火祭
網膜を焼き尽くす閃光。食い潰される酸素。
それらが赤岸から半径十数メートルを一瞬にして焦土に変えた。
炎が膨張したのはほんの一秒の数分の一という時間内だったが、赤岸の至近距離にいた黒句はその爆発の推進によって数メートル後ろに吹き飛ばされた。
吹き飛ばされる前に黒句が取った行動は、眼と口を閉じ、爆破の範囲から全力で後退しながら回り飛ぶ、という奇天烈なものだった。簡単に言うなら、フィギアスケートの「アクセル」のような動きを、氷上ではないコンクリートの地面で強引に実行した。
爆発の推進によって黒句の身体は急速に回転しながら数メートルの距離を浮かび上がる。
それが防火繊維を含む黒衣を利用した避け方だというのは、黒句自身も認識していないものだったが。回転によって黒句の周りにできた空気流が、迫る炎を振り落した、というのでは、明らかに無理がある。結果として、黒句は刹那の間だけ火だるまになりつつも、着地点に体から衝突し、転がりながらの消火によって、どうにか体に熱が回る前に衣服についた火を消し止めた。
「ぶはっー」周りに炎と煙がないことを確認して、呼吸をする。そうしてコンクリの地面を余分に転がり、体制を立て直した。そこに見えたのは、前方が橙と赤に支配され、熱によって無数に像がゆらめくようになった、非常通路だった。
既に気化していたガソリンの粒子が、熱を伝道して一気に炎として膨れ上がった、というところまで、黒句はまだ頭が働かない。それほどに目の前の光景は驚異であり、同時に赤岸という人物の脅威性を感じていたからだった。
四方を人工石の壁に覆われながら、その炎は消えない。灰色の有害な気体が、出口のない通路を徐々に侵食している光景が見て取れた。
その中から。
炎に焼かれながら、橙の色を放ちながら、自身の身体を燃やしながら。
赤岸赤子は、歩いてきた。
「…………」それは、黒句には悪い冗談を見せられているようであった。
頭髪があった場所には、燃え盛る炎が、毛髪を燃料にしながら食いつぶし。
衣服すべてに炎が燃え移り。
裂けた足は完全に焼け落ち、右足を損失している。
そんな状況になっても、赤岸赤子は笑っていた。笑いながら、燃えていた。
今の爆発は、赤岸にとっての切り札だろう。攻撃よりも、おそらくはぎりぎりの攪乱を想定しての機能。その機能を付けるために、赤岸の表面、体を覆っている人工皮膚はすべて耐火と耐熱に準じていることも当然と言える。それでも、これはさすがに滅茶苦茶だ。
「……よくやる」もちろん、それでは済まされない。最後の最後で抵抗を見せた赤岸赤子に対して、この時黒句轆轤の良心が限界を迎えた。手短に言えば、堪忍袋が破裂した。「わかった。色々試してみたけど、もういいや。きみは。俺はもう、俺の目的を諦める」
そう言った黒句は、すでに使い物にならなくなった黒衣をその場に脱ぎ捨てる。
それを見て、赤岸は体を燃やしたまま、黒句に対して歩いてくる。背中から灰色の煙を吐きながら、赤岸は欠けた足を気にすることもなく、一本足で、飛びながら近づいてくる。
それを視野に入れた瞬間、黒句は通路の後ろ、出口に向かって全力で走り出した。赤岸から見れば完全な敵前逃亡である。
「――逃がすかタコ」そう口にして、残った足の人工筋肉を最大の出力で使用する。その跳躍は、踏み込んだコンクリートの地面に罅を入れた。赤岸は黒句に向かって飛び上がる。さながら火を帯びた弾頭のように、ゆらゆらと燃える火を纏いながら、黒句に突進した。
一本足の状態にも関わらず、残された三本の肢を器用に使いながら、足の足らない蜘蛛の様に、赤岸はコンクリートの地面を這いながら疾走する。
重量で言えば、赤岸赤子の体重は、黒句轆轤の半分にも満たない。しかし速度の面において、それは確実な差となって黒句の走行すらも凌駕した。
