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短編

彼女の願いが叶うころ

作者: 小野チカ

 もしも願いが叶うなら。

 彼女をもう一度抱きしめたい。


 触れば壊れてしまいそうな彼女を、抱きしめたい。

 できるだけ、そっと。



 ◇ ◇ ◇



 俺の出自は決して良いものではなかった。

 下流貴族の下で下働きしていた母と、庭師の父。それが俺の両親だった。

 爵位など到底遠い地位の家庭に、俺は次男として生まれた。


 魔力が正義のこの国で、俺の授かった力は触れたものの持つ能力を最大限まで生かすことができる、という特殊なものだった。火、水、土、風。大きく四分類される魔力の中のどこにも属さないこの能力は、使い方によっては恐ろしいまでの力を発揮する。


 最初は、父の鋏のすべりをよくしたり、母の洗濯板を頑丈で汚れ落ちしやすいものに変えてあげることができる。その程度だった。その力を見初めた母の勤める貴族の主に、剣を持たされたことが全ての始まりだった。


 光る刃の矛先が、藁の塊である時は良かった。

 その時まで、俺は、俺の家族は、幸せだった。


 優しい父に、厳しい母。体は弱かったが知識が豊富だった兄。

 ごくありふれた家庭は、当時そこかしこで起こっていた賊の村荒しによって簡単に崩れ落ちる。


 寝たきりだった兄、兄を庇った母、そして、俺を物置に隠した父。


 お前は生きろ。

 それだけ残して父は、箒片手に賊に向かっていった。


 俺はただ、震えているだけだった。

 物置の扉から見える惨劇を、ただ震えてみているだけの子供でしかなかった。


 物音が静まるのを待って、俺は裏手にある山へと上りながら時折振り返る。その目に映る光景はいつも赤と黒だった。放たれた火の色と、濃い煙が空を覆う村。


 お前は生きろ。

 最後に父親に言われた言葉を繰り返し呟きながら、俺は走った。

 爪が剥げ、靴が片方なくなっても振り返らずに、俺は走った。


 後に統合して街となる王城近くのこの村は、村という名にしては大きく繁栄していて、いつも賑やかだった。青く抜けるような空がいつも綺麗で、綺麗で、大好きで。目を瞑ればすぐに思い出せる光景に視界が滲む。土にまみれた手で拭いながら、俺は目的地のない明日へと走った。


