異世界転移
「円堂様、ですね。やはり、呉街湊太さんについての情報は寄せられておりません」
「……そうですか」
すでに60歳近いと思われる白髪の混じった男性職員から発された、予想はしていたが聞きたくなかった答えに、芹は耐え切れずに肩を落とした。
平日の放課後、芹は現在住んでいる市の警察署の、行方不明者の情報を扱う課に足を運んでいた。平日ということもあって警察署に訪れる人も少なく、それなりに大きな建物である警察署のフロアは閑散としている。
「呉街さんが行方が分からなくなったのは六月の末ですから、今日でちょうど5ヶ月目ですね。5ヶ月もあれば、何らかの情報が寄せられても良さそうなものですが……17歳くらいの男子高校生の目撃情報は、見間違いやよく似た人物を除くと未だに一件もありません」
「5ヶ月……も、経ったんですね」
「8月が誕生日だということですので、もう17歳になっておいでですか。お気の毒なことです」
「はい……」
あまりに落ち込んでいる様子の芹を見かねたのか、その男性職員はほんの僅かに表情を緩め、宥めるように言葉を継いだ。
「あまり気を落とさないでください。行方不明になってから何年も経って無事に帰ってくるケースも稀にあります。またいつでもお立ち寄りください」
「……はい、」
ここを離れるとまた一歩彼から離れてしまう気がして後ろ髪を引かれる思いだが、情報が何もないのであればずっとここにいても仕方がない。芹は男性職員に頭を下げた。
「ありがとうございました。また寄らせて頂きます」
「こちらこそ。私たちも呉街さんのご無事をお祈りしています」
頷いて、芹はカウンターから踵を返す。夕日の差し込む広いフロアを横切って端の階段まで辿り着き、ふとカウンターの方を振り返ると、男性職員はすでに別の仕事に追われるように電話を取っていた。
警察署の最寄駅への通りをとぼとぼと歩きながら、芹は自分でも知らず深い溜息をついた。今は十一月の最後の週、もうすぐ6時になろうかというこの時刻には太陽はかなり傾き、あたり一面は見事な夕焼けでオレンジ色に染まって見えた。
(ああ、あの日も、こんな見事な夕焼けだったな)
芹の幼馴染である呉街湊太が忽然と姿を消してから、もう五ヶ月が経つ。
いつものようにお互いの部活動が終わった後に家からの最寄り駅で落ち合い、お互いの家があるマンションに向かって歩いて帰った。初夏のその日は見事な夕焼けで、視界全てがオレンジ色に光ってとても綺麗だったのを覚えている。
そして、正面にあった太陽がもう沈むだろう、と芹が眩しさに目を細めながら思っていた矢先、突然湊太は芹に頭痛がすると訴えた。そのまま道路の真ん中にしゃがみ込み頭を抱えて身もだえはじめた彼の姿に芹は焦り、誰か近くに人はいないかと眩しさを堪えて必死に辺りを見回し、
――苦痛の声が不意に止んだことを不思議に思って湊太のほうに視線を戻したときには、すでに彼は消えていた。
太陽は地平線に沈み、あらゆるものから長く伸びていた影はきれいに無くなっていた。
芹は何が起こったのか分からず、しばらくそこで立ち尽くしていた。ようやく湊太が消えたらしいことを悟って、慌ててあたりを見回し、周囲を何区画も、何時間も走り回ったが、彼はどこにもいなかった。
夜もそろそろ深まろうかという頃に我に返った芹はひとまずマンションに帰り、湊太の母親に彼が消えたことを報告した。湊太の母親はすぐに警察に届けを出し、警察は直ちに捜索を始めた。
しかし、数日捜索を続けても彼の行方は全く分からず、付近での目撃情報は皆無だった。警察は捜査を打ち切って目撃情報を待つ体勢に移行し、
今日で、呉街湊太が行方不明になってからちょうど5ヶ月である。
芹の行く手の、大通りの信号が赤に変わった。かなりの量の車が目の前を通り過ぎていく。
立ち止まり、背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪の一房を無意識に弄りながら、芹は暗い顔でもう何百回も思い出してきたその日の彼の様子に思いを巡らせた。
(特に、前の日までと違った様子はなかった)
強いて言えば、普段あまり夢を見ないらしい彼が、不思議な夢を見たんだと苦笑いしながら言っていたことくらいか。芹がどんな夢だったのと訊くと、とにかく色んな感情が混ぜこぜになったような夢で、でももう忘れちゃったんだ、とはぐらかされてしまった。
(あとは、朝に下駄箱の前で別れて、授業受けて部活して、一緒に帰っただけ……)
