帰還
浴室の外から自分を呼ぶ声で、セリアははっと我に返った。
どうやら随分と長い間、湯船に浸かって考え事をしていたようだ。
聖剣使いのセリア・エンドゥとその守護騎士レイ・カーク、そして大将軍直属の精鋭騎士団の一つである蒼穹騎士団は、つい数刻前に今回の任務地だった皇都の外れの森から皇城に帰還した。騎士団はそのまま解散となったが、セリアとレイ、大将軍付き補佐官であるアベル・オハラは大将軍への魔物殲滅の報告を済ませ、簡単な労いを受けた。
その後ようやくセリアは今日の任務、もとい修行から解放され、自分の部屋に戻って来たのだ。
湯船に浸かったまま、両手をすっと持ち上げてみる。花の香りの移ったお湯が、毎日剣を握って硬くなった手の平を滑り落ちていった。
丁度いい熱さの湯が、今日一日の疲れを拭い去ってくれるようだ。円形の、白を基調とした浴室の隅には青い花が生けられていて、それもまた癒やしの一つだ。
今セリアが使っている部屋は、こちらに転移してきた日に皇帝に謁見したその足で、コンラッドに案内されて与えられたものだ。エリアス宮という、元は他国の外交官などが逗留する場所のようで、広い豪華な部屋に、これまた豪華な設備のお風呂とトイレに衣装部屋、寝室まで付いているという、まるでホテルのロイヤルスイートルームのような様相だ。最初ここに住むのだと言われた時は、あまりに豪華過ぎて目眩がしたものだ。
「セリア様、かなり長く入っておいでですがいかがですか? お湯がぬるいようなら沸かし直します」
再度扉の外から声をかけられて、セリアはようやくこの心地良い湯から出る決意を固めた。加減は大丈夫、もう出るよ、と返して、勢い良く湯船から立ち上がった。
脇に掛けてあったタオルである程度体を拭い、要所を隠しながらバスルームから出ると、案の定、女官であるアンナがふわふわのバスタオルを持って控えていた。
「いつも、恥ずかしいから置いといてくれたらいいって言ってるのに」
セリアが苦笑しながら言うと、アンナはとんでもありませんと言うように首をぶんぶんと振った。
「これ以上セリア様のお世話をさぼったら、アンナは女官長から酷く叱られてしまいます! ですからどうか大人しくお世話されてて下さい」
そう言えば、初めてお風呂に入った時はこの子がお身体を洗いますと言って聞かなくて説得するのに苦労したなぁ、と笑いながら、セリアはアンナからバスタオルを受け取った。
言葉使いももっと堅苦しかったのを、ラフなものでいいと言い続けてようやく今の敬語まで落ち着けてもらえたのだ。
このアンナという15歳の少女女官には、セリアがこの部屋を使うようにと案内されて来た時、ちょっとした出来事が元で身の回りの世話をしてもらうことになった。
本来男の振りをしなければならないセリアには侍従が付くはずだったのだが、ただでさえ身の回りのことは自分でしたいのになんで見知らぬ男に世話をされなければならないのだというセリアの忌避感と、その出来事が割とのっぴきならない物だったこともあり、アンナに白羽の矢が立ったのだ。おかげでその時下っ端の侍女見習いだったアンナは一気に女官へと大出世を果たし(貴人の世話をする筆頭は侍従か女官でなければならないらしい)、セリアが女だと知る人間はできるだけ少ない方が良いと言うことで、今はセリアの身の回りのことを一手に引き受けてくれている。
しかし少年であるはずのセリアの世話を少女一人で見るというのもあまり世間体がよろしくないということで、今はアンナの他にもう一人、モンタギューという名の老人が侍従としてセリアに仕える形となっていた。
セリアがバスタオルで体を拭いていると、すかさずアンナが部屋着を持ってきてくれる。礼を言って袖を通すと、湯上がりの火照った体にひんやりとした純綿の感触が心地良くしみた。
「夕食には遅い時間なので、軽食を準備しました。お食べになりますか?」
アンナに聞かれて、芹は急に空腹を覚えた。確かに昼から何も食べていない。セリアは夜遅くに食事は取らない主義だが……一日くらいなら、良いだろう。