 青空の下で花や木を整える父が。

 真っ白になったシーツを干す母が。

 兄の寝室の開かれた窓が、好きだった。


 俺の、大事なものだった。

 それが、点けられた火で失われていく。


 まだ賊が残っているかもしれない恐怖と、

 何もできなかった自分の不甲斐なさと、

 賊への憎しみを抱いて、俺は山で声を殺して泣いた。


 俺の世界は、終わったと。

 永遠に続くと思われた幸せは、この時に終わったのだと心の底から思った。



 ◇ ◇ ◇




 俺は力が欲しかった。

 あの時、何故力を使って父と共に戦わなかったのかと、ずっと後悔し続けていた。

 その当時、俺は十歳の餓鬼だったけれど、持ち合わせた能力は年齢に似合わず多かったように思う。


 騎士団に入団すると、その力は大いに役立ち、周囲を驚かせた。

 俺が剣を振るえば、それはたちまち神剣と呼ばれた。

 そして俺は、廃村の神童と呼ばれた。


 藁の塊だった相手は、血と肉を持った動物になり、それが意志を持った人間になるのも、そう遅くはなかった。


 俺は天狗になっていた。

 俺に斬れないものはない、と。俺に恐れるものはない、と。


 戦があれば率先して出向き、勝利をおさめることは当たり前になりつつあった。

 賊の村あらしを何度も食い止める度、罪滅ぼしができたようで心が軽かった。


 剣を振り、それが血肉を分けて命の糸を断ち切っても、俺は正義だと信じていた。


 武神と呼ばれることに、優越感を感じていたのかも知れない。いや、相当に感じていた。

 失うもののない俺は、誰よりも強いと感じていた。


 十六歳。この国では異常な程早い昇進にも、誰も文句は言わなかった。


 それから五年の月日が過ぎる頃には、俺はあらゆる戦で勝利を収め、武神の名に恥じぬ肉体と地位を確立し、同時に人を斬ることに躊躇うことがなくなっていた。


 まるで、藁の塊を斬るように。

 笑顔すら貼り付けて、俺は戦を勝ち抜いた。



 ◇ ◇ ◇




 彼女との出会いを、今でも何と表せばいいのかわからない。

 元来子供も動物も好きではない。あの幸せな日々に、大事なものは全部置いて来た。

 だから、何故彼女に声をかけ連れ帰ったのか。

 当時はただの気まぐれだと思っていた。


 ここ数ヶ月は大人しかった賊の村荒しが出たと、視察に来た際に訪れた村に彼女は居た。

 降り止むことのない大粒の雨にぬれたまま、彼女は笑いもせず、泣きもせず、ただその小さな身を丸めて木の側に座っている。


 村の唯一の生き残り。

 そして彼女の瞳にうつる、己の世界が崩壊したことの虚無感。


 それが昔の自分に重なった。

 同情ではない。今ならわかる。


 俺は、俺を助けたかったのだ。

 あの日の俺を。

 幸せな日々が終わった、あの幼い俺を。


 今彼女を助けることで、昔の俺が助かる気がした。

 だから、彼女に声をかけた。


「俺と来るか」


 差し出した手をじっとみながら、彼女は俺の手を取った。


 小さくて、

 小さくて、

 握りつぶせば呆気なく散ってしまいそうな、柔らかさがあった。


 それは生まれてこの方味わったことのない、不思議な感覚だった。



 ◇ ◇ ◇



 彼女は、何も知らない子供だった。

 それなりに成長した体と生きる知恵が少しだけある、赤子も同じ。


 野山の走り方も、弓の引きかたも知らない彼女の瞳は、日々色んな発見で輝いていた。

 幼児では必ず流行る遊びも、学校に行けば習う歴史も知らない。

 なのに、料理や裁縫はめっぽう上手く、難しい単語も読める。


 何かおかしい。

 その何かは、程なくして分かる。


 彼女は————ゼロの子かもしれない。


 “全ての民は十六歳までに力を得る”


 それが世界の慣わしで、でも現実は生まれて三歳程までに覚醒するものだったので、

 その時点で力のない子供はゼロの子と呼ばれた。


 十六歳までに覚醒する確率は地を這うばかりで、その子供がこの国で確認されているのは歴史上十人にも満たない。 ゼロの子だと断定できなかったのは、彼女の真っ直ぐすぎる瞳を見ていると自分が認めたくなかったから。


