少女の懇願
立花紫蘭という少女が、以前の依存先だった。だがそれが五か月前に行方不明になり、彼女は恐らく、形を失ったのだ。拠り所を失った彼女が求めた者は、その代わりとなる依存場所。そして次の依存先が、米崎稲峰だ。
無理もないだろう。あんな原始的な思考を持つ男に、多くの大人が賛同するのだ。自分の確立した思考を持つ大人が米崎稲峰という男に依存する。この少女の拠り所としては、彼はこれ以上ないほど自分の『形』を持った人間だ。そこに依存するのは、簡単なことなのだろう。
「悪いけど、きみに言ったことは忘れてくれないか」しかし黒句は、萩原円居の正体を知って、この子供に頼みごとをするのは最善ではないと判断した。「今のきみに、紫蘭を戻すことはできないと分かった。というより、きみが早くそこから抜け出さないと、でしょ」
「抜け出す? 米崎一派にいることを、あなたも否定するんですか? 結局同じだ、父と」
「――円居」黒句が円居に対して何かを言おうとしたとき、両者の近くから声がした。黒句と円居はまったく同時にそちらを向く。そこには、今しがた着いたばかりの伍波百花、会話の中での立花紫蘭が、そこに立っていた。いつから話を聞いていたのか、その表情からは窺い知ることはできない。ただ彼女は、無表情に萩原円居を凝視している。
「――あ」それを視野に置いた萩原円居は、思わず立ち上がる、そうして目の前に立つ友人の両肩に手を置き、疲れ切った顔で声をかけた。「紫蘭――私と一緒に来てよ」
声をかけられた当人、伍波百花は無表情に円居を見ている。
「米崎さんにも掛け合うよ。戻ろう? 紫蘭が来てくれるなら――私は」
伍波百花は、自分の両肩に置かれた手をゆっくりと取り払い、そのまま目線を黒句に向けた。
「黒句さん、私をここに呼んだ理由はこれですか?」黒句は、それに対して困ったように笑い、肩を竦めて見せる。「仕事に戻りましょう。米崎稲峰が姿を隠そうとしていることが分かったんです。それに、葉月さんが黒句さんに伝えたいことがあると。至急、向かってください」
萩原円居は、そこで突き放されたような、繋いでおいた手を強引に振り解かれたような、そんな喪失感に襲われた。「紫蘭」と、最後の言葉を振り絞る。
「……友達として、私が言えることは一つだよ、円居」無表情に、伍波百花は萩原円居を睨みつける。「今すぐに米崎一派を抜けて。それが出来ないなら、私は仕事としてあなたを殺さなきゃならなくなるから」
「――え?」萩原円居はそこで打ちのめされたような顔になる。伍波は、そこから目を離した。
「悪いけど、私は円居のところには行けない。行くつもりもないし、行きたくもない」
そう言って、伍波はコーヒーショップからさっさと出て言ってしまった。
後には、席に残った萩原円居と黒句轆轤が残された。
「まあ、ああは言うけど、あの子はあの子できみを心配してるんだよ」円居は、黒句の言葉など聞こえていないかのように、伍波の方向を見つめている。「まあ、仮にあの子がきみのことを殺そうとしても、俺が止める。気休めだろうけど、あの子に人殺しをさせる気はないからね」
それは、まだ立花紫蘭が人を殺したことがないことを萩原円居に報告するつもりで言った言葉だったが、円居にそんなことは聞こえていない。
老婆心から円居の肩を叩こうとしたが、黒句はしばらく自分の手を見つめて、その行為を取りやめた。
「思いつめないこと」黒句は、耳に入らないであろう言葉を、円居に説く。「きみはまだ十分引き返せる位置にいるはずだ。取り返しがつかない位置にはまだいない。それは、あの子も」
伍波百花が歩いて行った方向を見つめて、黒句は言う。
「絶望するのはまだ早いよ。少なくとも、きみがあの子の敵でなくなれば、きみは、立花紫蘭の唯一の希望であることは間違いない。それだけ、憶えておいてくれ」
黒句はそれだけ言って席を立った。円居は、放心して黒句の言葉は響かなかった。




