鍛錬
練兵場の朝は早い。
夜勤以外の騎士や騎士見習いたちは夜明けと共に起き出し、宿舎で朝食を取る。連帯感を強めるという目的で、そこでは誰もが同じ物を食べる。
そして食べ終わるとそれぞれの所属する騎士団が使用する練兵場に向かい、鍛錬を開始するのだが。
(私達も、例外じゃないんだよね……)
皇城の端にある練兵場に自分の馬であるエリザベスに乗って向かいながら、セリアは兜の奥で欠伸を噛み殺した。
騎士たちとは立場が違うらしいとはいえ、鍛錬する時間が違うかと言えばそうではない。セリアもレイも、夜明けと共に起きて朝食を取り、早い時間から練兵場で剣を交えるのだ。
前方に、何かを抱えている侍従の姿が見えた。彼はセリアに気づくと慌てて道の端に避け、深く頭を下げる。そんなに畏まってくれなくていいのに、と少しむず痒い思いをしながら、セリアは形式通りに軽く手を上げて彼の前を通り過ぎた。
昨日の夜は、あまり寝付きが良かったとは言えない。ベッドに入ってからも色々なことが頭に浮かんできて、結局一時間以上は寝ずに起きていたような気がする。おかげでセリアを起こしに来たアンナにも随分と苦労を掛けてしまった(セリアがぱっちりと目を開けた時にはアンナは今にもへたり込みそうになっていた)。
広い広い皇城の敷地を、パッカポッコと蹄の音を立てながらエリザベスは歩く。本当は疾駆けでもさせたいところなのだが、今セリアのいる敷地内では馬を走らせるのは禁止だ。実際、皇族やよほどの身分の臣下以外で皇城での常の馬の使用を認められているのはセリアとレイだけである。あとは非常時に限り伝令などが馬で行き交うこともあるが、それも滅多にない。
(こうやって楽に乗れてるのも、聖剣のおかげなんだよね……)
思いつつ、軽装鎧の剣帯に吊った聖剣に軽く手を触れる。手の触れた部分にわずかに温かさが伝わった。
そう、セリアは聖剣から"戦闘の加護"とでもいうべきものを常時受けている、らしい。おかげで信じられないほどに基礎体力は向上しているし、いざという時に出せるパワーも素早さも段違い。実際には十キロは軽くあるだろう重装鎧も、せいぜい普通の服を着ているくらいにしか重さを感じない。たったの三ヶ月ほどで何年も鍛錬を重ねてきた騎士たちと互角に戦えるのも、それのおかげだ。
そしてそれは、レイにも同じようなことが言える。コルウェル曰く、聖剣の加護が波及した結果だということだが、だとしたらもう少し私の方にウェイトが掛かっていてもいいのに、とセリアは思う。男と女で元々のポテンシャルは違うだろうが、セリアが聖剣を持っているのだからせめてレイと同じくらいに強くなるように調整されればいいのに、と。
そんなことを思いながら馬を進めていると、ようやく目的地の練兵場が見えてきた。すでに皇城の外れ、ここまで来れば疾駆けしても構わない。セリアが手綱をぴしりとエリザベスの首に当てると、エリザベスはセリアの意図を正確に汲み取って軽快に駆け始めた。
■ □ ■
「どうした嬢ちゃん、寝坊か?」
セリアが練兵場にまで辿り着いてエリザベスを柵に繋いでいると、一人の男がのっしのっしとセリアの方にやってきた。
ジェームズ・バルフォア。平民から叩き上げで最高位の武官である大将軍にまで登りつめた、生粋の武人である。彫りの深い顔立ちに190センチ近い身長、筋肉の鎧で覆われたような肉体は鈍重そうにも見えるが、彼が誰よりも疾く、誰よりも重い剣戟を放てることをセリアは知っている。
セリアが実は女であることを知っている、数少ない人物の一人だ。
「……遅刻しましたか、私」
セリアは少し焦った。部屋を出たのはそんなに遅くはなかったと思うのだが……
「いんや、大丈夫だ。ただ全身の雰囲気が気怠げだからな、昨日は寝れなかったか?」
そういうことかとセリアは納得した。