 賊の村荒しで世界を奪われた子供に、神が力まで奪うとは信じたくなかった。

 力さえあれば、彼女の世界は必ず変わる。俺がそうだったように。だから、たとえ叶うことの無い夢だとしても、彼女をゼロの子だと言い切りたくなかった。


 大丈夫。必ず報われる。

 だって俺は、報われたじゃないか。


 彼女はよく笑い、小さなことにでも感激し、幼子には聞き飽きた物語を、楽しそうに聞き入る。

 それなのに、怒りや不条理な物事に涙は流したりしない。負の感情の表現が、極端に少ない子供でもあった。


「今日は客が来る」


 ある日、俺と彼女は朝食を同じ食卓でとりながら、半ば事務連絡のように伝えた。

 俺からしてみれば、客が来るという事実を伝えただけ。それ以上でもそれ以下でもない。


 それなのに、彼女はあきらかに目を泳がし、食事の手を止めた。


「…………どうした?」

「あの、どこか隠れるところ——」

「ん?」

「私はどこに隠れておけばいいですか」


 その言葉に俺がどれだけの衝撃を受けたか、彼女は知らない。

 俺と同じだなんて勝手に見積もっていた俺が、現実を知ってどれ程驚愕したか。


 どれほど己を責めたか。

 どれほど己の浅はかさを痛感したか。


 俺と彼女は違う。

 そんな当たり前のことに気付いたのは確かにこの時だった。


「……どうして隠れる必要がある」

「私が——」


 ひどく言い難そうに彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。

 俺の方を一度も見ずに、体を縮めて彼女は言った。


「ゼロの子だから。恥をかかせたらいけないです」


 血が全身から引いていくような、体温が徐々に奪われていくような感覚に陥る。

 世がゼロの子にどんな冷遇をしているか。

 俺は忘れていたのかもしれない。いや、その時は忘れていた。

 彼女は力こそないものの、俺や周りの者と何ら変わりない。もしくはそれ以上に優しく、穏やかで、気のつくいい子だった。


 言葉を発しない俺に、彼女は何を思ったのか、矢継ぎ早に言葉を発する。


「あの、それが普通だったので、本当に気を使わないで下さい。時間を潰すのは得意なんです。パンとミルクを少し分けて貰えるなら、私はそれで十分ですから。地下や隠れることがなかったら、物置小屋でも、牛舎でも構いません。絶対に表には出ませんし、物音も立てません。ご迷惑おかけしませんから」


 その言葉のどれもが、重かった。

 たった十歳の子供に、なんて酷い仕打ちだろうと。


 我がままを言わず、聞き分けが良く、礼儀正しい彼女は、どこか子供らしくなかった。

 その理由が、こんなところで露呈される。


「な……」


 なんてことを。そう口に出そうとして、考えるより早く体が動く。

 急に席を立った俺に、彼女は痛そうに眉を寄せて顔を腕でかばった。


 俺は、殴ろうとしたんじゃない。

 そんなことはないと、彼女に寄り添うつもりで体が動いた。椅子から立ち上がる。ただ、それだけの動作に目の前の彼女は萎縮している。武神と呼ばれる俺は、確かに戦場では畏怖される存在ではあった。でも、そんなものとは違う、こちらの心が確かに抉られるような痛々しい彼女の畏怖。


 俺と似ているから。

 そんな驕りに駆られて彼女に手を差し出した俺は、間違っていたのかもしれない。


 彼女は俺と同じじゃない。


 彼女は、

 彼女は、

 人として生まれたのにも関わらず、人と同じく生きることを許されないゼロの子。


 賊を恨んでのし上がった俺が武神と呼ばれ崇められ、正義なら、

 彼女がこの世界を恨んで壊しても、誰が悪だと言えようか。



 ◇ ◇ ◇



「聞いたよ、なんか最近面白いものに興味を持ったみたいじゃないか」


 面白そうに笑う同期を睨む。垂れ目がちで温和に見える自分の瞳を嫌って、騎士団に入ってからは睨む練習すらしていた俺だ。この年にもなると、睨むだけで若い後輩に後ずさられることもある。そんな睨みをきかせても、同期には痛くも痒くもなさそうだ。触れてくれるなと言っても、こいつにそんな気配りは期待できない。そんなことは出会ってからずっと知っていることだ。その気配りのできない大雑把さが気に入って、今でも付き合っているのだ。諦めるしかない。


 騎士団の救護班班長。そんな肩書きを持つ同期は治癒の魔術。分類すれば水の魔術の扱いが上手く、それが評価されて今の座に就いた。俺とは違い大した美丈夫でよく女をはべらかしている。それをうらやましいと思ったことはなかったが、女の扱い方が上手いという一点だけで、今はうらやましいと思う。

