グラディウス帝国
芹が聖剣の刃を引き抜くと一際強い白銀の光が鞘から溢れ出て、次の瞬間、その光も芹の体を包んでいた光もすっと消えた。
誰も、何も言わなかった。芹が抜く前までは険しい顔で何かを叫んでいたアドルファスも、毒気を抜かれたようにぽかんとした顔をしている。
まるで時が止まってしまったかのように、永遠にも思える数秒間が過ぎた。
最初にその衝撃から立ち直ったのはコルウェルだった。
芹に振りほどかれたまま中腰の姿勢でいたコルウェルは、そこから地面にさっと片膝を着き、両手を組んで芹の前に片膝を着いた。
「ようこそ、聖剣の使い手よ。400年の沈黙は破れ、創造神ユリエルは我らに救いをもたらされた。お慶び申し上げます」
そしてその姿勢のまま、未だぽかんとしているアドルファスに、伺うような視線を向けた。
視線を受けたアドルファスはびくりと身体を震わせると、一瞬、深く迷うような素振りを見せた。自身の先ほどの振る舞いと天秤にかけたのかもしれない。
だが、結局彼は諦めたかのように小さく息をつくと、コルウェルと同じように手を組んだ。だが、膝はつかずに小さく頭を下げるに留めた。それを見た周囲の神官たちは慌ててコルウェルと同じように芹に礼をした。
「えっ、と……」
「もう、良いだろう」
何か言ったほうが良いのだろうかと芹が口を開きかけると、同じタイミングでアドルファスが頭を上げて口を開いた。その言葉で、コルウェルと他の神官たちも立ち上がる。
「聖剣に選ばれた、使い手。それにそこな青年も、名を聞こう。なんと言うのだ」
芹はこの高圧的な態度は変わらないのかとむっとしたが、先ほど殴られたことで彼が怖くもある。私が答えても問題は無いのだろうかと怜人の方をちらりと伺い見るも、どうやら彼はまだ話せる状態でもなさそうだ。芹は諦めて、縋るように聖剣を握りしめた。
「……私は、円堂 芹といいます。あっちでへばってるのが、角 怜人。これで、いいですか?」
へばっている、という言葉の部分で皇司祭はわずかに眉を顰めたが、芹が答えたことには何も言わずにふむ、と唸った。
「エン……ドゥ・セィリとカク・レイトゥ、か。何とも不思議な響きの名だな。エンドゥとカクが姓なのか?」
「そうです」
「……ふむ。ではエンドゥ・セリとカク・レイトゥよ、ここで休んでいる暇はない。我々は至急皇城グラディシアに行き、皇帝陛下に目通り願わねばならない。支度をしよう」
そう言って、皇司祭は二人の神官に手招きをした。
「スコールズ、書記官を起こして、至急皇帝陛下への書状をしたためよ。今日の陛下は、朝議の後はどこぞの貴族との謁見予定しか無かったはずだ。それを調整し、緊急で内々の謁見を捻じ込むことを盛り込んでな。そして一番の早馬で皇城へ駆けよ」
「承りました」
「トーヴィー、馬車を二台用意せよ。我らが普段使うもので構わぬ、重要なのは目立たぬことだ、急げ」
「承知」
スコールズとトーヴィーが、大扉から一目散に駆け出していく。それを見届けると皇司祭は小さく息をつき、怜人の方へと歩み寄った。
「馬車の用意はすぐにできる。我々はそれに乗って皇城へ向かう。立てるか?」
♦ ♢ ♦ ♢ ♦
ごおん、と鈍く扉の開く音がして、女は警戒の目を扉に向けた。扉から出てきたのが己の戴く主であると確認して警戒を解くが、同時に表情に戸惑いの色が浮かんだ。
「どうか、なさいましたか? お籠りになってから、まだいくらも経っていません」
少し眠るよ、と言った主に、ならば久しぶりに私があなたの眠りを護りましょう、と女が言ったのはつい二刻ほど前のことだ。それはまた懐かしい、と主が笑って寝室へ入ってからすぐに眠りに落ちたのかは分からないが、いずれにしろ彼の眠りにしては異常に短い。
「……聖剣の使い手が、現れたようだ」
彼女の主が、低く呟いた。
女と二人きりの時にいつも見せるような笑顔や無邪気さが、今の主には微塵もない。あるのは触れれば一瞬で裂けそうな覇気。問答無用で君臨する、王者としての風格だ。
それを見た女は体を強張らせた。今の主への恐怖からではない。その存在に対する主の心情を正確に知り、深く理解しているからだ。
「どう、なされますか?」
「是非もない。将を集めてくれ」
女の問いに、主は短く、だが有無を言わさぬ口調で答える。
女は深く頭を下げた。このことに関して異議を唱える選択肢など、彼女の中には微塵もなかった。
♦ ♢ ♦ ♢ ♦
結局、怜人はまだ自分では立つことができなかった。
皇司祭は苦い顔で残った二人の神官に怜人を両側から抱えるように命じると、馬車に乗る、急げと言ってさっさと大扉の方に歩いて行った。
しかたなく、芹たちもそれを足早に追う。大扉を抜けた先は幅の広い廊下だった。
