Side:怜人
俺がそいつに出会ったのは、小学校4年生の時だったか。
当時俺は、地元の空手教室に通っていた。そこそこ熱心にやっている教室で、俺は週に何回かの参加だった。
小さい頃から体格が良かったせいか、きちんと練習をしていると俺は他の子をすぐ追い抜いた。加えて、対戦相手に蹴りを放って当たる瞬間はとても楽しかった。
元々は親に入れられた場所だったが、そうなれば熱心にもなる。教室では一番にはなったが、もっと強くなりたいと俺は練習に励んでいたのだ。
だがそんな時、あいつがその教室に入ってきたのだ。
俺に比べれば、あいつははるかに小柄だった。線も細かった。
だから俺は思った、きっと練習をしていても、こいつは俺には勝てないだろうな、と。他の子はそうだった。
だが。
あいつが入ってきて数ヶ月経ち、初めて手合わせをした日、俺はあいつに負けたのだ。
最初、何が何だか分からなかった。経験期間も体格も俺の方が上なのに、どうして俺が負けたんだと。
もちろん他の皆も負けていたが、全く俺の慰めにはならなかった。
それで分かったのが、俺は一番じゃないと嫌なのだということだった。
俺は必死に練習するようになった。何とかしてあいつを負かしたい。何とかして一番に戻りたいとその一心で俺は努力した。
だが、勝てなかった。
あいつが血の滲むような努力をしていたなら俺はそれを認められたかもしれなかった。
しかし違った。あいつが教室に来るのは週に一度だけ。練習も絶対に、特に他と違うことはしていなかった。
なのに、勝てなかった。一度たりとも。
他の皆はあいつを持て囃し、俺は二番手に甘んじ続けた。俺の親も、あいつを褒めた。
違う、それが向けられるべきは俺だ。何でだ、こんなはずがないと努力し続けた末に――
俺は疲れ果てて、小学校卒業と同時に空手をやめてしまった。
中学時代は平和に過ぎた。
俺は陸上部に入部した。理由は簡単、自分の限界に挑戦して走る先輩が格好いいと思ったからだ。
中学校での生活は楽だった。ある程度努力すれば、勉強は学年でトップを取れた。部活の方も、3年の時にはエースと呼ばれ、部長を務めた。
何の不満も無かった。
そうして不安なく安全に、学区で一番の公立高校に入学した時。
俺は再び、あいつに出会った。
1年の時は、何と同じクラスになった。
あいつと同じ中学校出身のやつに話を聞いてみると、案の定、あいつは中学校では一番の成績で、楽々この高校に受かっていた。
またあの悪夢が始まるのかと思った。
どれだけ努力しても頂点の高みは常に掻っ攫われる。俺はどう足掻いてもいつも二番手。
そんなのはご免だ。
俺は入学当初から怠けることなく、頑張って勉強し始めた。勉強が楽しいからというよりはまた負けるという恐怖のためだったが、そんなのはどうでも良い。
だが、初めての定期考査の成績発表の一位の欄には、あいつの名前があった。
もちろん、俺は二位だった。
しかも、陸上部の入部の日、俺は新入部員の中にあいつの姿を見つけた。
聞くと、あいつも中学時代に陸上をやっていたらしい。
しまった、と心の底から思ったが、今さら逃げるように退部するのも癪だと思い直し、努力した。
だが、やはり駄目だった。
俺より遥かに小さくてひょろっこいはずなのに、あいつは俺のタイムを軽々と追い抜いていく。どうしても、あいつを上回るタイムを出せなかった。
そんな状態だ、俺があいつと仲良くなんて出来ないのは当然だと思わないか。
いや、努力はした。努力はしたが、話してみた結果、俺はあいつとはどうにも馬が合わないと分かったのだ。
それを周りはトップと二番の麗しきライバル関係だと受け取ったようだが、そんな美しいものじゃない、俺は単にあいつが嫌いだったのだ。
そんな頃、あいつにずっと纏わりついている女をよく見るようになった。
帰りはいつも一緒だし、大会にも絶対に応援に来ていた。クラスは違ったが、それで認識するようになった。
周りに聞くと何でも、奴はあいつの幼馴染だということだった。小、中と一緒で、勉強をあいつに教えてもらってこの高校に一緒に入学したらしい。なのに付き合っているわけではないという。
俺の感想は……気色悪い、だった。