 彼女のような年頃の女の子が何をすれば喜び、何をすれば地雷なのか、皆目見当も付かない。


「ものじゃない。十歳程度の女児だ」


 そう言い終わるが早いか、同期は目をキラキラさせて俺に微笑む。

 まるで彫刻のようなその顔は好奇心でほんのり色づいていた。


「何!? お前の趣味ってソッチだったの」

「黙れ、裂くぞ!!」


 おぉ怖い、と言いながら同期は変わらず好奇心を隠しもせずに俺の瞳を覗く。

 年端も行かない子供に、欲情するわけがないだろう。


「今、乳臭い餓鬼に欲情するわけないって思っただろ」

「……思っていない」


 そんな悪い言葉では思っていない。

 あまり表情が出ないと言われる俺だったが、不思議とこの同期には見透かされていることの方が多かった。それは、数百人居た同期で生き残って居る者が、もう俺と同期しかいないからかもしれない。


「けど、わかんないよ。女って化けるからね。いきなり女の子から女の人になるから、お前も気をつけなよ。本当、あっという間だから」

「妹のようなものだろ」

「あれ? 十歳程度ってことは七つ程しか離れてないよね。十分射程距離範囲内じゃない?」

「お前と一緒にするな」


 むしろお前の広すぎる範囲を狭めてはどうだ、と提案しそうになって口を閉じる。

 それを言ったが最後、いつの話だといわんばかりの弱みを披露されるのは目に見えている。


「まぁでも、雛って可愛いよねぇ。可愛すぎてうっかり首を絞めてやりたくなるくらい可愛い。だからちょっとだけお前が羨ましいよ。俺色に染めちゃって自分好みの女に育て上げるとか一種の夢だよね。夢」

「その危ない思考回路をどうにかしろ」

「一般論だよ」

「命を賭けて守っている国民が変態過ぎるなんて、勘弁してくれ」


 俺色とか、育て上げるとか、こいつは阿呆か馬鹿か間抜けか。はたまた生まれつきのド助平か。

 冗談と本気の境目がわからないまま同期を見ていると、面白そうに笑っている。


「変態かどうかは置いといてさ、お前扱いに困ってるんだろ。一個だけ教えてやるとね、女は老いも若きも記念日と贈り物が好きな生き物なんだ。何でもいいから年に一回でも贈ってやりなよ」


 同期が軽く言ったその言葉を、重く受け止めて心のメモに書き記していただなんて、こいつには一生言えない。言ったが最後、また忘れた頃にほじくり返されるのだ。


「何故お前が貴婦人方に人気なのか、甚だ疑問だな」

「そんなの、顔と肩書きのお陰に決まってるじゃないか」


 馬鹿馬鹿しい。

 そういい捨てて、同期は体の良い笑みを浮かべた。


 その夜彼女に送った薄桃色のワンピースは、彼女には迷惑な贈り物だったかもしれない。

 棒切れのような明らかに細すぎる体系も、いつも何かに怯えている表情も、街で見かける同じ年頃の女の子達と一緒のはずなのに、どこか違うと感じさせる雰囲気があった。そんな彼女が袖を通したワンピースは、薄桃色だけがやたら浮いて見えた。


「私、あんまり似合ってないですよね。ごめんなさい、折角贈ってくださったのに」


 視線を落として申し訳なさそうに言う彼女に、俺は静かに首をふる。

 確かに今は体の貧相さが目立って服に着られているだろうが、一目で彼女に似合うだろうなと思った色だ。間違いはない。


「よく似合っている」


 そう言った俺の言葉にも、彼女は申し訳なさそうに微笑む。

 彼女がこのワンピースが似合うようになる頃には、彼女は上手く笑えているだろうか。


 彼女は俺と同じじゃない。

 でも、幸せになる権利は誰にだってある。

 彼女にだって、幸せになる権利はある。


 世界が絶望だけで出来ていないことは、俺が一番よく知っている。

 それを彼女に教えてやれるのは、きっと俺だけだ。そう思っていた。



 ◇ ◇ ◇



「どうした?」


 彼女と過ごすようになって一年。控えめすぎる言葉遣いが、随分とましになるのにこの月日が長すぎるのか短かったのかはよくわからない。騎士という職業柄、家を月単位で空けることも多かった。元々あまり喋る質ではないのも手伝って、彼女が喜ぶような言葉をそれほど掛けられたと思ってはいなかった。