床はタイルだったが色はクリーム色がかったもので、そこかしこに見事な作りの絵画や彫刻が置いてあった。ぜひとも鑑賞したいと芹は思ったが、皇司祭がずんずん歩いて行ってしまうのと怜人がいかにも具合の悪い人といった風に無言で両脇から抱えられているのを見ては、そんなことを言っている場合でもないのかと遠慮が出る。コルウェルも一言も発さず、結局一同は沈黙のままに廊下を抜けた。
廊下の突き当たりには先ほどの扉よりもさらに大きな扉があって、外へと開け放たれていた。その扉を抜けたところには――トーヴィーという人はいったいどれだけ仕事が速いんだろうと芹は思った――見事な作りの二頭立ての馬車が二台、すでに御者付きで待っていた。全体は薄い色の木でできていて、所々に白や青、金色で装飾が入っている。中に乗っている人物を外から見ることは出来ない、完全な箱型の車だ。
御者が欠伸をかみ殺しているのを見てしまった芹は、密かに彼に同情した。
芹は二台の馬車の後ろのものに乗せられた。前の一台には、怜人が乗せられているのを見たが、一緒の馬車にしてくれと言うのはどこか躊躇われて言えず、芹は馬車のなかに一人になった。
「……湊太」
馬車のなかに向かい合わせで設えてあった深い赤のソファに腰掛け、足の間に立てた聖剣の柄に顎を乗せて、芹は呟いた。
聖剣はどうにも手放す気になれずに結局馬車の中まで持ってきてしまったが、誰も何も言わなかったのできっと問題は無いのだろう。
「私、どうなっちゃったんだろう」
幼少のころ、それこそ保育所にいたころから五ヶ月前に湊太が失踪してしまうまで、芹はいつも湊太と一緒だった。困ったことや悩みごとがあれば、いつでも彼に相談した。彼はとても優秀で、いつでも親身に相談に乗ってくれたし、芹の代わりにそれを解決してくれたことも何度かあった。芹は湊太を信頼し、隣にいるだけで良かったのだ。
しかし、今彼はここにはいない。この最大級に訳の分からない状況で、湊太は芹に助言をくれはしないのだ。怜人とも離されてしまった。芹は決して彼のことを好きなわけではないが、このような状況で引き離されるというのもさすがに堪える。
「湊太、今どこにいるの? 私はどうしたらいいんだろう。湊太……」
「失礼します。馬車にご一緒してもよろしいですか?」
馬車の外から聞こえた穏やかな声に、芹ははっと我に返った。この声はコルウェルのものだ。アドルファスではなかったことに安堵しつつ芹は是の返事を返した。
「では、失礼いたします」
コルウェルは馬車の扉を開けて入ってくると、芹の向かいのソファに腰掛けた。そのまま後ろを振り返り、小窓を開けて御者に手を振る。御者が二頭の馬に鞭を当て、馬車が静かに動き出した。
「あちらの方と引き離してしまって申し訳ありません。ですがこれが通例ですのでご容赦ください」
言いつつ、コルウェルは被ってたフードのようなものを両手で後ろに払った。
フードの後ろに入っていたのだろう、ゆるく三つ編みにされた豊かな金茶の髪が背中に流れた。穏やかな声に似合った、切れ長の若草色の眼が理知的な光を湛えている。細面の風貌も合わさって、どこかの学者のような雰囲気だ。
「通例、ですか?」
あちらの方、というのは怜人のことだろうと推測した芹の言葉に、コルウェルはええ、と頷いた。
「元々は、暗殺などで重要人物が一度に狙われる危険性を少しでも減らすためのものですね。今はその意味も薄れて、ただの通例になっていますが」
「角くんは、大丈夫なんでしょうか」
「ええ、猊下が同じ馬車にお乗りになりましたし、看護の心得のある神官が同情したのでご心配には及びませんでしょう。馬車を降りるころにはほとんど回復されているでしょう……っと失礼しました。まだ正式に挨拶も済ませていませんでしたね」
コルウェルは慌てたようにソファに座り直すと、先ほどと同じように両手を組んで芹に頭を下げた。
「改めまして、ご挨拶を。私は創造神ユリエルに仕える神官、ローランド・コルウェルと申します。神殿からは、大司祭の位を頂いております。以後お見知りおきください、聖下」
「聖下?」
「聖剣の使い手に対する尊称です。聖剣の使い手は創造神に選ばれた聖なるお方ですから」
「聖なる……」
芹は、手に持った聖剣をまじまじと見た。
芹は何一つ変わったところもない、ごく普通の高校生だ。宗教に関わった覚えもない。確かに素晴らしい芸術品のような剣だとは思うし、何か特別な物らしいが、これを抜けたくらいで聖なるなどと言われるのもなんだか納得がいかない。
まして、聖剣を管理していたと思われる皇司祭は芹に嫌悪を示していたのではなかったか。
「訳がわからない、という顔をされていますね」
考えを読んだかのようにコルウェルに指摘されて、芹は素直に頷いた。