バルフォア曰く、一流の武人はその人間を一目見ただけでその日の体調や食生活を詳細に言い当てることも可能らしい。何でも、人の体の構造や弱点、気の流れを知り尽くした結果なんだそうだ。いきなり言われると驚きもするが、セリアも最近はかなり慣れっこになっていてた。
「ええ、ちょっと目が冴えてて。でも特に問題なく訓練できます。……レイは?」
セリアの問に、バルフォアは太い親指でくいっと後ろを指差した。
「また騎士たちとガチの勝ち抜き戦をやっている。俺がさっきまで見た限りじゃ、もう十人は抜いてたな」
ああ、通りで雄叫びやうめき声がいつもより多く聞こえてくるわけだと、セリアは溜息をついた。
訓練を始めた当初こそ大人しくセリアと大将軍の指南を受けていたレイだったが、最近はめっきりその機会が減っていた。代わりに彼は騎士たちに交じって鍛錬をし、共に昼食を取る。そして、今日は何人伸しただなんだと他の騎士たちと自慢気に語り合うのだ。
「嬢ちゃんも混じってくるか?」
「いえ、私は……」
遠慮します、とセリアは答えた。
訓練とはいえ、何人もをバッタバッタと薙ぎ倒したり薙ぎ倒されたりするのはセリアの好むところではない。それなら騎士の中で誰よりも強い大将軍相手に訓練をした方がよほど良い。
それに、何もわざわざ、自分が女であるとばらす危険を犯しに行く必要はない。別に個人的にはバレても構わないのだが、そうなっては契約違反だ。湊太を探すという約束に差し支えるかもしれない。
「そうか……だがそのうちあそこにぶち込むからな。そろそろあいつらとも関わりを持たないと駄目だ。それに、いくら嬢ちゃんが付け焼き刃の武人だとはいえ、魔物を相手に躊躇してちゃ先に進めない」
バルフォアの溜息混じりの言葉に、セリアはぎくりとした。
「昨日の、話ですか」
「そうだ。敵に情けをかけるなって教えたのは忘れちゃいないな?」
セリアは肩を落とした。
漏れたのはレイからだろうか、それとも大将軍補佐官のアベルからだろうか。何となくレイからのような気がする。
「……ちゃんと、覚えてます。戦えるようには、なりました……」
最初は魔物と相対して襲いかかってこられると、腰が抜けてまともに剣も合わせられなかったのだ。これでも大した進歩だと思う、とセリアは上目遣いにバルフォアを見るが、やはり彼はもう一度溜息をついた。
「そうだな、進歩はしてる。でもな嬢ちゃん、これが戦争になると、相手を殺せないっていうのはそのまま自分が死ぬってことを意味するんだぞ。誰も周りの人間を助ける余裕は無くなる。女がそこについて男より情け深いというか臆病なのは分かっちゃいるが……」
そこまで言ったとき、セリアは急にバルフォアの体が膨れ上がったような気がした。
来る。セリアは視覚ではなく直感でそう思った。
咄嗟に左手を聖剣に伸ばし、鯉口を切る。そのまま右手で高速で聖剣を引き抜き――ここまで僅かコンマ秒以下――
ガキイイィン、と音を立てて、バルフォアの剣とセリアの聖剣が激突した。
「……良い反応速度だ」
しばらく鍔迫り合いをしながら腹を探り合うように視線を交差させた後、バルフォアが剣を下ろしてニカッと笑った。
それを見て、セリアも無意識に詰めていた息を吐いた。心臓がどくどく言っている。
「びっくりしました……」
「だろうな。そのびっくりしたのは、剣を抜く前か抜いた後かどっちだ?」
訊かれて、セリアははて、と考え込んだ。
普通なら、バルフォアが剣を抜こうとした時点でびっくりして固まってしまってもおかしくなかったはずだ。
しかし実際には、セリアは躊躇うことなく剣を抜いてバルフォアの奇襲に対応した。いや、まず彼が剣を抜く所すら見てはいなかった。それは……
「抜いた後です。鍔迫り合いに入るまで、多分何も考えてませんでした」
セリアの答えに、バルフォアは満足そうに頷いた。
「それが正解だ」
「正解?」
「そうだ」
バルフォアは剣を鞘に納めると、改めてセリアに向き直った。
