異世界と聖剣
朝靄の中にそびえる大聖堂を見上げ、齢23歳の大司祭ローランド・コルウェルは、初めてこの大聖堂を見てから何度目かもわからない畏敬の念を抱いた。
どっしりとした構えの巨大な基部から、天に向かってそびえたつ無数の尖塔まで全てが美しい白亜の大理石で作られており、壁面には無数の精緻なレリーフが彫り込まれている。バルコニーの要所に建っている、建物と同じ白亜の大理石から彫り抜かれた見事な彫刻は、偉大なる創造神の御使いたちを象ったものだ。
まだ夜明け前、薄暗い中でもその壮麗さ荘厳さは少しも失われることなく、むしろ朝靄と相まってこの世のものではないような美しさを湛えている。
人族最大の帝国グラディウスの帝都フィリスにある、創造神ユリエルを祀る人領最大の聖域、その中心にある大聖堂である。
類い稀なる聖法の腕を見出され、辺境の地からこの帝都に呼び出されてはや二年。ローランドは聖法実働部隊の最高位である大司祭の一人となり、昨年からは毎朝大聖堂の扉を外に向かって開け放つという名誉な仕事を受け持っていた。
人の背丈の二倍はあろうかという正面の大扉のすぐ横の壁に向かって立つと、ローランドは白と群青色から成る神官服の長い袖をまくり上げて印を組み、聖法の術式の一節を心の中で唱え始めた。
大聖堂の全ての扉は、どんな方法を以てしても外からは開かない。太古の術式が幾重にも張り巡らされ、侵入者が不正に中に入るのを防いでいるのだ。その代り、選ばれたものだけが彼らしか知らない術式を使って扉のすぐ横から中に入り、定められた時刻になると改めて大聖堂の内側から扉を開けるのが習わしだった。
ローランドが心の中で術式を唱え終わると、正面の壁の一部が溶けるように消え、代わりに人一人が通れるくらいの大きさの門が現れた。その向こうに見えるのは、最も神聖な場所である礼拝堂へと続く、まだ薄暗い通路。
ローランドはもう一度大聖堂を見上げると中へと入り、もう一度同じ術式を心の中で唱えて壁を元に戻した。
まだ夜が明ける前、ようやく足元が見えるかどうかという通路を足音立てずに歩きながら、ふとローランドは、いったいいつまで自分はこの素晴らしい大聖堂の近くにいることができるだろうかと考えた。
邪悪なる魔族は飽くことを知らず、今この瞬間にも人領へと休むことなく攻め入っている。
人族の国の半分が、すでに魔族に攻め落とされた。グラディウス帝国の属国の一つであるキーン王国も、一年前に魔族に占領された。
今、魔領とグラディウス帝国を隔てる国は、帝国の属国であるリヴァーズ王国と、もう一つ帝国の支配下に入っていない王国しかない。
そのもう一つの王国に比べ、リヴァーズ王国は軍備もろくに持たない貿易国家である。一度魔族に攻められれば、リヴァーズ単体ではその強大無比な軍勢を食い止められるわけがない、とローランドは考えていた。その場合、手を貸すのは宗主国たるグラディウス帝国である。
そして、その援軍として出撃するのは帝国の騎士団と、恐らくはローランドとその他数名の大司祭を筆頭とする、ユリウス神の神官の聖法部隊……
せめて聖剣使いが現れてくれれば、とローランドは深くため息をついた。
偉大なる神と人族のために戦って死ぬことを恐れているわけではないが、現在人族と魔族の力の差はあまりにも大きすぎる。このままでは、いずれは人領の全てが魔族に占領されてしまうだろう。その先に待っているのは魔族による人族へのありとあらゆる暴虐な振る舞い、すなわち人族の滅亡だ。
だが、それに抗しうる手段が全く無いわけではない。その一つが、この世にある中で最大の聖遺物である聖剣である。
もし聖剣をを手に執れる人間が現れれば、あるいはこの圧倒的な力の差が埋まるやも知れないが。
それは言っても仕方がないことだということをローランドは知っていた。何せ、聖剣使いはこの100年間、一人も現れていないのだから。
ならば、我らは自ら死地へと赴き、勝てない戦へと身を投じるしかないのか……
目を見開いたまま考えに耽っていたローランドは、そのとき一瞬何が起こったのか分からなかった。突然通路の前方、礼拝堂の方から白銀の閃光が奔ったと気づいたのは、目の前が真っ白になって強烈な痛みが目を襲ってからだった。
「くっ……うぅ……」
思わず両手で顔全体を覆い、その場にしゃがみ込む。
次いで、ドーンという耳が割れるような轟音が鳴り、大聖堂全体が大きく揺れた。音が来た方向も、礼拝堂の方である。ローランドは手近な壁に寄りかかり、必死に揺れに耐えた。