 それを考えれば、やはり彼女は彼女なりに俺との生活に気を使ってくれているのだろう。


 あまり構ってやっていないにも関わらず、親鳥を必死で追いかける雛のような彼女に、俺は困惑しならがらも嬉しかった。無償の愛は、もう置いてきたと思っていた。慈しむという言葉は、もう消えたものだと思っていた。


 そんな彼女が真っ赤に目を腫らして俺の帰りを出迎える。

 何か口を開きかけて、彼女は首を振った。

 いつもそう。

 彼女は言いたいことを言わずに飲み込む癖に、気配でそれを伝えてくる。


 生まれてからの癖はなかなか治らないとは頭でわかっていても、たまに疲れる。

 口下手な俺にとっては、彼女にどう声をかけて、その不安を拭ってやればいいのかわからなかった。


「……どうした」

「なんでもないの」

「そんなに目を腫らしておいて?」


 そんな俺の言い方に、彼女が半歩後ずさる。

 その仕草も、このときの俺には鼻についた。

 一年だ。記号で見れば短いが、俺にとっては身内でない人間と同じ時を過ごす時間にしては長かった。

 一年経っても、俺は彼女に怯えられている。


「————死んじゃったの」

「死んだ?」


 その日の俺は、遠征帰りで疲れが溜まっていた。

 多感な年頃の彼女を気遣ってやる余裕も、あまりなかったのは事実だ。正直、少しうざったいなと思うこともあった。

 言いたいことがあれば、さっさと言えばいいのに。

 それができたなら、きっと彼女は彼女ではなかった。


「山で……懐いてくれてた鳥がいたの」


 彼女の言う鳥は、何度か彼女の口から聞いていた。

 薄い青色の羽が綺麗だと、目を輝かせて報告してくれていたからだ。肩に乗っただの、口笛を吹けば戻ってくるようになっただの、それが何ヶ月前の話しだろうと、今とれたての話のように俺に話す。

 そんな彼女を、俺は知っていた。


「それが死んだのか」

「…………うん。足とか、胸のあたりとか怪我してて————羽も、何枚かなかったの。前の日に鳴き声が聞こえたんだけど、その時かもしれない……」


 七日前のことだと彼女は付け足した。言いながら、また涙をこぼす。


「それは人の仕業だな」


 大して険しくもない山で、羽が落ちるほどの怪我を負う方が難しい。

 狩りにするには小さな鳥だ。誰かが憂さ晴らしに傷つけたのだろう。そういうことは、少なくない。


 それは日常にあふれる、ほんの些細な悪意という認識しかなく、俺にとっては大したことではなかった。 ミミズの尻を切ればどうなるか実験した幼い頃の罪と、同じ程度の意識しかない。


 人の仕業だと言った俺を、彼女は信じられないものでも見るような目で見つめた。


「ひどい……」


 だから、彼女の言葉が信じられなかった。


 運が悪かっただけ。

 虫も、鳥も、馬も、牛も、人間も、運が悪かったら命を落とす。

 たまたま目をつけられた鳥の運がそこで尽きただけ。


 俺だって、運で生きているようなものだ。

 騎士は、そういう職業だ。


「命尽きる時がたまたまその時だったのだろう」

「でも——」

「そんなに可愛がっていたのなら、籠にでも閉じ込めておけばよかったんじゃないか。でもやだってなどといわれても、俺にはどうすることもできない」


 苛々した。

 彼女が俺に求めている答えがわからなくて、俺は苛々した。

 無償の愛は、時に重すぎて息苦しい。そんなことすら、忘れていた。


「ごめんなさい」


 すぐに謝る彼女にも腹が立って仕方がない。

 今この場面で、誰がどう悪かっただろう。

 彼女は悪かったか?

 俺が悪かったか?


