殺人者の第八
「紫蘭ちゃん」急に、黒句はその名前を口にする。それは、伍波百花という少女が、メンバーに入る前に名乗っていた名前だった。「君、どうしてメンバーに入ったの?」
「……私が望んだからです」そりゃそうだろうよ、とは口には出さない。「他に、これといった理由はありません」
そんな無感情な言葉が返って来た。黒句は当然、苦い顔をする。
黒句としては、そう言われてしまうとそれ以上の追及をするのが難しくなってしまう。いや、本当に彼女のことを思うのなら、今ここで言わなくてならないことが幾つかあるのだが、それにしても今この場で言うことではないか、と黒句は思考する。
――しかも、名前の件は無視かぁ。
何かしらの反応があるだろうと思い口に出した言葉だったが、黒句が期待していたものが何も得られなかった。まあ、メンバーには『訊いてみる』と言ったものの、実際はそんなところなのだろう。訊いて、義務教育を受けている子供だから素直に答えが返ってくると思っていた時点で考えが甘かった。
「じゃあ、俺からも質問があるんだけど、君が仕事中に口調が変わるのって、なんで?」
大方の理由はメンバーから聞いているが、確認のために伍波に訊く。答えを知っているということから見れば、黒句のしている行為は非常に意地の悪いものだが。
「あなたに成っているからです」
それに対して伍波が返してきたのは、そんな、説明抜きの言葉だった。
「あそうすか。ども」と返すより他にない。たぶん黒句が他のどんなことを質問しても、この伍波百花という少女からは有益な情報は得られないだろう。
この場で伍波百花という少女に話す言葉が、この時点で黒句には発見できなくなった。仕事のことは死んでも訊きたくない。『世界に害を与えるものの切除』。そんなものを十代の少女に話すなどトチ狂っているとしか思えない。
「――あれ?」そうこうしているうちに、伍波の方から声を上げた。それは今までの硬い口調ではなく、彼女の地の声がそのまま反映されたようなものだった。声を上げたのは、注文したパスタを、初めて伍波が口に含んでしばらく経ってからだった。「これ――味」
「どったの?」余計だとは思いつつ、黒句は伍波に口を開く。伍波は自分の手元にある、銀色のフォークに絡まっている麺を凝視している。黒句がそれを覗くと、伍波は黒句の方に目をむけ、そこで初めて表情を表した。それは何かに困惑したような、表情だった。
「……いえ、すいません。大したことじゃないんですけど」伍波は、そこでパスタに視線を落とす。「このお店のパスタ、前に友達と食べに来たものだったんです。その時好きになって」
でも、と伍波は言葉を切る。
「今食べたら、なんか味が違うなって思って。すいません、どうでもいいことで」
「どこが?」感情のない返しを、今度は黒句が返す番だった。「どうでもいいことじゃないでしょ。過去の自分と今の自分の感じ方が違うのは重要だよ? それに、それには原因もある」
黒句は、伍波に対して言うべきことを決定する。
「最大の理由は、君が以前とは違うってこと。俺達のメンバーに入った時、言われたことを憶えてる?」
「確か、『人間ではなくなる』ですか?」そう、黒句達は人間という生物ではない。厳密には元人間、人間に極限にまで肉薄した別生物だ。「研修の時は話半分に訊いてましたけど、あれって本当なんですか?」
伍波の発言に少し頭痛がしたが、まあ、後先なんて考えずにここに来たのだろうなぁ、と考え、黒句はそれに答える。
「そう。あと入る際に行われることは、君の人格そのものが完全にリセットされるってこと。簡単に言えば、パーソナリティの崩壊だよ」
あくまで、味覚を感じている本人の意識の違いというだけにすぎない。たったそれだけで『味が違う』というのは大袈裟かもしれないが、まあ、案外人の好みなんていうものはそんなものでもあるのだろう。
「私の認識が変わったから、味も変わった? 子供の時と今じゃ、好き嫌いが違うことと同じですか?」
「それは違う。子供の時の好き嫌いは、味覚の未発達によるものだよ。でも君くらいになれば、もう味覚は発達しきっている。君、珈琲は飲むでしょ?」
伍波は、それに頷く。
「今まで探知できなかった味を発見して、好物が増えるわけじゃない。君の場合は本当に好き嫌いが入れ替わっている。だから今までの経験に従って物を食べた場合、その味が記憶の中の味と齟齬が生じるから、『味が違う』っていう感想が出てくる」
そもそも、『味が違う』という発言は、何かを基準にしてしか現れない言葉だろう。何か以前に口に入れたものが前提にあって、という表現だ。
「つまり、私はもう、立花紫蘭ではないってことですね」何の感慨も、感情もないかのように、伍波という少女はそう口にした。その名前が、以前自分が人間であった時の名前だと知りながら、それに何の未練もないかのように、彼女は言う。「伍波百花、なんですね」
それが質問であったかは、黒句には分からない。ただその言葉に、黒句は頷くことも、首を横に振ることもしなかった。下手にそんなことをしても、状況を悪くするか、良くても意味がない行為だと思ったからだった。
「……分かりました」伍波百花という少女はそう呟いて、フォークに絡まった麺を自分の口に運び始めた。味が違う料理を、自分の人間であった頃、その記憶との齟齬を噛み締めながら。
その様子を間近で捉えながら、黒句轆轤は思考する。
天才か。まあ確かに、武力面で言えば確実に実力は黒句より遥か上である。出会った時の伍波――立花紫蘭という高校に上がったばかりの少女だった――は誰にも暴力の振るわれたことのない、暴力を振るったこともない、ただの子供だった。以前に何かスポーツをしていたわけではないし、何かの訓練などしていたわけでもない。
そんな彼女が、今日ビルの中で見せたような動きができるはずがない。できるはずがないのだが、それを可能とするのが、才能というものだろう。
肌で感じざるを得ないが、理屈や理論展開では説明のできないもの。
能力は目に見えて明らかなのに、言語化や証明の一切合財が不可能なもの。
それを、才能というのだろう。逆に言えば、才能としか形容できないものだ。
まあいい、今回、最低限の手は打った。これから徐々にその手を進めて行けばいい。
いつか来る詰み(ころし)のために、少しずつ。
「じゃあ、仕事の話以外の話をしようか」黒句はそう切り出す。これはもう、当初の予定の、黒句の目的とする『会話』の外にある話題だった。「何でもいいよ。趣味でもいいし」
子供が殺人のことなんて考える必要性はない。
特に、現代の日本という国において、そんなモノはもはや不要だ。
伍波は、そう言った黒句を一瞥して、手に持っていた銀のフォークを皿に置く。
しかしそこからは言葉は発されず、ただ、黒句の眼を見て来るだけだった。
仕方なく黒句轆轤は、それに苦笑いで返すことしかできなかった。