「何……だ、何が起こっている……!?」
白銀は、創造神ユリウスを象徴する第一の貴色である。白銀の閃光は、創造神に関係する何かが起こった徴なのか。
それにしても、このような現象は天地が開かれて以来のどの書物にも予言にもない。
いったい、何が起こっているというのだ。
揺れは、数秒で収まった。ローランドはそろそろと両手を顔から離すと、まだ強烈な痛みを訴えている両目を無理やりにゆっくりと見開く。霞む視界で閃光がないことを確認し、平衡感覚があやふやになった体でそろそろと立ち上がった。
とにかく礼拝堂を確認しなければと思い、ローランドは体に平衡感覚が戻ると礼拝堂の方向に小走りで駆けた。先ほどの揺れは、神官たちの宿舎でも感じられる大きさだろう。遠からず何人か駆けつけて来るだろうが、ローランドが大聖堂の扉を開かないことには中に入れない。ひとまず、自分で確認をしなければ。
ふと小窓から外を見ると、すでに地平線から朝日が顔を出していた。
♦ ♢ ♦ ♢ ♦
『芹……芹……』
どこか遠くで、誰かが自分の名前を呼んでいる。
『セリア……おいで……』
誰?あなたは誰なの?なんだか、とても懐かしい声……
『芹……おいで、セリ……ア……私の……』
何?よく聞き取れない、もっと大きな声で……
「う……」
水底から浮かび上がるように意識が浮上し、芹はゆっくりと目を開けた。
ぱち、ぱち、と何度か瞬きをする。自分が今まで意識を失っていて、目の前に映っている黒い毛の束が自分のまつ毛だと理解するのに、何秒か掛かった。
頭痛と眩暈はきれいに消えていた。むしろとても爽快な気分で、体も幾分か軽くなった気もする。視界もとてもクリアだ。
そこまで自覚して、芹は自分が早朝特有の輝くような日の光を浴びていること、白と群青色が入り混じったタイルのようなものの上に俯せに倒れていることに気付いた。あの時は夕方だったのに、意識を失っている間に朝になったのだろうか。
恐る恐る、ゆっくりと手のひらを握ってみると、それは問題なく動いた。次いで、手足。これも問題なく動く。強張りも、痛みもない。
芹は床の上に両手をつき、えいやっとばかりに一気に立ち上がった。
「なに、これ……」
周りを見渡し、芹は呆然と呟いた。
芹がいるのは、キリスト教の教会の中のような場所だった。空間を貫くようにして無数の彫刻を施された白い巨大な柱の群が、二列で等間隔に並んでいる。芹が立っているのはその二列の中央、空間の真ん中あたりだ。柱の群に沿った長方形の空間の端の一方には煌びやかな祭壇らしきものが、もう一方には様々なレリーフが浮き彫りにされた、人の背丈の三倍はあろうかという立派な両開きの扉がある。その扉は大きく外に向かって開け放たれていた。
そして、その空間のスケールがとてつもない。広さは小学校や中学校のグラウンドほど、高さは普通の建物の10階分くらいはあるのではなかろうか。
芹はいつだったか母親に連れられて行った、イタリアのミラノのドゥオモの中を思い出した。
しかし、あのドゥオモは昼間でも中が薄暗かったのに比べ、この空間は壁のステンドグラスから光が存分に差し込んで床一面でキラキラと反射している。
どう考えても、日本にあるような建物ではなかった。あれば観光地になっていないほうがおかしいし、母親の影響で観光地には詳しい芹は日本にそのような観光地が無いことを知っていた。
呆然とその空間を見ていた芹は、芹からかなり離れたところにある柱のそばに黒い何かがが倒れているのを視界の端にとらえた。
それが人で、黒いのは学ランを着ているからだと分かった瞬間、芹の脳裏に、意識を失うまでの出来事が走馬灯のように駆け抜けた。
「角くんッ!!」
芹の叫び声が響き渡り、音量が元の何倍にもなって反響した。
その響きが消えるよりも早く芹は怜人のほうに駆け寄り、そばに膝をついた。
刈り込まれた明るい茶髪、体格の良い体に窮屈そうに着込まれた制服、間違いなく彼だ。
横向きになっている大きな体を渾身の力を込めて仰向けにすると、怜人が肩を震わせて大きく咳き込んだ。怜人の体を見回してみても、傷などは見当たらない。
良かった。少なくとも、彼も無事に生きている。
そのことに芹は深く安堵し、思わずその場にぺたりと座り込んだ。
しかし、さて、何が起こっているんだろう。
座り込んだまま目の前にそびえ立つ柱の一つを見つめ、芹は途方に暮れた。
意識を失う前は、日本の町の歩道にいた。そこから目が覚めて病院にいるならば話は早いが、いったいここはどこなのか。日本のどこか?それとも外国?