「それともお前は、傷つけた人間を見つけて、その鳥と同じ傷を付ければ満足するのか?」


 言いすぎだった。けれども訂正することすら何か違う気がしてできなかった。

 彼女の涙は確かに乾いたけれど、俺達が立っている地面には、確かに彼女のこぼした涙の跡がついている。


 近付いたと思っていた距離が、また果てしなく長くなった気がした。

 けれどもそれは俺だけだったのか、翌日も、その翌日も、彼女はいつも通りだった。

 いつも通り俺が居れば食事を共に取り、出かけには見送り、帰れば出迎えた。


「怒っていないのか」


 そう尋ねてしまったのは、俺が縮まりもしないが広がりもしない距離がもどかしかったから。

 彼女に投げた俺の言葉は、確かに彼女にとってきつい言葉だったはずだ。

 七つも年下の彼女に、かけるべき言葉ではなかった。


 けれども彼女は首をふる。

 そこには以前のような怯えはなかった。


「————あの後、確かにそうだなって思ったの」


 そう言った彼女の瞳は眩しくて思わず目をそらしたくなる程真っ直ぐ前を向いていた。


「ひどい人がいるって悲しくなったし、すごく腹も立ったんだけど……でも、世界は確かにそういうふうに出来ているって」


 子供だと思っていた彼女が、そんな言葉を選んで話すことに驚いた。

 一年で、彼女はめまぐるしい速さで成長している。

 それを痛感させられた。


「泣いて誰か助けてって言うのは簡単だし、なんだか卑怯だなって思ったの。私何もしてないのに悲しむのってなんだか卑怯だなって」


 だから——

 そう続けた彼女は眩しすぎる瞳に俺を写す。


「だから、私は私の大事なものをちゃんと守ることに決めたの。それを気付かせてくれたから、怒ってない。むしろ、感謝してる」


 呆気に取られている俺を傍目に、彼女はおいしそうに朝食を頬張る。

 じわじわと、けれども確かに、彼女の世界は広がっていた。



 ◇ ◇ ◇



 最初は来客の度に挙動不審になっていたのが、落ち着き、一緒に座って談笑できるようになってきた。

 世界の彩りを喜び、やせ細って棒切れだった体に肉がついて丸みを帯びていく。

 少女だった彼女が徐々に大人の女性になっていく様は、喜ばしいようで、どこか不思議な気持ちだった。


 この三年の間に俺は国王陛下に呼び出されること十数度。そのどれもが市井にささやかにはびこる噂の真偽を問うものだった。見た目は何ら変わりないのに、どこからかぎつけたのか、彼女が力を持たないとわかると暇な貴婦人達の格好の餌になる。慈悲だ、珍しい毛色だと言われている頃はまだよかった。それでも不本意だったものの、人の口に戸は立てられない。


 それが囲っているだの、奴隷にしているだの、幼児趣味だの、性欲処理だの、下世話なものに変わるのにも時間はかからなかった。


 これ以上の昇進はないと言われても、俺は何とも思わなかった。

 地位が俺や彼女を守ってくれなかったことは、この数年でよくわかっている。そんなものに縋る程、俺は低脳と思われていたことに軽く失望した。


 武神と呼ばれるようになって間なしに交わされた婚約が破棄されたのも割りと早い段階だった。昇進もなく、幼女趣味だと言われる男の下に喜んで嫁ぐ女などいない。政略結婚の相手に深い情があるわけでもなく、俺と相手の女は至極あっさりと、それは朝の挨拶程度の軽さで分かれた。相手の女から香る独特の匂いが鼻につくようになった時点から、元々関係は終わりに近付いていたのだろう。


「おかえりなさい」


 それでも、今までは邸に帰らずとも同じじゃないかと思っていた岐路が、嬉しくなったことは否定できない。満面の笑みで、年頃らしく髪型や服の裾を気にしながら迎え入れてくれる彼女の存在は、確かに俺の中に温かいものを残している。