そんな執着みたいなものを見せるくせに恋愛関係にあるわけでもない。そんな中途半端さが、俺にはどうにも異色のものに見えたのだ。
他の皆には特にそうは見えていなかったみたいだが……俺がおかしいのか? いや、そんなことは無いだろう。
月日が過ぎて俺たちは2年生になり、俺とあいつはクラスが離れることになった。
そして、女のほうと同じクラスになった。
俺はクラスの委員長になり、女は風紀委員になったのでたまに交流があるようにはなった。
奴と僅かながらの交流をするようになったが、俺の奴への印象は良くはならなかった。
奴は、ほとんど自分の意志というものが見えない人間だった。自分の意志を通すよりも、他人の意見を優先する。
典型的な日本人気質と言ってみればそれまでだが、俺はそういう人間があまり好きじゃない。
そういう人間だからあいつのコバンザメというか、腰巾着というか、そういう立場にいて文句もないのだろうと思った。
――そしてある日、あいつが消えた。
そこにいたのは、例によって奴だった。一緒にいたのに、気が付くと居なくなっていたらしい。
そんなバカなことあるかよと思ったが、実際警察も見つけることが出来なかったのだから本当なんだろう。
俺の超えられなかった壁は、そうして消えたのだ。
それからは拍子抜けするくらいにイージーモードな生活だった。
今までとは比べ物にならないほどさぼったが、定期考査は一位になった。陸上部でも、俺のタイムを超えられる人間はいなくなった。
行方不明になってどうなっているか分からない人間に対して失礼なことかもしれないが、俺は確かに、あいつが居なくなって良かったと心のどこかで思ってしまった。
否定的な解決法だったが……俺は、満足した。満足したのだ。
なのに。
なのに、どうして俺はこんな所にいる。
どうしてこんな事になっている。
なんで俺が……また二番手なんだッ!!
俺は気付かれないように、隣で聖剣を持って歩く女――円堂芹を睨みつけた。
そう、あの時、皇司祭が俺に聖剣を抜けと言った時、確かに俺は歓喜した。
そりゃ、突然変な場所で目が覚めて、見知らぬ人間に詰め寄られて、不安にならなかったわけじゃない。
だが、それでも良いじゃないかと思ったのだ。この状況は、よくある異世界トリップものにそっくりだ。ここで俺は見事に聖剣を抜き、英雄として活躍する。そんな夢を見たのだ。
だが、結果は無残だった。聖剣を持ち上げた瞬間、耐え難い痛みが俺を襲った。まるで全身をハンマーで殴られているような痛みだった。
何とか耐えようとしたが、結局俺は剣を抜くことすら出来なかった。
そして代わりに軽々と抜いたのは、俺があいつ――呉街湊太の取り巻きとして嫌っていた、円堂だった。
馬車の中で何とか人心地ついた俺は、一緒に乗っていた皇司祭に、元の世界に返してくれと頼み込んだ。
みっともなく叫び出しそうだった。
どうして、奴が。呉街ならともかく、あいつとは比べるべくもない、あいつのコバンザメだった奴に、どうして俺が負けなきゃいけない。
それなら俺は元の世界で生きていたい。
皇司祭は、"迷い人"が元の世界に帰る方法は分かってはいないと言った。ある日突然帰ってしまう者もいれば、一生こちらにいる者もいるのだと。
だが、帰る方法についての研究を進めることは約束してくれた。果たされるかは分からないが、これに縋ってみるしかない。
そして、こうも言った。抜けなかったとはいえ一度は持てたのだ、全く望みが無いわけではあるまい、と。
また。また、相手を変えて、俺の絶え間ない努力が始まるのか。
しかも、今度は剣を持てるかどうかときた。そんなもの、どうやれば良いのか検討もつかない。
持てたとして、抜けるのか。あの想像を絶する痛みに耐えられるのか。抜けたとして、振れるのか。使いこなせるのか。
しかし、その迷いは皇帝との謁見で無くなった。
負けるものか、と思った。
守護騎士とやらになれと言うならなってやる。名前だって、特にどう呼ばれようが執着はない。
こんな場所に来てまで呉街の心配をするならしていればいい。その間に俺は、まずは聖剣以外の何もかもを、円堂よりも優れてできるようになってやる。
俺は密かに、固く拳を握りしめた。