「殺しのコツはな、反射なんだよ、嬢ちゃん。冷静に考えたら、生き物を殺すのは俺だって好かん。騎士どもの大部分だってそうだろう。だがな、いざこちらを殺そうとして来る敵と向かい合えば、そういう価値観はいったん頭から締め出される。目の前に迫った殺意に反射的に対応して、きっちり止め刺すまでの動作ができる。それを教えたいんだよ」
バルフォアは真剣な表情だ。
「本来騎士は、小さい頃から動きを体に叩きこむことでその心の置き方を自然に習得するもんなんだけどな。嬢ちゃんの場合は、今までいた平和な環境から一転、それをたったの数月でやらにゃいけん。しかも聖剣の加護のおかげで戦闘力だけは一人前と来てるから、余計に心の問題が表に出てくる」
確かにそうだ、とセリアは思った。
こちらに転移してから3ヶ月で、もうセリアは馬に乗れる。剣を振れる。戦える。
聖剣の使い手であるがゆえの特殊能力のようなものは一向に芽生える気配はなくて少し焦りを感じ始めてもいるが、それでも能力だけで言えば一流の騎士と同等なのだ。
そして、だからこそ心が体を鈍らせる。
未熟な時分なら、無我夢中で敵と渡り合ううちにその心構えも両組みで学んでいくことが出来るが、今セリアにはその一本の柱だけが欠けた状態なのだ。
考えてみれば傲慢な話だと思う。必死に殺そうとして来る相手に向かい合って、殺すか殺すまいかと考えながら戦うようなものなのだから。
だが現代日本に生まれ育ったセリアにとって、簡単に割り切れというのも無理な話だった。どうしても怖いし、罪悪感がある。
やはりそこは無感動に出来るようになるべきものなのだろうか。それは違うだろうと心のどこかで声がするが、じゃあどうしたら良いのかと言われると何も言えない。
「嬢ちゃんと坊主の違いはな、その殺しの意識の違いだろう。あいつはもう、反射で殺しに行けるための、経験に代わる何かを持ってる」
それが良いことなのか、どんなもんなのかは俺は知らんがな、と大将軍は苦笑した。
セリアがレイにコンプレックスを持っていることまで見抜かれている。そして、それを諭してくれてもいるのだ。
「ありがとう、ございます」
セリアの言葉に、バルフォアはひょいと眉を上げた。
「創造神がなんだって異郷にいた嬢ちゃんと坊主を引っ張ってきてまで、嬢ちゃんを聖剣使いに据えたのかは俺の知れるこっちゃないが、きっと何らかの理由があるはずだ。だったらいつ何にでも対応できるように、どんな魔族と相対しても良いように少しでも強くなっとくべきだろ」
「はい、頑張ります」
そう、湊太の行方はこの世界でも見つかっていない。日本に帰る方法も分かっていない。
ならばセリアは、少なくともそれらが見つかるまでは、この世界の人々が望むように聖剣使いとして生きるべきなのだろう。
「さぁ、辛気臭い説教は終わりだ嬢ちゃん」
バルフォアがぱん、と大きな掌を打ち合わせた。
「今日のぶんの鍛錬を始めようや。内容は良いな? まずは体作りからだ」
「はい!」
■ □ ■
その後は、いつも通りに大将軍と鍛錬をした。走り込みからの素振り、組み打ち、模擬戦。
訓練とはいえ、バルフォアは一切手抜きをせずにセリアを扱く。セリアも、一心不乱について行く。鍛錬が終わった頃には、セリアもバルフォアもかなりの汗をかいていた。
「さっきは急かすようなことを言ったが、嬢ちゃんが魔物ではなくて魔族と本格的にぶつかるのはもう少し先の話だろうな」
鎧を脱いで、手洗い場で濡らした布で気持ち良さそうに顔を拭うバルフォアが何とはなしに言った。
「そうなんですか?」
「ああ。これまで、魔族に攻め落とされた国の話はコルウェル大司祭から聞いてるな?」
セリアは頷いた。
今までに魔族に攻め落とされた人族の国は7つ。一つが帝国、あとの6つが王国だ。
「一番最近のが、キーン王国ですよね」
