愚者の答え
「邪魔すんなよ。紫蘭」言って、円居は片方に持った剃刀を自分の喉に向けていく。
伍波は最後の手段として声を出そうとしたが、舌が痺れ、声を張り上げることすらできない。
――円居っ。
血液が、飛び散るビジョンが見えた。一番最初、数週間前に初めて人を殺害する瞬間を見た時。黒句轆轤という殺人者が、家納割率を殺害する瞬間。あの映像が今の友人の姿に合わさる。
剃刀の柄に、力が入るのがはた目から見ても認識できる。
周囲の人間は無関心に通り過ぎていく。
伍波は動けず、その場に座り込んでいる。
その、細い首に、銀色に輝く刃が当てられ、強く刺し込まれながら右側に引かれる。
動脈も気管も一緒くたに引き裂いて、血の飛沫が上がる。
それを両者が覚悟した時、円居の後ろから伸びて来た手によって、その刃はすっぽりと握り込まれ、首に一ミリほどの切り傷をつけたのみで刃は動きを停止した。
円居と伍波の視線が、一斉にその手の持ち主に向く。
そこには、帽子を被った少年が一人、萩原円居を睨みつけて立っていた。
「なにやってんの? おまえ」
その声に、円居は反応する。まだ若い、少年の声色に。
「……赤岸、くん?」
――赤岸、赤子?
その名前は、黒句がアリーナで撃退したという、米崎一派の犯罪者の名前ではなかったか。
実際に対峙していない伍波にその判断は不可能だが、円居がそう言うと、帽子の少年、赤岸赤子は握った剃刀の刃を折り曲げ、アスファルトに投げ捨てた。
「無事、だったんだ。どうやって、脱出したの?」
「タァーコ。どっちもしてねえあんたに言う訳がねえだろうが。自殺なんかしようとしてんじゃねえよ。父親の騒動がそこまでショックかよ。まさか米崎にでも命令されたとか?」
赤岸は、近くのアスファルト、そこで立てなくなっている伍波に目を向ける。その黒い外套を視野にいれ、その正体をすぐに看破した。
「ああ、テメー、あの靄共の一人か。はあん」伍波は、痺れた手足で赤岸を警戒するように睨みつけるが、当の赤岸は興味をなくしたように伍波から目を離した。「米崎一派としてテロする為にここに来た訳じゃねえよ。ただ、一派の同期が馬鹿やってるから見に来ただけだ。早まんなやタコ」
「――なんで」円居が、赤岸を睨む。「なんで邪魔したんだよ。犯罪者のくせに」
「あぁ? なんだそりゃ。邪魔なんぞに理由なんかねえよ。あんたが馬鹿やってたからむかついただけだ。いっぱしの口を叩いてんじゃねえよ。自殺者が」
「…………」伍波は、両者の関係性を知らない。ただ、同じ米崎一派にいるのなら、互いに認識を持っている程度だろうと、この時は考えた。
「しかし、まあ」赤岸は、剃刀を失い、アスファルトの上に座り込む円居と同じ高さに座って瞳を覗き込み、顔を近づけて言う。「あんたやっぱ、馬鹿だな。米崎に言われて自殺しますじゃ、てめえの判断すらできてねえじゃねえか。前々から頭の悪いガキだとは思ってたけどよ。まさかここまでの脳なしだとは思わなかったぜ。あのまま喉引き裂いては方がよかったかよ?」
萩原円居は答えない。赤岸赤子は、その様子を見てつまらなそうに舌を打った。
「言い返せねえならやるんじゃねえよ。――くだらねえ」
そうして、さて、と言って赤岸は立ち上がる。同じくアスファルトに座り込んでいる伍波の姿を視野に入れた。
「そろそろとんずらするぜ。このままここにいると、テメーら靄が――特にあの野郎が来そうなんでな。電話以外に通信手段を持ってるんだろ? テメーら。古木が言ってたぜ。下手に仲間でも呼ばれて、あの時みたいな二度舞は御免だ」
じゃあなと、彼は手を振りながら、人ごみの中に紛れていく。伍波はホルスターからグロックを抜こうと努力したが、結局、彼が人に紛れるのが先だった。
「…………」萩原円居は放心している。ここ数時間に起きた諸々の事柄が、彼女から動く力を奪っているのだろう。伍波は、次第に動くようになってきた手足を使い、這うように円居に近づくと、まだ痺れている舌を懸命に動かして、彼女に話しかけた。
「円居、戻ったほう、が――いいよ」萩原円居は、伍波に方に向く。どこに? と両目が訴えていた。「お父さんの、ところに。立てる?」
体重も支えられないほど麻痺した足を地面につけながら、伍波は友人に手を差し伸べる。
萩原円居は、その手を両手でつかんで、伍波に顔を近づける。
「答えて」脅迫的でも怒りを伴っている訳でもなく、萩原円居は伍波の手を強く握りしめながら、口にする。「あなたは――立花紫蘭、だよね? わたしが知ってる、紫蘭なんだよね?」
伍波百花は、そんな友人に、『かつての自分』がよくしていた表情を、作った。
記憶はあるが、気持ちはない。
しかし、きっとその立花紫蘭も、そういった目的で使っていたに違いないと伍波はこのとき実感した。伍波百花の記憶にいる立花紫蘭は、どこまでも卑怯な、人間だった。
その表情を、伍波百花は友人、萩原円居に対して向ける。
他意もなく、意思もなく、思惑もなく。そういったごく自然な、しかし誰が見てもそれは明らかな『作り物』であると分かるような、そんな満面の笑顔を、彼女に向けた。
「そうだよ」




