くだらん意地
萩原円居は交差点にいた。人が何十人も白いストライプの地面を横断しているのを視野に入れながら、彼女はビルに取り付けられた巨大モニターに目を移す。
そこには、昨日、萩原議員が米崎稲峰に人質を取られ、辞職したという報道がされていた。
映像には、国会に侵入し、そして何事もなかったかのように出て行く米崎稲峰の姿が確認できる。昨日、あそこで一体何があったのか。萩原円居には推測できない。
辞職。父が辞職。人質? なんだそれは。自分はここにいる。それに、二日前に円居があのコーヒーショップにいたのは、周囲の人間も気づいていたことだ。この報道は狂っている。いや、それをすべて鵜呑みにして、信じ込む人間もまた、おかしい。
萩原円居本人は、確かにここにいるというのに、彼女に気付く人間は、周りにはいない。
結局、そんなものでしかないのか。自分は、その程度だと。
その時、大型の車輪を回してこちらに走ってくるバイクが見えた。スピードは交通法に違反しない程度に、こちらに迫ってくる。そうして、大きな音を響かせながら、円居の数メートル先に駐車した。黒い、若干のシルバーを施された、大型の二輪車。搭乗者はその小さな体躯を巨大なバイクから下ろすために、地面に届かない足を確認すると、バイクから飛び降りた。
ヘルメットを取って見せる。それに乗っていたのは、紛れもなく、友人の立花紫蘭だった。
「――円居」バイクから降り、腰にヘルメットを抱えた伍波は、友人の名を呼ぶ。
「わたし、米崎さんの一派に入ったのって、父親への嫌がらせのつもりだったんだ」
巨大なモニターに目を移しながら、円居は言う。
「父さんがしていることと、話している事情を全部米崎さんに話して、それで、あの人がむきになって、わたしに憤慨するんじゃないかって。それで、議員を辞めさせるつもりだったんだ」
破滅願望。萩原円居は、そこでようやく、自身の内情を友人に吐露した。
「じゃあ、もう済んだでしょう?」
「そうだね。けどさ、これからどうしたらいいんだろうね? わたし」伍波に向けた円居の表情は、中身が何もないかのように、笑っていた。「どうしようね。馬鹿だね。本当に馬鹿だったみたい。あの人が破滅した後のことなんて、ちっとも考えてなかった。壊れた後があるなんて、わたしは想像もしなかった。だから、ね。もう、自分のしたいことが分からない」
目的を失って、取り繕っていた自分が崩壊して、伍波百花の前にいる萩原円居は、芸能人でも議員の娘でもなく、自分も固定化できないただの子供でしかなかった。
それが、萩原円居の本質なのだろう。少なくとも、その一つなのだ。
「じゃあ、どうするの?」伍波は、質問する。
「こうしよっか」そう言って、円居が取り出したものは、スマートフォンだった。
画面を指で操作して、その端末の本来の機能、通話という機能を、円居は使う。数回のコール音が伍波にも届く。不思議なことに、何百という人が犇めき合う場所にも関わらず、その音は伍波の耳には正確に聞き分けられた。繋がったようで、受話器から声がする。
『なんだ』それは、伍波が昨日聞いた、低い男の声だった。
「米崎さん」その名前が円居の口から発された瞬間、伍波は動けなくなった。そうか、と同時に納得する。彼女には、そういう抵抗の手段があった。
米崎稲峰の力は、その特殊な音響を持った声帯によって、他人を洗脳すること。有効範囲は百五十メートル以内で、音を電気に変換しても、それは効力を失わない。つまり、この状況でそれは伍波に対する最大の武器になりえる。
「米崎さん、お父さんが、辞職したね」知っている、と受話器からは声がする。伍波は、その声が、物凄い声帯であることがそのときようやく分かった。この声は他の音響の影響をまるで受けないかのように、独立して拡散し、人間の耳に届くのだ。妨害音を出そうが、耳栓をしようが、これでは防ぎようがない。「米崎さん、どうして、あんなことをしたの?」
『突発的な行動ではない。萩原円居、おまえを一派に入れた時点で決めてあったことだ。芸能活動をしている、議員の娘。これは、政治に関わる人間にとって最大の武器になる。それを、計画通りに、予定通りに実行したにすぎない。おまえもそれを望んだだろう』
それが、今までの円居の目的だった。だが、それを達成してしまった今、彼女は自分というものを見失いつつある。正確には、自分だと思っていたものを、だが。
「じゃあ、米崎さん、わたしは、これからどうすればいいのかな? お父さんが議員を辞めちゃった今、わたしが米崎一派のためにすることって、あるかな」
米崎稲峰は、迷うことなく、提示する。
『自害してくれ』
萩原円居と伍波百花は、同時に固まった。片方は、単純に米崎が言った言葉に対して、もう片方は、米崎稲峰の特性を知っているが故。
『一派の為というなら、おまえに妥当なのはそれくらいだ。時期的に見ても無理はないだろう。父親は議員を降り、自身はテログループに拉致された。拉致のショックによって自殺。国民には一派の影響を多分に与えられるだろう。つまらない案だし、数か月もすれば人々の頭から自然消滅するだろうが、人間に恐怖を与える意味では申し分ない』
そう言って、通話は切られた。伍波は自分の様子を確認し、米崎稲峰が『声』を使用していなかったことを理解する。つまり彼にとって、萩原円居という少女は、ただそれだけの存在でしかないのだ。彼は昨日、自分は人間を対象としたテロをしていると言った。人間と言う種族は彼にとって、人間から見た害虫や、家畜のようなものにすぎないのだろう。
萩原円居は、そのまま手持っていたスマートフォンを落とした。角からアスファルトの地面に衝突した電子機器は、衝撃が一気に画面を貫通し、その液晶を粉々に割った。
円居は、そんなことを気にも留めずに、自分のバッグの中に手を入れる。
茶色のバッグの中から取り出されたのは、野晒しになった剃刀だった。
「――円居っ」萩原円居がしようとしていることが分かり、伍波は彼女に走り寄る。対象を仕留めるのと同じ動きで、円居が捉えられない動作で、伍波はその刃を取り上げようとする。
その時、わき腹に鋭い痛みが走り、四肢が痺れたように、伍波は力が入らなくなってその場に座り込む。
――なにが、どうして。
円居の方へ目を向ける。
萩原円居は、片手には剃刀を、そしてもう片方の手にはテーザー銃を持っていた。
「…………っ」対象にワイヤーのついた針を指し込み、電流を流しこむタイプのスタンガン。
米崎一派の武器を調達していたのが家納割率であれば、萩原円居のような子供でもそのような兵器を持っていることは必然と言えた。だが、伍波はその思考に到達できなかった。




