聞かない後輩
「到着した」
米崎は、受話器の向こういる古木に報告する。受話器からは、呆れたような、それでいて安堵したかのような、そんな溜息が電子の記号によって流れた。
『知ってるよ、言わなくても。見てるんだから』
米崎が現在いるのは、テープや作成した映像などを発信する、壁に無数の小さなモニターが配置されている部屋だった。米崎自身にその部屋の名称は分からない。彼はそんなものに、今まで興味を持ったことがただの一度もなかったからだった。
米崎はあたりを見回して、辺りで作業をする人間に呼びかける。
「今から十五分後の番組、俺が今持っているテープの音源を、その映像に同調させろ。加えるのは音源だけでいい。映像そのものに加工は加えるな。できるようなら、やく一時間に渡って音源を取り入れた番組を流し続けろ」
一人の男が米崎に近づいてくる。米崎はそれを見て、自分の衣服の中にあったローカルなテープと電子映像になったUSBをそれぞれ男に手渡した。その先の作業は米崎の知るところではない。そちらの事柄は、主に米崎の持っている受話器の向こうにいる相手、古木の方がよく知っている事柄だろう。
『十五分はきついんじゃない? ダビングして、映像を型に合わせて、もう完成している映像に同調して流す作業じゃ、もうちょっとかかると思うけど』
「それはおれが知るところではない。周りにいるこいつらの仕事だ」
薄暗い、いくつものモニターの光源だけが部屋を照らす場所で動き回る無数の人間を、米崎は無感情に眺めている。無数の声が飛び交っているが、それはもう米崎には関係のないことだ。
「やることはやった。あとは、最後の仕上げか」
米崎がそう言うと同時に、建物の内部で何かの音が鳴っていることに気が付いた。壁からだろうか。何か摩擦のような、擬音のような音が米崎に近づいてくる。
その音を感じて、ほぼ反射的に米崎は身を一センチ弱ではあるが後ろに倒した。
その瞬間、音のする壁から何かが飛び出してくる。それはつい先ほどまで米崎が身を晒していた位置を肉眼で捉えられないほどの速さで通過し、何に衝突することもなく局の床に円一センチほどの穴を開けた。それを米崎が認識したのは、それら一連の動作がすべて終わってから、数秒がたった後だった。壁から音がし、気が付いたら床に穴が開いていた、という感覚に近い。
――狙撃。
米崎の脳裏に浮かんだ考えはそのようなものだった。他国にいるときに何度が経験したことがある。音を超える速度で発射される銃弾が、意識すら追いつく間もなく撃ち抜かれるという、疑似的な感覚が。
しかし今、米崎がいるのは室内である。四方を人工素材と鉄によって構成された、長方形の室内だ。そこを狙撃されたという事実は、信じられないものがあるが。
だが起こった以上、疑うより先に、認めて対処するよりない。
原理は知らないが、今、銃弾が数十メートルもある建物を貫通した、と見て間違いはないだろう。速度を一定に保ちながら、摩擦や衝撃を無視して、外部からの銃弾が米崎に届いた。
続いて、二発、三発と局の中に銃弾が飛来する。しかし音がした時点で大方の軌道が読め、それを認識した時点で身を捻る時間がある米崎にとって、それはあまり驚異ではないことがはっきりしてきた。それに、壁をえぐる音が聞こえることと、それを躱す時間があるというのは、銃弾の速度が明らかに低下していることが分かる。床に空いた穴も形が不揃いだ。これは、壁を突き抜けてきた弾丸が、まっすぐに飛んでいないことを意味している。
『――来たよ』銃弾を警戒している時に、受話器から声が発される。壁から飛んでくる銃弾の軌道を確認しつつ、米崎は室内のドアに目を向けた。
「――ほう」
開け放たれた、扉の奥には。
黒い外套を纏った、一人の少女が立っていた。
◆
黒句が取った行動は実にシンプルだった。
刃物を突き出してくる女性の行動に合せ、ただ後ろに飛び、そのまま手にある刃物を蹴り飛ばすという、至極普通な、それだけの行為だった。異常だった点を挙げるなら、それは黒句の反射速度が、女性が刃物を取り出し、突き刺すのとは比較にならないほど速かったことだろう。
