章の一
章の一
「…俺の元に来てくれ。君しか居ないのだ。」
些か突然ではあったが、意中の青年からそう言葉を掛けられたなら、どんな女性とて嬉しい所だろう。
少女は頷いた。
「…私でよろしければ」
正に二つ返事。
窓の外では桜が舞い散っていた。
「ありがとう、君なら受けてくれると信じていた。」
青年は僅かにだけ微笑む。整った顔立ちをしているので、稀に見せる笑みは美しく見えて、少女は思わず息を飲んだ。今日、今この瞬間から、自分はこの人のモノ…。
こんなに幸せな瞬間はあるだろうか。少女は夢見心地で、向かいに座る青年を見つめる。
「さて、では…これからは、俺の事は“先生”と呼んでくれたまえ、月子君。」
「…は?」
月子は素っ頓狂な声を出す。
「学校もめでたく卒業したので、探偵事務所を開く事にしたのだ。是非とも君に助手をして欲しくてな。いや、受けてくれて良かった。まぁ、君も飲みたまえ。」
彼は月子の目の前の温かなミルクを飲むよう勧めて、自分も珈琲を口にした。
「……。」
早とちりした自分も悪いだろう。
しかし、自分の好意に気付いていながら理由を全てすっ飛ばしてあの台詞を放った確信犯はどうだ。
「鏡太郎さん、」
「月子君、“先生”だと言ったろう?」
「……。」
頭の中を整理しなくてはならない。
月子は数刻前の事からゆっくりと思い出していった。
熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人連れ……
元号が大正になって数年が過ぎた春。
街で流行りの歌を口ずさみながら、月子は待ち合わせのミルクホールへ向かっていた。
髪は結って、誕生日に兄から贈られた藍色のリボンを結んだ。着物は紫縞に薔薇が散ったお気に入りの物。月子の顔は派手だとか美人だとかの言葉は程遠い、どちらかと言えば幼く見られる愛らしさのある顔立ちなので、兎に角着物や小物に気を遣って背伸びを試みた。
めかし込んだ理由など、意中の男性に呼び出されたからに他ならない。
足取りは軽い。
暖かな風に桜の花弁が散っている。鮮やかな薄紅色は、散って地に落ちてもなお美しい。帽子を目深に被ったワンピースのモダンガールを乗せた俥が、石畳の上を通り過ぎて行った。
待ち合わせの店に入ると、先に席に着いていた彼が軽く片手を上げた。
彼というのは、月子の兄、優星の級友である春海鏡太郎。優星とは、親友と呼べるほどの仲である。
一月程前、丁度優星と鏡太郎の高等学校の卒業式の日。鏡太郎を招いて家族で軽い晩餐会をした後、帰り際の鏡太郎に改めて話がしたいと言われて今のこの状況に至る。
窓際の席、鏡太郎の向かいに座ると、緊張のあまり月子は膝の上でぎゅっと拳を強く握った。
鏡太郎の目の前に置かれた珈琲から湯気が立ち、ちらりと見ると湯気の向こうに彼が見える。漆黒の髪に眼鏡のレンズの奥の切れ長の瞳。珍しくスーツ姿だった。月子は殆ど学生服の鏡太郎しか見た事が無かった為新鮮だった。細身の彼にスーツは良く似合っている。
直視出来ず、ホットミルクだけ頼んだ月子は終始俯いていた。
「来てくれてありがとう、月子君。カステラは好きだったかな?」
「は、はい」
鏡太郎は店員にカステラを頼み、月子の前にはカステラとホットミルクが並んだ。
鏡太郎は他愛無い話を始めた。卒業してから数日会っていない優星の事や、満開の桜の事。
そんな話を彼が延々とするので、カステラは食べ終わってしまい、痺れを切らした月子は自ら本題に踏み込んだ。
「鏡太郎さん、そんなお話の為に呼んだ訳ではないですよね?」
鏡太郎が真っ直ぐに月子を見る。
「…では、突然ではあるが心して聞いて欲しい。君の一生に関わる事だ、しっかり考えて答えてくれたまえ。」
「…はい」
「…俺の元に来てくれないか。君しか居ないのだ。」
良く良く考えれば、特に好きだのと言われた訳ではない。嫁に来いなどと虫の良い勘違いをした自分が悪いのだと月子は思った。しかし、説明も無しにあの言葉を放った鏡太郎には少し腹が立った。半ば無意識のうちに返事をしてしまったではないか。
月子は一気に体の力が抜けた。
「けれど鏡太郎さん、私はまだ学生の身ですが」
月子の父親は医者をしていて、そのお陰で月子達は学校に通わせて貰っていた。女学校は卒業までまだあと一年ある。
「時間のある時に手伝ってくれれば良いだけの話だよ。」
「…それは、私の体質と関係ありますか?」
「まぁ…無いと言ったら嘘になるな。」
「探偵事務所って言いましたけど…どういう事件を扱うんです?もしかして、鏡太郎さんお得意の…」
「月子君なら解るだろう、俺の人生の目標はただ一つ!妖怪を見る事!」
「声が大きいです」
この春海鏡太郎という男、なかなか美男子で成績も優秀、家柄も申し分無いのだが、性格や趣味に難があって女性が寄り付かない。
兎に角、強烈に“妖怪”や“怪異”に憧れを抱いている様で、その事となると盲目になってしまう。
ただ、彼自身はそういったモノが見えない体質であり、妖怪を自身の目で見る事が彼の人生の目標であるらしい。
「そういう訳で、扱うのは妖怪が絡んでいそうな事件だ。」
「…鏡太郎さん、知識だけは無駄にありますからね」
「何を緊張していたか知らんが、やっといつもの調子が戻ったようだね。俺の助手君。」
さらりと言ってのける鏡太郎をほんの一瞬ぶん殴りたい気が起きたが、それは抑えた。
好意はそれとなく伝えているのにいつも軽くかわされ、自分の特異体質…妖怪が見えるという体質にしか興味が無いのであろうこの男の、一体何処が好きなのだろうかと自分でも時々考えてしまう。
そう言えば、卒業して大学に入り医者を目指している優星とは違い、鏡太郎の進路は
「色々考え中。」
などと言ってはぐらかされていた。まさかこんな突拍子も無いことを考えていたとは。
「…幾ら鏡太郎さんでも、妖怪が見えなくては事件も解決出来ないと思います」
「だから、君の力が必要なのだ。俺には君しか居ない…。」
妙に弱々しく、狡い言い方をする鏡太郎に腹が立つ。
「勿論、給料も払うぞ。」
もう一度考えてみる。
助手になれば、鏡太郎と居る時間が増える。
もし自分が断った後に誰か、例えば美人で気前の良い女性が助手になったら……。
考えたくもない。
色々な事に腹が立つが、結局それは彼が好きなのだからだろう。恋なんてものは、落ちてしまうものなのだから仕方が無いと思う事にした。
「…良いですよ。鏡太郎さん…じゃなくて、先生」
改めて答えると、彼は少し考えてから
「やはり先生では違和感があるな。寧ろ君が先生かもしれん。鏡太郎で良いよ、月子君。」
と口の端を少しだけ持ち上げた。
かくしてここに、“春海探偵事務所”の体制が確立したのでる。