ふと芹が先ほどいた場所に目を移すと、床に濃紺のタイルでなにか模様のようなものが描かれているのが見えた。俯せになっているときに白と群青が入り混じっていると思ったのは、白いタイルの地に群青色の模様があったからだったらしい。
よく見ようと立ち上がってみると、その模様が円形であることが分かった。近づくと、芹がいたあたりを中心にして、精緻で複雑怪奇な何かと円が組み合わされた文様が、10メートルくらいにわたって小さな群青色のタイルでモザイク画のように描かれている。
それは、芹も何作か読んだことがある、ファンタジーものの小説の中で勇者が異世界に召喚されるときに使用される魔方陣を彷彿とさせた。
「……まさか、召喚? あはは、そんなバカな……」
う、と呻くような声が背後から聞こえた。芹がばっと振り向くと、怜人が手で頭を押さえながらゆっくりと起き上がるところだった。
「頭、痛ぇ……」
「角くん!」
芹が再び怜人の方に駆け戻ると、怜人は芹を見て不思議そうに目を瞬かせた。
「あれ……円堂? 俺、何してたんだ……?」
「角くん、大丈夫?怪我してない?」
「いや、怪我してる痛みは多分大丈夫だ……頭はズキズキしてるけどな……」
顔を顰めて本当に痛そうにしていた彼は、芹から目を逸らすと一瞬にして唖然とした顔になった。
「なんだ、ここは」
「分からない、私も目を覚ました時からこうなの」
「なんか、どっかの教会っぽいけど、なんだこのでかさ……っ痛ぅ」
「だ、大丈夫?」
「いや、あんま大丈夫じゃないけど、」
怜人は少しふらりとしながら立ち上がり、辺りをぐるりと見渡した。
「それどころじゃないだろ。確か、そうだ、お前と言い合いしてて、なんか眩暈がして……」
喋りながら、怜人の顔がだんだんと険しくなっていき、芹に目線を戻して問いかけた。
「何した?お前」
その言葉に、芹はカチンときた。
「何したもなにも、私だって目が覚めたらここにいたんだから何もわからない、変な罪をなすりつけないでよ。そんなこと言うなら、角くんこそ何かしたんじゃないの」
「知らねぇよ俺だって、なんだよここは。誰かに何かされたとしか……ん?」
怜人は喋るのを止め、訝しげに眉をひそめた。
「なぁ、何か聞こえる」
怜人の言葉に芹も言いたいことをぐっと飲み込んで耳を澄ますと、確かに今まで物音一つしなかった両開きの扉の外からカツカツと硬い床を靴で歩いているような音が複数聞こえてきた。音の聞こえ方からして数人はいるようで、どんどん芹と怜人がいるこの空間へと近づいてくる。
芹が不安になって数歩後ずさったとき、扉の入り口に、白を基調としたずるずると長い服を着た7、8人の人間が現れた。
「……」
「……」
「異国風の顔立ち、見慣れない衣服。なんと、まさか事実だったとは……」
芹たちと彼ら、お互いに永遠とも取れる数秒の間見詰め合った後、彼らの先頭にいた初老の小柄な男が、ゆるく頭を振って信じられないという口調で言った。
ヨーロッパ系の、白人の男だ。大分白いものの混じった淡い金髪をオールバックにして撫で付け、手には黄金の、短い杖のようなものを持っている。肩からは金地に色とりどりの宝石が縫い取りされた布を垂らしており、人々の中でも何か特別な地位にあることが一目で分かった。
「……日本語だな」
隣で、怜人が呆然と呟いた。
「日本語、だね……」
芹も、驚きのあまり呆然とした口調で答えた。彼は今、流暢に日本語で喋った。
「お前ら、誰だ?」
怜人が耐え切れなくなったのか、芹の気持ちも代弁するように初老の男に向かって警戒した口調で問いかけた。
「コルウェル大司祭、あの二人がそうなのか?」
しかし、初老の男は怜人の問いかけには答えず、自分の斜め後ろに立っている人物に向かって問いかけた。
「はい、猊下。彼らに間違いありません」
尋ねられたコルウェルというらしき人物が穏やかな声で応じた。頭に被っているフードのようなもののせいで顔はよく見えないが、少なくとも男よりは若いだろう。
「ふむ。信じられなかったが、認めるしかないようだな……しばし待たれよ」
