殺人者の第六
黒句の眼から見て、起こったことは明瞭だった。
というか、それを起こしたのは実際には黒句本人なのだから、その言い方はひどく間抜けな表現と言えるだろう。改めて表現し直すとすれば、黒句が起こしたのは、黒い外套の中に入れていた発煙筒のピンを抜き、その場に落としたというだけのことだった。
その広大な室内を灰色の気体が覆い尽くすのに、およそ一秒も必要としなかった。
黒句の耳に届いたのは、何重にも重なった銃声の音。しかしそんなもの、黒句の姿を視野に捕らえて発砲されたものではないことを、黒句ともう一人は知っている。同時に、この室内の構造と銃を持った男たちの位置を視野に入れている黒句にとって、視野の機能しない室内でその銃口から逃れることは容易だった。
結論としては、煙幕を焚いた瞬間、彼らの真下に走る、という方法にすぎないのだが。
――あーでも、拙ったかな。
彼らの銃口から逃れた黒句としては、ここでの行動は完全な悪手だった。
今回の黒句轆轤という男に任されていた仕事は監督である。その黒句が、自分の保身のために、監督するもう一人の安全を視野に入れずに行動を行ったというのは、明らかな失敗だ。
煙幕を焚く瞬間、伍波の姿は周りに確認できなかった。彼女がどこにいったか、ということは分からない。伍波が黒句の視界から消えてから、およそ五秒後に発煙筒を起動させたからだ。
壁に寄りかかりながら、こちらに流れ弾が飛んで来ないことを確認しつつ、伍波の姿を探す。
密閉されたビルの室内では煙幕が中々引かない――と黒句が思っていると、何か冷たい物が額にあたった、それから、耳障りな警告音のような響き、室内の中に雨が降る。
その現象について、大体の予想はつく。恐らくは室内に常備されていたスプリンクラーが煙幕を探知して作動したのだろう。同時に室外機も作動したようで、部屋の空気交換が行われたからか、密室の部屋に充満していた煙幕が徐々に晴れてくる。
ようやく視野が開けてきたことを確認した黒句は、辺りの状況を恐る恐るに見回す。そこで、黒句は銃声の数が止んでいることに気が付いた。
男たちがいた二階の部分に目を向ける。
そこには、倒れた無数の男の姿と、その中でも未だ立っている三人の男。
そしてその中心に立っている、伍波百花の姿を確認した。
率直に言って。
その光景を視野に入れた時に黒句が抱いた感想は『何あれ』というものだった。
状況判断ができないわけではない。ただ、黒句の頭にあったのは一つの「疑問」だ。
疑問の正体は、まあ色々なものがあるが、簡潔にするなら「伍波が何をしたのか」。
光景を結果として受け取れば、伍波百花という少女が視界の働かない煙幕の中で十数人の男たちを鎮圧した、ということになる。
残った三人の男は、伍波を囲み、彼女に対して銃口を向けている。それらは携帯する類のハンドガンなるものではなく、本当に性能だけを視野に入れた機関銃、というのが黒句の見解だ。
対して、伍波百花が両手に持っていたのは黒い、小型の拳銃だった。
銃そのものはそこまで巨大ではなく、市民が購入可能な市販モデル。部品のほとんどがプラスチックで作られていることが特徴的な、グロック17。それが、あの小さな少女の両手に握られている。
電話で伍波の装備を聞いていた黒句には、伍波に会う前から彼女がその銃を持っていることは知っていた。だが、その使い方は予想外だ。
――二丁持ち、ですか。
まったく現実的ではないその使用方法に、若干の溜息が漏れる。実際、携帯型の銃をああいう持ち方で扱う人間はいない。まず前提として、銃弾の入ったカートリッジを正しく入れ替えることができないし、そもそも銃の構えとして最低限の衝撃緩和を行う姿勢が取れない。
銃器の取り扱いがまったくの素人。それにも関わらす、あの少女はあの場に立っている。
黒句はその場で、殺害対象がまだその部屋を離れていないことを確認する。家納がまだ赤いソファに座っていることを一瞥し、部屋の中に落ちていた硝子の灰皿を掴み上げる。先ほど硝子のテーブルの上にあったものだが、そのテーブルが銃弾によって蹂躙され、なんとか銃弾に当たらずに床に落ちた物だろう。それと、そのテーブルの破片と思われる、尖った形の、割れた硝子を掴み上げる。
上で伍波に銃を向けている男たちは防護の武装はしていない。こんな物でも投げれば有用性はあるだろう、と思っての行動だった。
ほとんど「一応」になった監督という立場になりながら、黒句は投擲の間取りを計ろうとしたとき、事は起こった。
短い発砲音。伍波が三人の男の一人に向けて引き金を引いたのだ。正直に言って、黒句としてはあまりやっては欲しくなかった行為だ。そんなことをすれば、残りの二人は確実に引き金を引くに決まっている。
案の定、連続した銃声が鳴り響く。このとき既に黒句は手に持っていた灰皿と硝子を二人の男に向けて投げていた。いや、今投擲したところで遅い。引き金は引かれてしまった。あそこでの対抗策は、『相手が引き金を引く前に叩く』というその一点しかなかったのだが。
「あれ?」
そこで黒句は、今現在中に浮いている物体が二つではないことを確認する。