蹴り飛ばされ刃物は通路の天井にぶつかり、回転しながら下に落ちてくる。黒句はそれを受け止め、そのまま、後ろに下がりながら目の前の女性の様子を確認する。
「――あれ?」しかし、そこで黒句は異変を確認した。女性は、それ以上は襲ってはこなかった。新たに刃物を向けてくる様子もない。ただ放心したように床に座り込み、黒句でも伍波でもない、通路の先を見つめているだけだった。
刃物を服の中に仕舞って、試しに黒句がゆっくりと女性に近づいて行く。伍波も途中で黒句の後に続こうとしたが、それは黒句が手で制した。女性の目前まで黒句が到着し、それでもその女性が襲ってこないことを認識する。
「こりゃ、少しどころじゃないな。大変おかしい」女性の目前に手の平を出し、ひらひらと振りながら黒句が言う。「彼女、もう俺たちのことなんて視野にないよ」
「――ふざけんな」黒句の後ろから、そんなか細い声が聞こえた。見れば、そこには先ほどまでとは顔つきも雰囲気も変えた伍波が、見るからに機嫌が悪そうな顔で黒句の傍まで近寄って来ていた。ああ、『成った』んだな、と黒句は即座に認識する。「襲っておいてそのあとは何もなしかよ。おいあんた、一体なんだよ。あんたは米崎一派じゃねえのか」
「…………」女性は答えない。その視線も、伍波には向けられていない。
その様子をしばらく視野に入れると、伍波は女性から目を離した。
「行こう、黒句さん。ここにいても時間の無駄だ」
「他人に厳しいね」黒句はそう言って、座り込んでいる女性に目を向ける。その後で、まあ、外傷もなく、肉体に異変もないようだから心配もいらないか、と考えを改めた。「しかし、今この人が出て来たってことは、道的にはこっちで間違いはないのかな」
つまり、この通路を米崎稲峰が通ったと見ていいのだろう。そうでなければ、今黒句の前にいる女性が出て来た理由にならない。
その時、通路の奥から、数十という足跡が一斉に響いてきた。それは黒句と伍波の聴覚を刺激するには十分な音量で、前方から迫ってくる。
「あー、伍波ちゃん。一応これ付けといて」
事態を認識した黒句が伍波にそれを手渡す。黒句が自分の黒い外套から取り出したのは、顔をすっぽりと覆うタイプの、簡易的なガスマスクのようなものだった。
「――? はい」伍波は、黒句の言っていることが分からないと言うように、そのマスクを受け取り、装着する。黒い、無機質なマスクは、一人の少女の顔をすっぽりと包みこんだ。
「応戦するのか?」伍波からくぐもった声が上がる。「逃げたほうがいいんじゃねえか?」
「いやー、無理でしょ。よーく聞いてみ」
そこで、伍波は背後からも無数の足音が響いていることを確認する。前方のものよりは小さいが、それでも人数にして七八人。わずか幅二メートル弱に収まる人数ではない。
そこでようやく、伍波は黒句の言うところの真実を読み取った。
「あ、ごめん。そこ、どいて」黒句の指示に従い、伍波は通路の壁側に移動する。
黒句が自分の分のマスクを点けた時、目の前の角から数十人という人間が、黒句達に向かって走ってきていることを確認する。伍波が後ろを振り向いた時、そこにも既に人がいた。
米崎の近くに来たときに、挟み撃ちができるように待機していたのだろう。その狭い通路内では、確かに逃げ道などどこにもない。しかし逃げ道がないのは、彼らとて同じことだ。
黒句は左右の通路に、一本ずつ筒状のもの投げ放った。それは、昨日赤岸の率いるグループに使用した、催眠霧を発生させる手榴弾だった。
迫りくる人間の中心に、それは拡散する。一瞬で通路は真っ白い靄に包まれた。
「伍波ちゃんっ」黒句は、少し遅く、伍波に叫ぶ。「今来た通路を戻ってくれ。米崎くんが人を配置していたんじゃ迂闊に進むことはできない。きみは外で待機をお願い。米崎くんが出て来たときの保険と、他のメンバーへの連絡のために。局内は俺がやるから」
そこで、黒句は思いがけないものを見た。
睡眠薬を粒子状にし、それを急速に拡散させた白い霧。その中を、黒句が進む方向に高速で駆けていく、一人の小さな姿を見た。何十人もの人の壁を縫いながら、その先へ続く通路に飛び込んでいく黒い髪の少女。
それは黒句が追いつく暇もなく、あっという間にそこから消えてしまった。