最後の言葉は、ちらりと芹と怜人のほうを見て発された。
男は顎に手を当ててしばらく考え込んだ後、手に持った杖のようなものを振って厳格な口調で命じた。
「……ふむ、そうだな。あれを持ってくるように。望みが濃いわけではないが……可能性は十分にある。試してみよう」
男の後ろに控えていたうちの5人が無言で礼をして小走りで駆け出す。どこに行くのかと芹が見る中、彼らは祭壇のほうへと向かっていく。
初老の男はそれを見届けると、怜人と芹のほうへと大股で歩み寄ってきた。後ろにいる人々もそれに続くのを見て芹の我慢と戸惑いも限界に達し、思わず男に向かって問いかけた。
「あの、あ、あなたたちは誰ですか?」
緊張のあまりどもった芹を男はじろりと睨むとまるで気にも留めていないかのようにそのまま歩き続け、隣の怜人の前まで来ると重々しく口を開いた。
「ようこそ来られた、と言うべきか。私は偉大なる創造神ユリエルに仕える信徒の最上位である皇司祭、アドルファス・ヴォーンという」
え、また無視?
芹は、頭にカッと血が上るのを感じた。
「ちょっと、さっきからなんですか?私の質問に答えてください、ここはどこですか、わた……」
「娘よ」
芹の方に冷ややかな目線だけを向け、アドルファス・ヴォーンと名乗った男は芹に答えた。
「お前に用はない。女らしく、大人しく男の後ろに控えていよ」
「な……!?」
芹は絶句した。
芹が怜人の顔を見上げると、彼もまた唖然とした顔で厳めしい顔のアドルファスを交互に見ていた。
「女は大人しく男の後ろに控えているべきもの、それを男に先んじて口を開くなどとは信じられぬこと」
「猊下……」
アドルファスの斜め後ろのポジションを全く崩していないコルウェルが、アドルファスに遠慮がちに声を掛けた。
「恐れながら、聖紋の中央に倒れていたのは娘のほうです。そのことを考慮に入れれば、娘のほうも何らかの役割があるという可能性もあるのでは……」
「黙れ、コルウェル」
アドルファスは、コルウェルの言葉を鋭く遮った。
アドルファスの雰囲気に、コルウェルは困ったような雰囲気を漂わせた。
「……なぁ、総ナントカさん」
怜人が口を開いた。
「皇司祭だ。普段は猊下と呼ばれている」
「皇司祭さん。あんたの話に突っ込みたいことは色々あるけど……この世界、って言ったよな。俺たちは、今自分がどうしてここにいるのか全く分かってない。あんたたちが誰なのかも、顔は西洋人なのにどうして日本語を喋っているのかも、ここがどういう場所なのかも全く分からない。こいつが訊いても答えてくれないのなら、」
怜人は目線で芹を示した。
「俺が訊く。なぁ、何か知ってるなら教えてくれ」
「自覚なしに、突然ここに来たと言われるのか」
「そうだよ。だから俺たちは何にも分からない」
怜人の声色に何か言葉以上のものを感じた芹は、横目で怜人を盗み見た。
怜人の顔には、一見困惑と反感が浮かんでいる。先ほどアドルファスに言った言葉からして当然だ。
しかし芹は、怜人の目の奥に興奮がちらついているのに気が付いた。
怜人は、心のどこかで嬉しいのだ。身分の高そうな人間に自分が丁重に話しかけられていることに。このような、いかにも物語にあるようなことが自分に起こっていることに。
芹ではなく自分が注目されていることに。
芹は、怜人のその興奮に嫌悪を覚えた。
アドルファスはしばらく逡巡する様子を見せた後、ゆっくりとかぶりを振った。
「確かに、説明する必要がありそうだ。よろしい」
手に持った杖を何度も握りなおしながら、アドルファスは先ほど5人が消えていった扉のほうを見た。
「あなたが訊きたいことについては、全て答えよう。しかしそれは恐らく短い話では済むまい。このままここで立ち話というわけにもまいらぬし、まずあなたに試していただきたいものがあるのだ。その結果によって話す内容も大きく異なってこようし、……ほれ、来たようだ」
アドルファスが、杖で怜人に扉のほうを指し示した。