背後に熱気を感じて、黒句が後ろを振り向いた時、そこあった光景は、橙色に光る巨大な光源が、すでに黒句の顔に対して手を伸ばしている姿だった。黒句はそのまま回転させた身体を後ろに倒し、目の前の走る火だるまを視野に入れながら、後ろ向きに地面を蹴り始める。
すんでのところで、炎に侵食された腕を躱す。そのまま、赤岸を視野に入れながら後ろ向きに走り続ける。単純なスピードでは赤岸に追いつかれる。ならば、赤岸を真に受ける姿勢を取り、黒句自身が赤岸赤子に速度で追いつかれた際に迎撃ができるような姿勢に変えた。もう一つ理由を挙げるなら、もし赤岸がここからの逃走をその身体で選択した場合、黒句は赤岸を確実に仕留める用意をした、ということでもあるのだが。
「ま、つっても」迫りくる赤岸を視野に入れながら、黒句はそう呟く。実際に黒句自身に赤岸の迎撃は可能だ。もしもう一度あの規模の爆破をされることを考えれば、もう少し慎重にならざるを得ないが、しかしあの規模の爆発を起こすには大量のガソリン燃料がいるはずだ。その燃料は、間違いなくあの赤岸赤子の人工体内の中に蓄積されている。一度あの規模の爆破をやってしまった以上、あれと同様の爆破をするだけの燃料は、もう赤岸の体内には残っていないだろう。そう考えて、黒句は現在の行動に移行した。だが捕まれば終わりな状況は変わらない。
この時黒句の頭にあった計画は一つだけだ。そのために黒句が今していることは、とにかく赤岸から逃げることと、自分が後ろ向きで走っている時の歩幅をできるだけ同じにし、数えること。あとは完全に時間と忍耐の勝負だ。一度でも赤岸に捕まればそこで計画は頓挫する。
しかし、今の黒句から見て、赤岸に捕まる心配はない。片足を失ってその走行速度は予想外だったが、それにしても今の赤岸には、黒句を捉えられるだけの脅威はない。
そう考えた、途端だった。
それまでまったく一定のペースで走っていた赤岸の身体が、急に速度を増して黒句に飛び込んできた。右手を前に突出し、黒句の顔を鷲掴みにしようとする。が、黒句はその腕をつかみ、赤岸の方向へ押し戻す。その時点で、それまで続いていた両者の逃走と追走が完全に停止した。
「……っづい」じりじりと、黒句の手が炎に侵食されている。熱が皮膚から手の筋肉にまで到達している。それが感覚で感知できるほど、赤岸の全身は高温で包まれていた。
「さて、黒いの」赤岸の口が、炎に焼かれながら開かれる。それは擦れ、乾き、それでも発された、声だった。「おまえの目的は、大方オレ達をここに閉じ込めようって魂胆だろ。それは認める。もうオレは、正直に言えばここから出るだけの燃料も起動形も持っていない。無理に外に出たとして、外に待機してるおまえの仲間に潰されるだけだ」
「……そこまで分かってて、今もこの松明みたいな腕を俺に伸ばしてる理由は何よ」
「道連れ根性だ」
「あー、そう」呆れきった声を発すると同時に、黒句は片方の足で赤岸の側頭部を思い切り蹴りつける。直撃は脛の部分。本気で入れれば頭蓋骨を粉砕するほどの強度を持つその部位で、赤岸の『生身』である脳を揺らす目的で、手加減を抜いて蹴りつけた黒句だが。
それはあっさりと、赤岸のもう一本の腕で防がれた。
「…………」防がれると同時に、そのまま片方の足を掴まれる。その力は強く、黒句の足首の骨を握力だけで粉砕しそうなほどで、無理に振り解こうとすれば、それだけで黒句方が自壊しそうだった。「うーん、拙かったな、足を出したのは」
炎の奥で、赤岸の口が歪む。