二つは黒句が投げた物だ。しかしもう一つ、銃を持った男に向かっていくものがある。
それは拳銃だった。
黒い外装の、プラスチックの素材で作られた拳銃。紛れもなくそれは、今まで伍波が両の手で持っていたグロックだった。
その中で動く、黒い物体がもう一つ。二階の部分には、発砲されのけぞった男が一人。銃を投げつけられ、発砲を一時停止した男が一人。唯一伍波に銃を向け、引き金に指をかけている者が一人。その、最後の人物に突進していく人物が、伍波百花本人だと黒句は認識する。
動物のようなしなやかさで。
瞬発的なバネに弾かれるように。
室内の大理石を踏込みに用い、銃弾を空いた腕で防ぎながら、伍波百花は男性に飛び込む。
そのまま、伍波百花は男性の前で急停止を駆け、足のエッジングと同時に身体を回転させ、背中で銃弾を受けつつ男の背後に回り込む。
バスケットボールなどの球技において見られる「クイック」という動作に似ている。自分の手にしたボールを護りながら、相手を通過するテクニック。黒句が投げた硝子すら躱して、伍波は男の背中に密着し、そこに銃口を押し付け、引き金を引く。
瞬間、明確な衝撃が男の背中を走り抜けた。成人の男性の身体が、伍波が引き金を引いただけで、若干押し出されたのが黒句の位置でも確認できる。
そこでようやく、伍波が動作の前に投げたもう一つのグロックが大理石の床に着地した。
もう一人の男が反応したのはその更に後。すぐに移動した伍波に銃を向けるが、そこあったのは伍波がもう片方の手に持っていた銃が、宙を舞って迫っていた光景だろう。彼女は一人の男に対して至近距離で引き金を引いた後、目の前の男を盾にしつつ、ほぼノータイムでその銃を、先ほど銃を投げて動きを止めた男に対し、もう一度投擲した。
再度男は動きを止める。その瞬間に、伍波は男の股の間を滑りぬけ、先ほど大理石の床に着地した銃をスライディングの過程で拾い上げた。
そうして伍波が男に銃口を向け発砲する瞬間に、黒句の投げた硝子の灰皿が銃を向けられた男の頭に直撃した。ぐらりと揺れ、その場に立っていた最後の男が大理石の床に倒れる。
「――ナイスピッチ」無表情に、伍波がそう口にする。
「人を傷つけた奴に対して、そういうことは言わない方がいいよ」対して、黒句の口から放たれたのは、そんな呆れかえり、冷めきった感想だった。
正直にいって、伍波百花というこの少女の能力に、黒句轆轤は今のところ驚愕している。
もし黒句が助力に入らなかったとしても、伍波という少女は今の行動ですべての決着をつけていた。黒句が気が付いた時には、十数人もいた武装集団がたったの三人にまでなっていたというのも納得がいく。が、それは納得というだけで本質的な理解にはつながらない。
『怪物』。それが、黒句轆轤という殺人者の、伍波百花という新米に抱いた感想だった。
「そんじゃ、まあ」そうして、家納割率の方へ目を向ける。まだ、あの赤いソファーに座っていた。黒句が近づいていくと、異変に気が付く。ソファーに座った家納が、数分前よりぐったりとしている。全身の力が抜けたように、足や手は、無残にソファーの外へ投げ出されている。
至近距離まで近づいて、ようやくその理由を認識する。家納割率の腹部から、おびただしい量の血液が溢れ出ていた。腰掛けているものが同系色の赤い色だったために、近くに寄るまで気付かなかったが。まさか――伍波が撃ったわけじゃないだろうな、と黒句はひやりとするが、すぐにその考えを否定する。伍波は上の連中の対応をしていた。そんなことが出来はしないだろう。それに、あの時部屋は煙幕で覆われていた。とても、彼女にそれはできない。
だとすれば、後はもう分かったようなものだろう。彼は、自分の仲間たちの凶弾によって腹を撃ち抜かれたのだ。
二階の男達の持っていた銃はすべてがフルオートのものだった。高速で銃弾を撃ち出すそれは、瞬間的に弾幕を張ることに秀でている。言ってしまえば、銃口が反動によって数ミリずれただけで、数メートル先では扱う者の考えもしなかった方向に銃弾が飛ぶ。
銃を扱っていたのは素人の集団。それもあるだろう。
しかし、まだわずかに息のある家納は冷静に、変色し、もはやほとんど視力もないであろう眼球を動かして、周囲の状況を探っていた。
「……そうか」擦れ、息を吐き出しているだけの弱々しい声が、家納の口から発せられる。「やっ……ぱり、こうなっ……たか」
黒句は、その光景をただ凝視している。もうこうなってしまっては、彼がなぜ行動を再開したのかという理由も訊くことはできない。いや、その方がいいのだろう。
「黒句さん、私がやる。下がってくれ」後ろから、伍波百花の声がした。次いで、大理石の床を叩く、軽く乾いた足音も聞こえてくる。「今回の仕事は、これで終わりだな」
黒句轆轤は、伍波には振り向かず、ただその背後から聞こえてきた言葉を、非常に残念に思った。失望――と言い換えてもいい。黒句轆轤という男の体内から、すべての力が抜けていく。
「…………」
伍波が自分の横を、ゆっくりと通り過ぎるまで、黒句轆轤は全身の虚脱感を覚えながら、思考だけは放棄をしなかった。
ああ、やっぱり。
この仕事は、大嫌いだ。