芹もそちらに目を向けると、音もなく扉が開けられて先ほど出て行った人々が戻ってきたところだった。
ただ出ていった時と違うのは、彼らのうち四人が一つの大きな黒い箱のようなものを捧げ持っていることだ。柔らかい光沢を持ったその箱の中には白と赤の上等そうな大きな布が敷かれており、その中に何かが入れられているのが分かったが、それが何かまでは分からなかった。
彼らは、しずしずと芹たちのほうに近づいてくる。箱を持っていない一人が先行して小走りにアドルファスに近づき、膝をついた。
「猊下、お持ちいたしました」
「うむ、ご苦労」
アドルファスは杖の先を膝をついた人物の頭に触れさせて労いの言葉を掛けると、再び怜人の方に目線を戻した。
「この者たちに持ってこさせたものは、偉大なる創造神御自らが力を込めて遣わされたと伝わる第一の秘蹟、聖剣だ。これを抜けるかどうか、あなたに試してもらいたい」
なんだその勇者イベントのクエストのようなものは。
芹は思わず声に出しそうになり、寸でのところで思いとどまった。
「抜けばいいのか?」
怜人の声にはっきりと興奮の色が混じった。
「そうだ。帝国各地を行脚させ、上は皇帝から下は下賤なる民ども――ここでアドルファスは顔を顰めた――まで片端から試していったのだが、誰一人としてこの天上の剣を抜ける者はいなかった。いや、使い手以外はこの聖剣に直接触れることも叶わず、見えない力に阻まれるのだ。我らがここまで追い詰められても、御神は使い手を遣わしてはくださらなかった。しかし、」
アドルファスの顔に、初めて微笑が表れ、声が張りを増した。
「経緯は誰にも分からぬが、最も神聖なるこの大聖堂の中に突如現れた者がここにいる! どうか、まずは聖剣を抜いて力を我らに示してほしい。あなたの求める説明は、その後でいくらでもいたそう」
「もし、俺がそれに従わないと言ったら?」
確認するような怜人の言葉に、アドルファスは当然といった顔で答えた。
「その時は、許されざる時刻に大聖堂内にいたあなたがたの処遇をこちらで厳重に決めさせて頂こう」
「……分かった、抜けばいいんだな」
怜人は頷くと、捧げ持たれている箱のほうに近寄り、覗き込んだ。
「……すげぇ」
怜人が目を見開き、興奮を隠しきれない声で呟いた。そして、魅入られたようにゆっくりと左手を箱の中に差し入れた。
そのときふと、芹は激しい違和感に襲われた。
何か、違う。
アドルファスにまた何を言われるか分かったものではないという気持ちが体を動かすのを何とか思い留まらせたが、今すぐ怜人の手を持って引き戻したい気分に駆られた。怜人の身勝手な感情への反発から来たものでもなく、ただ違う、という違和感に芹は戸惑った。
そんな芹の思いも空しく、怜人は箱の中の聖剣を掴むと持ち上げようとしたが、かなり重かったのか一瞬よろけ、今度は両手でしっかりと持ち直すとゆっくりと箱から出した。
「……っ!」
その剣のあまりの美しさに、芹の目は聖剣に釘付けになった。アドルファスの後ろにいる人間も感嘆の溜息を漏らした。
それは、全体が白銀に輝く長剣だった。全体の長さは120㎝程だろうか。鞘に入っているために刃の形状は定かではないが、おそらく幅広の両刃だろうと推測できた。
よく見ると、鞘にも柄にも繊細な模様が彫り込まれており、白銀の地のところどころに金と群青が入っている。柄の真ん中には、縁が金で装飾された大きな群青色の石が嵌め込まれている。
柄の部分は他の部分よりも僅かに黒みがかっており、両手でも片手でも握りやすそうだった。
「おお、おお……!」
アドルファスが感情の昂ぶりを抑えきれないというように声を漏らした。
「何人も触れることさえできなかった聖剣が、今人の手の中にある……! さあ、抜くのだ、抜いて使い手たるを私たちに証明してくれ!」
怜人はかなり苦労して鞘を左手だけに持ち替えて鯉口を切ると、右手で柄を握って剣を引き抜こうとした。
だが、剣が抜けることはなかった。
「何をしている! 抜くのだ!」
アドルファスが再度けしかけたが、怜人が剣を抜かない。