 だから、本来なら気にならない言葉に胸を抉られた。


「おお。幼女趣味の武神様じゃないか」


 力が全てといいつつ、騎士も人間だ。聡い人間ばかりではない。

 誰かを蹴落とそうと毎日必死な者も、地位に縋りつく者もも、人を貶めてやろうとする者も、こうして突っかかってくる者もいる。


 無視を決め込んでいる俺の反応が気に入らなかったのか、そいつは俺の隣に陣取り下種と呼ぶにぴったりの笑みを浮かべた。同じ騎士団にこんな奴が居るなどと思うと吐き気がするが、長引く戦争のお陰で騎士団は常に人手不足だ。力に覚えのある者なら来るもの拒まずの今の時代に、騎士道など説いていたら手駒は少ない。


「なぁ、どうよ若いのは。俺にも分けてくんねぇか」


 粘着な笑い声を立てて、男は俺の肩を掴む。

 怒るなと自分を抑えていたけれど、その言葉は聞き捨てならなかった。


 彼女は、

 彼女は、

 お前如きに汚されるような、そんな芯の弱い女じゃない。

 根深い闇に流されず、必死で前を向こうとする強い女だ。


「……黙れ」

「なんだよ、怒るなよ。お前も楽しんでんだろ?」


 彼女が、俺を誘ったことなど一度もない。


 ようやく、笑うようになった。

 ようやく、人が来ると言っても怯えなくなった。

 ようやく、彼女が俺の目を見を見て話すようになった。


 当たり前のことに三年の月日がかかったのは、まだ早いほうだったかもしれない。

 そんな彼女が、娼婦のように扱われるのは不本意極まりない。


 無視できていた。

 確かに、少し前までは聞き流すことができたのだ。


「黙れと言っているだろう。その口を切り落としてしまおうか!!」


 胸倉を掴んで相手の口に懐刀を押し付けた俺に、男は鼻で笑う。


「何熱くなってんだよ。数えきれないほど斬って捨てたお前が、たった一人の幼女にかける温情にしては熱すぎねぇか?」


 そう言われて俺は一瞬呼吸を忘れる。


 ————数えきれない程斬って捨てたお前が

 俺はいつも最前線で人を斬っていた。力が欲しかったから。俺の罪を償うために。


 ————数えきれない程斬って捨てたお前が

 血塗れの手で、名前も知らない人間の明日を奪ったのは俺だ。


 ————お前が

 その手で、彼女を助けるだなんて言っているのは誰だ。


 助けてくれと懇願された相手の首を、躊躇い無く跳ねたのはどこの誰だ?