「そう。攻め落とされたうちで唯一のグラディウス帝国の属国だな。三月前のことだ」
セリアはバルフォアに続いて、手洗い場で自分の手拭いを濡らした。井戸で冷えた水が火照った体に心地良い。
「これまでの経験からすると、魔族どもは広い領土を攻め落としたあとはしばらくそこから動かない。そこでやってる事といやぁ、そりゃ酷いもんがあるがな。まぁ何はともあれ、今回は国一つだ」
だから、少なくとも一年くらいは魔軍に動きはないだろうよ、と大将軍は言った。
「キーン王国と隣接してるリヴァーズ王国の方にゃ、すでに本格的に帝国の軍を配置してる。魔軍に動きがあればすぐに分かる。攻め込んで取り返す力は無いことが痛いが……」
「つまり、私はあと一年くらいの間にもっともっと強くなって、魔族を倒せるくらいになれば良いんですね」
「そういうこった。でも魔族だけなんてケチなこと言わねぇで、魔王くらい倒せるって言えるくらいになって欲しいな」
魔王……完全に勇者VS魔王の構図だ。
「……頑張ります。聖法も剣術も」
「おう、聖法はコルウェル大司祭から習ってるんだろ? だったら一年後には堅いな」
「剣術だって閣下がいるんだからきっと大丈夫です」
「お、嬉しいこと言ってくれるねぇ」
がっはっはと笑うバルフォアにつられて、思わずセリアも笑ってしまった。
彼と話していると、大体のことは何とかなるかもしれないと思ってしまう。剣術も聖法も、一年後にならきっともっと上手くできるようになっているだろう。きっと湊太だって見つかっている。
あれ、でもそうなったら、セリアが聖剣使いとしてここにいる意味も無くなるのではないだろうか。セリアは湊太を探してもらうことを条件にして、ここで聖剣使いとして訓練を受けているのだから。
しかしどちらにしても、向こうに帰る方法が分からなければどうにもならないのか……?
と、そこまで考えたところで、セリアの耳はは遠くから馬の蹄の音が急速に近づいてくるのを拾った。
これは、相当に馬を酷使している音だ。駆けさせたばかりの馬に比べて明らかに蹄の音が重いし、音の間隔も狭い。
はるか遠くの建物の角から、土煙とともに黒毛の馬が姿を現した。馬には一人の男が乗っている。身なりは旅支度のもので、所々がくたびれているが、馬の装備品と制服は間違いなく騎士のものだ。今は決して暑い季節ではないのに、馬も男も全身から湯気を立たせている。
「伝令、伝令……! 大将軍閣下は、何処に!?」
「ここだ! なにがあった!」
そうか、あれは伝令なのか。セリアが呑気に思ってる横で、バルフォアが高く手を上げて騎士の叫びに答える。その間にも馬はもの凄い速度でセリアたちのところに駆けて来たかと思うと、騎士はほとんど崩折れるようにして馬から降りた。
「その徽章は、紫閃騎士団の……!? 何事だ。とにかく休め」
バルフォアが、手ずから手洗い場においてあったコップに水を汲もうとする。しかし騎士はそれを受け取るよりも前に、懐から捻り出すようにして一通の手紙を取り出した。
「ありがたき……お言葉です。しかし、まずは……これを、お読みください。紫閃騎士団団長からの、ものです……」
手紙は所々が湾曲している。ずっと騎士が懐に入れていたからだろう。
バルフォアは騎士から手紙を受け取ると、手早く封を切って目を通し始めた。代わりにセリアがコップに水を汲んで、まだ崩折れたままの騎士に渡した。
「……ご苦労だった。今日は良く休むといい」
手紙に目を通し終わったらしいバルフォアはそれを丁寧に懐にしまって騎士を労う。そのまま彼は、しきりに恐縮する騎士を鍛錬場の入り口まで送り届けた。
いつの間にか、柵の向こうで鍛錬をしていた騎士たちもこちらを伺っていた。バルフォアはそれに続けろと手を振ると、セリアを真剣な目で見た。
「嬢ちゃん、俺がさっき言ったことは間違いだったかもしれん。魔軍が動き出したとの報告だ」