警察は彼が何者かに誘拐されたとして捜査を進め、彼の両親もその説を信じたが、芹はそれは絶対に違うという確信を持っていた。湊太は芹のすぐ足元に蹲ったのだ。誘拐なら、芹が辺りを見回したときに全くの無人だったはずはない。近くにマンホールも無かったので、地下から何かされたということも無いはずだ。同じ理由で、彼が自分の意志で消えたということも有り得ない。
(でも、だとしたら、いったいどうして、どうやって)
湊太が行方不明になってからというもの、その疑問は芹の頭の中から決して離れなかった。いや、離れるどころかそれはどんどん肥大し、今ではほとんど他の物事に頭が行かないと言っていい。高校には休まず通っているが教室には存在しているだけの状態、授業の内容は全て右から左に流れていくだけ、宿題を出されたことにも全く気づかず、すでに教師から何回も呼び出しを食らった。所属している吹奏楽部にも5ヶ月間一度も顔を出していない。部活に行くようにと説得しに来た他の部員たちや顧問も、芹のあまりの上の空さに何を言っても無駄だと悟ったらしく、今では校内で会っても全く部活の話を出さなくなった。
(分からない、……でも、絶対に何か普通じゃないことが起こったんだ)
5ヶ月の間繰り返し続けた問いに、しかし今も答えは出ない。もう一度溜息をついて頭を軽く振り、芹は歩き出した。
信号が、未だ赤であることをすっかり忘れて。
パーン、と複数のクラクションが長く鳴り響くのを聞いて芹がはっと我に返ったのと、背後から首根っこを掴まれ、勢いよく引き戻されたのはほぼ同時だった。
「何やってんだお前!!」
クラクションを鳴らした車が、目の前をかなりのスピードで通り過ぎていく。
芹は、乱暴に引かれた反作用で地面に倒れこんだ。げほげほと咳き込みながら自分を引き戻してくれたらしい人物の声を聞いて芹が抱いた感情は、――先ほどの命の危機に関わらず、なんで今こいつなの、というものだった。
「……角くん」
「なんだお前、その顔は」
知らず、内心が顔に出ていたらしい。芹はかなり苦労して表情を改めた。
「なんでもない。その、……助けてくれてありがとう」
「は、とっさに手が伸びただけだよ。なんだ、とうとう自殺願望でも湧いたか?」
「……違うわよ。ただ、ちょっとぼうっとしてただけ」
「ちょっとで車がびゅんびゅん通ってる赤信号に突進するってどうなんだよ、バカか、お前バカか」
「うるさい、てかなんで角くんがここにいるの、……げほっ」
芹の行動に肝を冷やして見ていたらしい他の通行人が、芹が引き戻されたのを見てぽつりぽつりと立ち去っていく。それに気づいた芹は申し訳なさに駆られ、地面に座り込んだまま彼らに次々に頭を下げた。
そして、全員が立ち去ったことを確認すると、そろそろと立ち上がって改めて自分を引き戻した人物の顔を目を細めて見上げた。
「ここが俺の最寄だからだよ。なんか文句あるのか」
「……別に」
短く刈り込まれた髪は明るい茶色に染められ、夕日を受けて金に近い色に輝いている。切れ長の眼は、髪と同じような色素の薄い茶色。180cmに届こうかという高身長で筋肉質な体に制服を窮屈そうに着込み、肩にスポーツバッグを提げている。
芹のクラスメートにして学級委員長、部活は湊太と同じ陸上部に所属している。名を、角 怜人という。
どちらかといえば小柄な芹よりかなり横幅も上背もある体に夕日が背後から差しているせいで彼の表情はよく見えないが、おそらく不機嫌な顔をしているのだろう。強い逆光の中でもこれだけは確認できる色素の薄い眼が、眇めた格好で芹を強く見下ろしている。
「そういうお前はなんでここにいるんだ」
「……警察署に、行ってたの」
言いたくはないが、芹たちが今いるのは余所に住んでいる人間が他に用事を見つけ出せないような住宅地に近いところである。おそらく、地元民に嘘は通らない。
「はぁ? なんだ、落とし物でも……いや、またあいつのことか?」
「うん。新しい情報が、何か入っていないかなって」
芹が答えると、怜人の目がさらに眇められた。
「お前、もういい加減にしろよ。いつまでそんなことで頭いっぱいにして、クラスから浮いてる気だ?」
「そんなこと? そんなことって何? ……湊太と仲が悪かったからって、湊太を忘れろっていうの!?」
頭にかっと血がのぼり、芹は目の前の男を睨みつけた。
傍から見ても、二人の仲は良くなかった。お互いに陸上部の時期エース候補のライバルとして切磋琢磨しあっていたと言えば聞こえはいいが、実際は会えばお互いに険悪な眼差しを相手に向け、部活中も必要最低限しか喋らなかったという。
一度、なにかあったわけでもないのにどうして仲が悪いのかと聞いた芹に、湊太はなんだか反りが合わないだけだよ、と笑ったが……
行方不明になった相手を心配することなく、忘れろ、とは!