「うん、食べる。飲み物は何かハーブティー淹れて」
「分かりました!」
許されるならあっちの世界でカモミールティーが飲みたいと思いながら、セリアはメインの部屋に戻った。部屋の中央付近には背の低いテーブルが置いてあり、そこに夜食が並んでいる。様々な具を挟んだサンドイッチにスコーンに似た焼き菓子、シュルという甘酸っぱい果物を使ったタルト。どれもとても美味しそうだ。
少々行儀悪くソファに座りながらそれらを摘んでいると、アンナが茶器一式を持ってきた。そのままセリアの目の前でお茶を淹れ始める。
その様子をぼんやりと眺めながら、セリアの思考は先ほどの戦いの時のことに飛んだ。
魔物を剣で薙ぎ払った感触は、未だ色濃く残っている。
篭手で魔物の剣を受け止めた感触も、そして、レイに言われた言葉も。
今回魔物を倒し損ねていたのは完全にセリアの落ち度だ。レイがセリア自身に対しても、セリアの力不足に対しても良い感情を持っていないこともセリアは分かっていた。聖剣の様々な恩恵を受けているにも関わらず、同じように修行をしてきたはずのレイよりもセリアは圧倒的に弱いのだから。
加えて、セリアはどうしても実戦になると剣先が鈍ってしまう。全てを躊躇いなくこなし、時にセリアの尻拭いをさせられるレイが苛立ちを覚えるのも当然と言えば当然だ。
でも、あんな激しい憎しみのような感情を向けられていたなんて……と、セリアは肩を落とした。
もしかしたら、レイではなくセリアが聖剣の使い手に選ばれたことを、彼は恨んでいるのだろうか。
(……代われるものなら、いつでも代わったっていいのに)
そう、湊太を探し出すという約束さえ守ってくれるのなら、セリアは別に聖剣使いの肩書なんて要らないのだ。むしろレイが代わってくれるなら、セリアはもう魔物を殺したりしなくて済むのに。
(湊太なら、どうするかな)
隣にはいない幼馴染みに、心の中で問いかけてみる。
いや、問いかけるまでもなく分かる。彼は何でもない顔をしながら、聖剣使いの仕事を簡単に、完璧にこなしていくのだろう。きっとその合間に、何でもないようにセリアのことも守りながら……
「セリア様? もしもしセリア様、お茶をどうぞ?」
アンナの声で、セリアは再びはっと我に返った。考え事してた、ごめんと言いながらティーカップを受け取り、口をつけた。
芳醇なハーブの香りが鼻をくすぐる。
「おいしい。いつもありがとう」
セリアが礼を言うと、アンナはにっこりと笑った。
「そう言って頂けるのが、アンナの一番の喜びです。私はセリア様の使命のお手伝いは出来ない身ですから」
使命。聖剣使いの仕事は使命なのか。
仕事と使命とでは随分と責任感の度合いが違う。やっぱりこれは使命だと考えて頑張るべきなのだろうか。レイは守護騎士を使命だと考えて頑張っているのだろうか。
……どうも、そうではない気がする。
「アンナも、騎士になって手伝ってくれればいいのに……」
思わず口から漏れた言葉に、アンナは目を見開いてぶんぶんと首を振った。
「何をおっしゃいますセリア様! 女性は騎士にはなれません」
「……そうなの?」
「セリア様、女性の騎士を見たことありますか?」
そう言われて、セリアは騎士団の構成を思い返してみた。
大将軍直属の騎士団、皇帝の近衛騎士団、ちらっとだけ見たことがある、地方に遠征する専任の騎士団。その中に女性は……
「……いなかったね、確かに」
揃いも揃って、暑苦しい男性ばかりだった。
「女性の唯一の戦闘職と言えば近衛侍女でしょうか……でも、貴人には専用の守護騎士がつきますから、出番は無いに等しいんです。だから、いくら私がなりたくても、私は騎士になってセリア様をお助けすることは出来ないんです」
「……私は、男のふりして聖剣使いやってるけど?」
「それは特別です! セリア様は換えのきかない、人族を救う至高の聖人なのですから」
人族を救う至高の聖人。魔物一匹に手間取る人間が?
