仕事の終
頭を強くぶつけたのか、古木はそのまま起き上がらなかった。もしかすると、軽い脳震盪を起こしているのかもしれない。殺人者としてなら、そのまま古木麦奈の頭に実弾を撃ち込むのが正解なのだろうが、伍波は、彼女をじっと、それも長い時間眺めたあと、古木が持っていたパソコンを持ち上げた。
ノートを開くと、まだ起動している。事実上、鈍器として扱われ、地面に落とされたことから、伍波はすっかり機能を停止しているとばかり思っていたが。
そこに映っていたものを、伍波は視野に入れる。言語を入力する白い箱に、文字を入力する際に点滅するようになっている、一本の黒い棒が浮かんでいた。画面に映っていたのは、ただ、それだけだった。複雑な設定も、電子的な工夫もみられない。本当にそれは、現代的に『誰にでも扱える要素』をかき集めたようなものにすぎなかった。
米崎稲峰の『声』を出力できるソフト。国際テロリスト、米崎稲峰の最終的な切り札であり、彼が一人のクラッカーと共に作り上げたその作品。確かに、これがコピーされ、一般に出回れば、地球上に存在するすべての人間などというものは、簡単に死滅する。
伍波は、そのソフトが入ったPCのキーボードを片手でかたかたと叩く。
『古木麦奈。この先如何なる理由があろうとも、自傷行為、また、自殺や自害を認めない』
すぐにそれは、米崎稲峰の『声』となって出力された。伍波百花にそれは作用しない。むろん、元から作用しない古木麦奈に関しては無駄な行為だ。それでも、行った。
次に、近くの病院に電話をかけた、友人の女性が喧嘩をして怪我をしてしまったので、早く来てほしいという旨を伝えて、一応、今後の古木麦奈の対処も考えた。
そうして伍波は、その部屋にある、自分がいま打ち込んだPC以外の機械をすべて破壊した。
あらゆるディスク、電子機器、音楽機器に至るまで、機材のすべてを破壊した。
それでやっと、古木の部屋を後にした。殺害はしなかった。古木麦奈自身は、それ単体では何の力も持たない、ただの貧弱な女性だったからだ。精神も肉体も弱い、ただの、女だった。
古木麦奈が住んでいる場所は、埼玉県南部にある、とある駅前のマンションの最上階だった。一が高速道路の上で伍波に渡したメモには、住所だけではなく、部屋の番号と階まで書いてあったことは、今になって考えるとかなり不気味ですらある。
「よお」古木の部屋から出たあと、マンションのエレベーター前で、伍波はとある人物と鉢合わせた。それは、黒句と共に米崎殺害に向かい、そして対抗策を用意されなかったために、米崎の殺害を黒句に任せた、金崎修吾だった。「終わったのか?」
彼はただ、それだけ聞いてきた。他意はなさそうだ。彼自身も黒句が死亡したことを受けて、その後始末をつけに来たのかもしれない、と伍波は勝手に想像した。
「はい」
「――殺したの?」金崎は、なぜかそんな、手探りなことを口走った。
「殺しては、いません。彼女にそこまでの脅威はない」
「ああ、そうか」
「……これ」伍波は、手に持っていたノートパソコンを、金崎に手渡す。「米崎稲峰の遺品です。葉月さんに調べてもらってください。もしかしたら、役に立つかもしれないので」
「ああ」金崎は、それを手に取ると同時に、伍波に手を差し伸べた。「頑張ったな」
「…………」また、子供扱いをする。何となく、伍波は小さな反骨精神が芽生えた。
「おまえ……」伍波が金崎の手を取る時に、彼はそんなことを言った。伍波にその発言の意図は理解できなかったが、なんだか、頭から流れてくる血液の量が、さっきよりも増していることに気が付いた。――ああ、拙いな、と思ったところで、ぐらりと揺れ、前のめりに倒れ込む。
地面に落下する身体は、金崎の腕に止められる。自分の頭から、ぼたぼたと液体が地面に落ちた。ああ、どうしよう。金崎さんに迷惑がかかる、と心配したところで、その灰色の地面に落ちた液体に、すでに色が付いていないことを伍波は目視した。
全身に力が入らず、すでに限界を超えている伍波百花は気づかない。
頭のから流れていた血液はとっくに流れを止めていて、現在勢いよく流れている液体が、実のところ頭ではなく眼球から流れているということに、彼女は意識を落とす寸前まで、気付くことはできなかった。
そんな伍波を、金崎は黙って自分の背に乗せ、伍波の足とPCを持ってその場を後にした。
古木麦奈を確認することもなく、彼女を殺害しようともせず。
伍波百花を背負って、『無言通話』を行うこともせず、呟いた。
「終わったぜ」