怜人は、面倒くさそうにため息をついた。
「そうは言ってないだろ。これ以上、教室の人間に気を使わせるなって言いたいんだよ。風紀委員の仕事も放ったらかしで、お前、クラスの雰囲気を壊してることに気づいてないのか」
「クラスなんてどうでもいい」
「どうでもいいってお前、」
「なんだってもうどうでもいいよ。どうせ私の存在感なんて微々たるものでしょ。湊太は……湊太は消えたの、消えちゃったのに……私は、どうすればいいって言うの!?」
目尻に涙が浮くのを感じながら、芹は怜人を睨みつけた。お前なんかに私の何が分かる、と心の中で叫んだ。ただの一言で自分がこれほどに激昂するなんて、と心の中の冷静な部分が呟いているが、そんなことはどうでもいい。
芹の様子に、怜人はさらに苛立ったように顔を険しくした。
「知るかよそんなこと! 仲良いやつが消えて悲しいのは分かるけど、それで全部捨ててどうすんだ。お前、これからどうするつもりなんだよ」
「そんな、……――ッ!?」
突然、頭に猛烈な痛みを感じて、芹は思わずその場にしゃがみ込んだ。
まるで、頭の奥深くを凶器で繰り返し突き刺されているようだ。堪らず、芹は両手で頭を抱え込んだ。自分の耳に、自分の声が苦悶の叫びを上げているのが遠く聞こえた。
「……円堂? おい、どうした!?」
芹の尋常ではない様子に、怜人が慌てたように芹の名を呼んでいるが、とても返事などできる状態ではない。
痛い、痛い、痛い、イタイイタイイタイイタイイタイ、もう死ぬ、誰か助けて、何でもするからこの痛みをどうにかして――!
「くそ、誰もいない、なんでだ……! そうだ、救急車!」
怜人が芹の隣にしゃがみ込み、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
痛みに霞む目で、しゃがみ込んで携帯電話を取り出している怜人の向こうに、地平線にほとんど姿を隠した太陽を捉え――
芹は、背筋がぞっと粟立つのを感じた。
見事な夕焼け。突然の激しい頭痛。隣にいる人に、誰もいなくなった道、今にも沈もうとする夕日。
まるで、湊太が忽然と姿を消した、あの日のような。
「角くん、角……くん、止め……て、離れ……」
例えようのない不安に襲われ、必死に怜人の名前を呼んだ。頭の痛みも湧き出た不安で打ち消され、必死に目を開けて怜人の姿を捉える。
「なんだよ、静かにじっとしてろ!」
怜人が右手で携帯電話を操作しながら左手を芹の背中に置いた。そのとき、
芹の目に映っている怜人の姿が、ぐにゃりと歪んだ。まるで回転している水に何色もの絵の具を垂らしたように、視界が奇妙に滲みながら回転している。
「うわ、なんだ!? 視界が回ってる! 画面が見えない!」
怜人の声で、芹は彼も自分と同じ状況に陥っていることを悟った。
まずい。とてもまずい。何かが起ころうとしている。
「な、に、」
「何が起こってるんだ!?」
そうしている間にも、視界はどんどん回転し、もはや目に映っているものが何かも分からなくなってきた。ただ、全てが夕焼けのオレンジがかった渦が、目の前に形成されていく。頭痛も合わさって感覚が朦朧とする中で、未だ背中に触れている怜人の手の感触だけがやけにリアルだった。
もはやオレンジの渦しか無い芹の視界の端に、最後の夕日の光が鮮明に差し込み――
芹の意識は、闇へと沈んだ。