セリアは苦笑した。アンナは本心からそう思っているのだろうし、自分が今ひねくれているのは分かっている。
「……そっか。頑張るよ」
だから、セリアより年下の、亜麻色の髪をした可愛らしい女官に、ただそれだけを言った。
「はい、アンナは女官としてセリア様を精一杯お助けします!」
「うん、ありがとう」
「あ、でも」
アンナが何かを思い出したように、ぽんと手を打った。
「私のいとこが、今年どこだったかの騎士団に見習いとして入団したんです。名をダレルと言うのですが……私の代わりに、きっと彼がセリア様のお役に立てます!」
「へぇ、そうなの」
セリアは目を見張った。
騎士になるには、主に二つの方法がある。
一つは選抜を経て騎士を育成する学校のようなものを卒業し、騎士団に入隊すること。もう一つは騎士団に、騎士団に見習いとして入り、研鑽を積んだ上で騎士に昇格することだ。
前者は主に平民や下級貴族の子が取る方法、後者は専ら中位以上の貴族の子が取る方法である。
その後者はだということは……
「もしかしてアンナって、けっこう良いとこのお嬢様なの?」
いとこが中位以上の貴族だというなら、アンナもきっとそうなのだろう。そんな子にこんなことさせてて良いのだろうかと思いながらセリアが問うと、アンナはあ、いえ、その……とどもりながら首を振った。
「大した家ではないです。ダレルが家の子だったならばほぼ間違いなく選抜での学園狙いになったでしょうし……」
見習いで入れたのはダレルが優秀だからです、と笑うアンナの顔は、少し硬い。
そう言えば、アンナの姓も聞いたことがなかったな、とセリアは気付いた。
この世界では、姓は貴族平民を問わず皆が持っている。ただし貴族であれば、自分の出生をより正確に表すために、父方と母方の両方の姓を持つ。例えば皇司祭であれば、本名はアドルファス・フォルネス・ヴォーンで、フォルネスが母方、ヴォーンが父方の姓だ。彼の場合、神官の頂点に立つ者は家柄を誇示してはならないという暗黙の了解で、母方の姓の方は公には名乗っていないようだが。
親戚が貴族ならば自身も貴族だ。ここ三ヶ月ほどで、セリアは貴族は自分の家柄を周りに知らしめたがるものだと分かっていたから、アンナはてっきり貴族ではないと思っていたのだが……アンナの表情を見るに、あまり家柄を言いたくない事情があるのかも知れない。
あまり突っ込まないほうが良さそうだな、とセリアは結論づけた。
「そうなんだ。じゃあ、ダレル君を見かけたら宜しく言っておくよ」
そう言うと、アンナはあからさまにほっとした様子を見せた。
「はい、私と同じ亜麻色の髪で、歳は……確か今年で13でしょうか。セリア様に声を掛けていただいた日には勿体無さに卒倒してしまうかもしれませんが、お許しくださいね」
「そんなに、畏まられる人間じゃないんだけどな……」
「またそんなことをおっしゃいます! 私達がどんなに……」
聞いていて恥ずかしくなってくるようなセリア絶賛のアンナの話を聞き流しながら、セリアは少し温くなったハーブティーを飲み干した。
アンナにもう一杯淹れてもらって、それを飲んだらもう寝よう。
明日もまた、一日中訓練やこの世界のことについての勉強をして過ごすのだ。