ぱちぱちと瞬きをした少女は、ゆっくりと階段を上っていった。


 ドアノブに手を掛け前に押す。ドアが軋んだ音を立てて開いた。

 室内は、真っ暗だ。少女の部屋には窓がない。数年前、理由は知らないがあの男が塞いでしまったのだ。おかげで昼も夜も日光が当たらず、暗い気分を一層加速させる。少女は手探りでスイッチを見つけ、電気を点けた。明りがぱっと室内に広がる。机の脇にランドセルを置いた後、体が自然とベッドの方へ向かっていた。


「梨乃! ただいまくらい言わんか」


 一階から声がした。程無くして、誰かが階段を上ってくる音。姿を現したのは、やはり|あの男であった。

 男は説教を始めた。少女は分かっていた。これは建前だと。大方、競馬で負けてムカっ腹が立ったというところだろう。説教の振りをして憂さ晴らしに来たのだ。少女はぺたりと座り時が過ぎるのをじっと眺めていた。少女は無意味に逆上させないのが最善であると心得ていた。

 思った通り、話はすぐに明後日の方向に逸れ始めた。男はお前の根性を叩き直してやるなどと言い、少女に手を上げた。

 頭を引っ叩かれ、胸倉を掴まれ、それでも、少女は表情を変えなかった。少女はぐっと握り拳を作り、只管耐え続けた。涙を堪え、声も殺した。

 理不尽な暴力に屈したくないとか、そういうことではない。感情を殺さないと、今既に瓦解寸前の精神が、木っ端微塵に崩壊してしまう。眼前の苦境から目を逸らさないと、身体が持たないのだ。所詮はポーカーフェイス。精神破壊から死に物狂いで逃れる少女の仮死状態、即ち「茫然自失」でしかないのだから。


 娘への虐待で、男の気分は幾らか紛れたらしい。男は自身の手首を揉みながら満足げに部屋を出て行った。

 一難去ってしんと静まり返った室内。少女はやおら起き上がり、掛け布団に顔を埋めた。



 

――泣いた。


 ひっく、ひっくとしゃっくりを溢し、鼻水を啜り、嘔吐き、身を震わせすすりないた。涙が枯れるのではないかというくらい、泣き続けた。

 これが少女の日課だ。自宅へ帰る度、辛いことがある度に、この場所で泣くのだ。すると、ほんの少しだけ、溜め込んでいたものが霧散するような、そんな気がする。唯一にして最大の知己。この場所だけが、少女の靄を解き放ってくれた。


 然し、男に与えられた傷は一生治ることが無い。罪深く、許し難く、理解し得ない、非人間的な業。常軌を逸した虐待。頬、肩、腹、膝……いたる所に痣を作り、純粋であるべき年頃の心を、無茶苦茶にした。拠所は一台のオンボロベッドだけ。助けてくれる人は誰もいない。故に、少女は大量の辛苦を抱え込んでいった。

 現在、この家には、少女とその父だけが暮らしている。母は少女が物心付く前に、DVに耐えかねて家を出て行ってしまった。そんな訳で、少女は母の顔をほとんど覚えていない。不意に、お母さんに会いたいと思うこともある。だが過酷な日々に揉まれている内に、何時の間にか忘れてしまうのだ。

 歪んだ境遇が、歪んだ性格を生んでしまった。重度の対人恐怖症。全てに対し悲観的で、暗い。感情を露にしない。もし平凡な家庭に生まれていれば。そう願っても、虚しいだけ。


 人間万事塞翁が馬。苦あれば楽あり。待てば海路の日和あり。どいつもこいつも、善い事もあれば悪い事もあるという、偽りの慈善が謳われた諺だ。

 どんなに待っても幸せは来ないのに。

 苦痛の方が何千倍、何万倍も多いのに。

 人並みの幸せが、平凡な暮らしが、在り来たりな人生が、羨ましかった。辛いことがあった時、優しく慰め抱きしめてくれる、そんなおかあさんが、おとうさんが……。



……そういえば、今日は誕生日……だっけ。



 ふと思い出す。

 結局、繰り返されただけだった。

 今日貰ったプレゼントと言えば、小さな頬の傷くらいだ。いつもより数が少ないのは、誕生日の所以だろうか。



――もう、涙さえ出ない。



 食欲が湧かない。先の一件以来、頭痛が一向に治まらず、いつまでも吐き気が付き纏う。砂嵐が荒れ狂っているようだ。時々眩暈と共に意識が途切れる。少女には何か良くない事の兆候に思われたが、しかしその正体を知るには心当たりが多すぎた。

 結局夕食にはほとんど手をつけず自室に帰った。部屋に戻った少女は電気も点けずベッドに直行した。

 布団に潜り込みほっと一息吐いたものの、未だに頭の中で乱痴気騒ぎが起こっている。ガンガン鳴り響く不協の音が耳鳴りと雑ざって雑音を奏で、鬱陶しいことこの上ない。

 傷が疼き痛苦の時を想起させる。それに乗じて頬の傷が醒め、忘れかけていた痛みを呼び覚ます。

 少女はぐっと目を瞑った。相変わらず頭痛が止まないが放っておく。ずっとこうしていれば、眠くなくとも瞼が下りて来る。現世から離れ、幽世(かくりよ)に還ることができる。

 たとえ夢は辛くとも、朝起きたら必ず醒める。霧散させ忘れ去ることができる。

 現実の悪夢は決して終わらない。外界から散々な扱いを受け続け……何度死にたいと思ったことか。


 無論解っている。安易に「死」などという言葉を口にしてはいけないのは理解している。しかし、青天井の被虐人生に一輪の価値も見出せない。それならいっそ……と思ってしまう。だが、希望の灯が仄かに揺らめき眼前にちらつく。信じ難く有り得ない観測にほんの少し心を揺すられてしまう。

 結局、宙ぶらりん。生を絶つ勇気が無ければ、未来に生を繋ぐ気力もない。切れかかった生命の糸に、ぼんやりとぶら下がっている状態。それが今の自分なのだ。


 仮に。もし仮に死後の世界が在るとしても、境遇は同じなのではないか。不変の日常、普遍の事実。過酷かどうかはさて置いて、空虚には違いない。詰まる所、永遠に安らぎは来ないのだ。


 少女は聡かった。ありとあらゆる存在を拒絶していたからこそ、周りを見通せた。だからこそ、絶望した。



「もうどうでもいい」



 それが、少女の紡ぎ出した一つの真理だった。


 今日が十歳の誕生日。

 どうせ明日も、明後日も、ずっと……





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[良い点] 「もうどうでもいい」に全てが詰まっていました(T_T) [一言] 哀しいけどこの世界は有りです(T_T)
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