「なあ、オレのガソリン散布口、どの位置にあると思う」そんな風に、赤岸は笑って言う。「おまえだって気が付いてるんじゃねえか? オレが爆破を起こせる原因はガソリンを事前に空気中に撒いてるから。そしてその燃料もオレの体内から散布してる。さっきの大爆破でかなりの量を消費しちまったが、それでも若干は残ってる。そこで、だ」
強く、黒句の足を掴みながら、赤岸は言う。同時に黒句に伸ばしている腕にも一層の力が加わった。それは腕を押し戻していた黒句を力で押し返すほどの腕力で、黒句の顔に向けて炎の腕が徐々に伸ばされていく。
「ある部分にだけ極端にガソリンを散布して、気化する前に火を点けたらどうなると思う? 例えば、今掴んでる。この足とかにだ。さっさとネタバラシをするけどよ、オレの両の手のひらにはガソリンを噴き出す口がついてる。この状態だ。火種は、愚問だよな?」
小規模の爆破。いや、それでなくとも小規模の焼却。黒句の肉体は赤岸とは違い、当然耐火の素材などでは造られていない。例え今の赤岸のように千切れ飛ぶことはしなくても、焼かれてしまえばその時点で黒句に走行は難しくなる。それに黒句は、唯一防火の効力を持っていた黒衣を捨ててしまった。赤岸の言うことが本当に行われるのだとすれば、それは、黒句の敗北を意味する。
「ごめん、言い方が悪いけど」黒句は呆れた声を出す。「それを言っちゃうのは馬鹿だと思う」
黒句が取った行動は、ズボンのベルトに掛けていたあの大振りなナイフを引き抜き、今自分の足を掴んでいる赤岸の手首を、その重い刃物を振り下ろして叩き潰す、という行為だった。
できるだけの最速で、できるだけの最強の力を込めて、赤岸の手首に重量を持った刃を激突させる。切断が不可能なのは最初から分かっていた。もともと無機物で作られている赤岸の腕を、肉を裂く為に作られた刃物で切断することは難しい。精々が破損というところだ。
だから黒句は、その破損を狙うことにした。
振り下ろし、刃物が手首に直撃した瞬間、ごきり、という鈍い音が赤岸の腕から鳴った。
骨格の役割を果たす、人工骨が折れた音だろうか。しかしここで黒句の予想外だったのは、生身とは違い、例え骨格が失われても赤岸の握力そのものはさほど変質しなかったことだ。
――伝達は破壊できていないか。
しかし、バランスの基盤は破壊した。ここからはお互いの速度の勝負だ。
黒句が次にとった行動は、叩き付けたナイフの返し刃で、赤岸の指を切断する、というものだった。振り下ろしたナイフを手のひらでぐるりと回転させ、再び逆手に持ち替える。振り下ろしからの反対、今度は重い刃を上に持ち上げ、その五本の末端を刃先に狙う。
威力も速度も振り下ろしの時とは劣る。しかし今回は読み通り、赤岸の指に食い込み切断した。予定外だったのは、精々二本が限界だった、というだけだ。
しかし、それで十分。
切り取ったのは人差し指と中指の二本。それらを失った赤岸の手は、黒句の足を掴む動作に力を入れ続けることが出来ず、黒句の抵抗によってそれを取りこぼした。
掴まれていた足を解放された黒句は再度後ろに下がりつつ、突き出されていた赤岸の腕を振り払う。右足、左手の末端の一部を失いながら、それでも目の前の赤い火だるまは止まらなかった。残った足と、腕についている一本の腕を地面につけ、器用に態勢を取りながら走ってくる。四肢の内、その半分しか扱わない走行でなぜそんなことができるのか。
執念。それが相応しいにように黒句は感じた。彼は、自身の軽量化のことや、全身に火が燃え移ったことなどよりも、前に進むことを選択した。その理由を、黒句は知らない。いや、むしろ知らなくてよかったとさえ思う。そんなもの、知りたくもない。
黒句はひたすらに後ろに下がり続ける。この細長い通路の最終到着点は地上への出口だ。そこに赤岸が到達されれば、このつばぜり合いは実質的に黒句の敗北になる。