芹は聖剣を握っている怜人の手が小刻みに震えはじめたのに気づき、不審に思って怜人の顔を見た。そして、息を飲んだ。
怜人の顔は、激しく歪んでいた。まるで拷問を受けているかのような苦痛の表情で、顔には大粒の汗が浮かんでいる。
彼は、抜こうとしないのではない。抜けないのだ。
芹には、怜人が立っている事さえ辛そうな状態に見えた。
箱を捧げ持つ者たちもおろおろとアドルファスの顔を窺いはじめる中、しかしアドルファス本人は焦れた表情で怜人の方に大股で歩み寄り、杖を持っていない方の手で怜人の右手を引っ張って無理やり剣を引き抜かせようとした。
それを見た瞬間に芹の自制は切れ、芹は先ほどの怜人への嫌悪も忘れて怜人とアドルファスの方に駆け寄ってアドルファスのに詰め寄った。
「ちょっと、もう止めて! 角くんはあんなに苦しんでる、もう限界なんだからあんなの止めさせて!」
「黙れ、女が口を出すでない!」
怒鳴られると同時に側頭部に強烈な衝撃が走り、一瞬芹の意識は朦朧となった。アドルファスの杖で側頭部を思い切り殴られたのだと気づいたのは、1メートルほど離れた床に体が叩きつけられて息が詰まったときだった。
「ぐ、げほっげほっ……」
「大丈夫ですか?」
大きな暖かい手が倒れて咳き込む芹の背中をゆっくりと擦った。芹が目線を上げると、その手の主がフードを被ったコルウェルであることが分かった。
コルウェルは芹の体をゆっくりと起こしながらアドルファスに向き直った。
「猊下、落ち着いてください、暴力はやりすぎです!それに彼も苦しんでいる、一回時間を置きましょう」
穏やかさの中に非難を込めた声でアドルファスを窘める。
しかし、アドルファスは頑なな表情で彼の言葉を却下した。
「だめだ。娘は捨て置け、大司祭。聖なるものに歯向かう愚を知らぬ聖職者ではあるまい。それに、初めて聖剣を持てる者が現れたのだ、この機会を逃せば……!」
アドルファスの言葉は最後まで続かなかった。
怜人の手から完全に力が抜け、ガランと音を立てて聖剣が床に落ちた。そして間を置かず、怜人も聖剣の隣に崩れ落ちた。
「角くん!」
どうにかコルウェルの手で支えられて床に座った芹が呼びかけても、彼に答える余裕はない。肩を上下させて荒い呼吸を繰り返し、汗が大理石の床にまで滴った。
アドルファスは絶望したような表情を顔に浮かべ、感情が抑えきれないというように杖をぎりぎりと握りしめた。
「くそ、大聖堂に突如現れた異界の者でさえも引き抜くことはできぬというなら、もう聖剣の使い手は現れぬということか……!?いいや、いいやそんなはずはない、もう一度試せば、今度こそは……」
アドルファスの左手は、じりじりと怜人の方へと寄っていく。
その時なぜ自分がそのように動いたのか、芹は後になってもさっぱり分からなかった。
それは、ほとんど反射的な衝動だった。
芹は側頭部を殴られたせいでふらふらする頭を無視して芹の体を支えてくれているコルウェルの手を振りほどくと、彼が驚いて一瞬固まっている隙に少し離れた場所に落ちている聖剣の元へと一気に走った。
芹の行動にに気づいたアドルファスが憤怒を顔に浮かべて芹を阻もうと杖を振り上げたが、芹はその杖の下を見事に掻い潜った。そして両手を突いている怜人の体を回り込み、左手で聖剣をひったくるようにして手に取った。
その瞬間、芹が持った聖剣全体から柔らかな白銀の光が出て芹の体を包み込んだ。
芹は、自分の体の隅々にまで得体のしれない力が行き渡るのを感じた。殴られた場所の痛みも一瞬で癒えた。
不思議と芹は、それを怖ろしいとは感じなかった。むしろ、感じたのは圧倒的な心地よさと懐かしさ、体の軽さだった。
体を包む光の向こうで、アドルファスが何か叫んでいる。怜人やコルウェルがぽかんとした表情をしている。しかし、今の芹にとってはどうでも良いことだった。
自分が何をするべきなのか、芹にははっきりと分かった。
芹は左手でしっかりと聖剣の鞘を持ち直すと右手で柄を握り、刀身を一気に引き抜いた。