「私はごく普通の高校生です……高校生が通じるのかは分かりませんけど。聖なるなんて言われるような人間ではないし、この剣についても何にも知りません。あと、えっと……なんで皇司祭という人にあんなに嫌われてたのかも」
皇司祭にされた言動を思い出してしかめっ面をした芹に、コルウェルは眉を下げて困ったような表情を浮かべた。
「あれは……その、私からお詫びします。聖剣の使い手に対する物言いではなかった」
私がそうじゃなかったら謝罪はないのかという突っ込みを、芹はぐっと飲み込んだ。
「しかし猊下について誤解しないで頂きたいのです。あの方はただ、教義と創造神ユリエルに忠実であるだけなのです。今回、その信念があなたによって覆されてしまったわけですが」
「何か宗教上の理由ってことですか?」
「ええ。それについてはまた後ほどお話させていただきます」
何か深いことになってきたな、と芹は眉根を寄せた。宗教と自分が何か関係があるのだろうか。少なくとも、芹は熱心に何かの宗教に関わったことなどないのだが。
しかし一応、少なくともコルウェルは芹に悪感情は持っていないようだ。芹が何か言えばきちんと答えてくれるし、この穏やかな雰囲気からしても、そこそこ良い人なのだろう。
芹はひとまず、コルウェルに好感を持った。
「ああ、それよりも聖下、」
眉根を寄せる芹にコルウェルは暗い空気を変えようとしてか、明るい口調になって続けた。
「馬車の外をご覧になりませんか? カーテンも引いたままでは、聖下も窮屈でしょう」
外、窮屈、という単語を聞いた瞬間、芹は突然馬車の中を窮屈に感じた。体を伸ばせるほどの広さはあるが、光も差さない箱の中では確かに息が詰まる。
一も二もなく頷いた芹に、ではどうぞ、とコルウェルが芹の側のカーテンを開けてくれる。芹は吹き抜けの窓越しに外を覗き込み、そして思わず感嘆の声を上げた。
「うわぁ……!」
今芹たちが乗っている馬車が走っているのは、どこか大通りのような所らしい。芹たちの馬車の横を、別の馬車が時おりすれ違っていく。道の端に停められている馬車もある。ここでは、馬車が一般的な乗り物なのだろう。
道の端には見たところ歩道のようなものもあるようだ。店が軒を連ねており、大勢の人が行き交っている。割合としては男がかなり多い。買い物をした後なのか、大きな風呂敷や紙袋を抱えている人もいる。
そして、その街並み。レンガ造りの建物が多いが、漆喰を使って壁の色を明るくしたものも少なくない。現在馬車が走っている大通りは少し小高い場所のようで、建物が途切れたところで遠くに目を凝らすと街並みを上から見ることもできる。屋根は区画ごとに色が決まっているようで、まるで絵画のように美しい。
「いかがですか?」
「すごく、綺麗ですね」
目が離せないとばかりに外を食い入るように見つめる芹の様子に、コルウェルは満足そうににこりと笑った。
「ここはグラディウス帝国の首都フィリス、平民の居住地区です。もう少し行けば、貴族が都に滞在するときに使う屋敷が並ぶ地区に入り、そのままさらにこの通りを行くと皇城に到着します」
グラディウス帝国、フィリス。芹は小さく呟いた。
なんと、どうやら本当に異世界とやらに来てしまったらしい。街並みから鑑みるに、中世ヨーロッパのイタリア辺りに似たような所なのだろうかと芹は検討をつけた。
「グラディウス帝国は、人領で最も栄えている国のひとつです。領土も人口も多く、海にも面しているため海産物も多く取れる。都市部では商業も発展しています。現在の属国は4つ。元は5あったのですが……」
「独立したんですか?」
いいえ、とコルウェルは眉を曇らせた。
「元属国、キーン王国は、半年前に魔族によって攻め落とされました」
「魔族……魔族って、あの魔族?」
芹は眉根を寄せた。魔族って、ファンタジーの創作物でよく出てくる、あの魔族だろうか? 魔王だか邪神だかの下で人間に害を加えるという設定が多い、あの。
それを考えると同時に、芹は微かに悪い予感がした。
「魔族をご存知なのですか?」
「え、あ、いや……名前だけって感じです。教えて貰えれば嬉しいです」
喜色を露わにしたコルウェルに、芹は慌てて両手をぶんぶんと振って誤魔化した。結果聖剣を両膝で挟むという行儀の悪いことになってしまうが、コルウェルはそれを気にする様子はないことにほっとする。
芹が知っていると言っても、それはあくまで創作の娯楽小説の中。それを今起こっていることに当てはめるわけにはいかない。
「名前だけ、ですか……しかし、名前だけは聖下のいらっしゃった世界にもあるのですね。では、そうですね、とりあえず手短に言いますと……」
馬車の中の温度が、少し下がった気がした。