「————————俺だ」


 そう、誰でもない俺だ。

 俺は、相手が捨て台詞を吐いてどこかへ去っていっても、暫く動けないでいた。



 ◇ ◇ ◇



 正義とはなんだ。

 真の正しさとはなんだ。


 俺が今まで正義だと思ってしていたことは、本当に罪ではないのか。


 俺の家族が、彼女の家族が、居場所が、亡くなった賊と何が違う。

 俺が今まで武神という大義名分を振りかざして奪ってきた命は、彼女と何が違う。


 俺が彼女の頭を撫で付けてきたこの手には、どれだけの血が付いていただろうか。

 それは彼女に信頼を寄せてもらえるほどの、正しいものだったのだろうか。


 賊と、人殺しと、罪人と、何が違う。

 名すら知らない、顔も覚えていない幾人の屍の上を歩いて、何が正義か。


 彼女に一度も頼まれたことのないその正義は、果たして誰の正しさだ。



 ◇ ◇ ◇




 その日の俺の腑抜けっぷりは大したもので、沢山の傷を負いながら戦場を駆け抜けた。

 殺さなければ、殺される。

 そんなことが言い訳になるのか、自問自答しながら剣を振り下ろした。


「だから反対したんだ。お前の強さはどこか脆いと感じていた。なのに廃村から娘なぞ拾ってくるから妙に絆されて決心が鈍っている」


 騎士とは何か、騎士道とは何か。

 次の野営地までの道のりで懇々と語る隊長の言葉を手を握り締めて聞いていた。爪後が残るほどきつく、手綱を握り締めながら。


 今立っている戦場が片付けば次の戦場。それが終われば、また次の戦場。

 最初の頃のように避けてばかりもいかずに、唇をかみ締めながら奪った命がいくつもある。

 怒声、怒号、悲鳴、金属音、蹄の音、血管の破裂する音、途切れた呼吸。


 今しがた跳ねた首を見ながら、俺は無償に泣きたくなった。



 ◇ ◇ ◇




「おかえりなさい」


 どんなに辛いときも、疲れたときも、笑顔で彼女は迎え入れてくれる。


 その事にどれだけ俺が救われているか、彼女はきっと知らない。

 色々な噂もきっと耳に入っているだろう彼女の、はにかんだような笑顔に助けられているだなんて。


「何があっても、お前は俺が守る」


 以前よりずっと大人びた彼女を腕の中に閉じ込めて、折れそうな程抱きしめても何も聞かない彼女に、助けられているだなんて。


「————うん。ありがとう」


 小さくて、小さくて、少し力を入れれば折れてしまいそうだった手が、ゆっくりと俺の背中に添えられる。


 俺は強くなると決めた。

 彼女のように、真っ直ぐ前を見つめて強くなると。


 強くなって、彼女を守ると。

 たとえ世界が壊れても。


 俺が帰る先に、彼女がいるなら。



 ◇ ◇ ◇




 このところ戦争があちこちで激化し、人手不足は窮地に陥っていた。

 特に西の国からの攻撃が巧みで、命を落とした同胞も多い。それでも、国を立て直す為に戦わなければなかった。


 そんな俺に、召集命令がかかる。

 西の国との戦は小競り合いを含めれば毎日どこかで戦が起こっている状態だった。


 せめて彼女の十六回目の誕生日まではいてやりたい。


 それからならば、何年でも最前線に立とう。そう約束を交わして俺は邸に留まった。

 たった三日の休日。これが終われば、俺は戦場に出向く。


 彼女の十六歳の誕生日。

 それは彼女にとっても、俺にとっても、忘れられない日になった。

 ついに彼女の力が目覚めた。

 遅咲きすぎるほどの彼女の力は、昔馴染みと同じ治癒の力だった。


「わた、私……力が、見て、私力が——。ほら、ほら。この鳥足の傷が治ったの」


 彼女は欲があまりない。ものを強請られた覚えも三度あったかなかったか。

 そんな彼女が最近欲したもの。それが力だった。


 力が欲しい。


 すぐに嘘だと付け足した彼女の心の中を思うと、俺はいたたまれなかった。

 力があれば、彼女は確かに両親と兄弟に愛され、可愛がられる存在だった筈だ。

 欲しがって当然で、それは彼女のせいではない。


 叶わないと思いながらも紡いだあの言葉こそが真実だったのだろうと、今なら理解できる。


 嬉しさに体を震わせ涙する彼女に、俺は安心すると同時にどこか不安になった。

 不安と言うには胸のあたりが鈍く痛む。

 その痛みの原因はわからないまま、俺は彼女を抱きしめた。


 わかっているのは、力があれば、彼女の人生は違っていたということだけ。


「あと十六年早かったら、もっとよかったな」


 そんな言葉を付け足してしまったのは、俺の失態だった。素直に祝ってやればよかったのに。

 傷ついたような表情をする彼女に、次いで言葉を掛けてやることがきでなかった。


「私が、治すから」


 強い意志を持って話す彼女に、俺は静かに首を振る。

 義務感にかられなくていい。

 それ以上、成長して世界が広がらなくてもいい。


 お願いだから。

 俺に守られてくれないか。

 俺を頼ってくれないか。


 俺の側に、居てくれないか。

 おかえりと、声をかけてはくれないか。


 喜びと同じだけ、暗い感情が渦を巻く。

 それが何を表しているか、そこまで分からないほど朴念仁ではない。

 ただ、その感情と向き合ってはいけない気がした。


 何に罪を感じているのか。

 何に罰せられると感じているのか。

 一度開きかけた扉を頑丈に施錠して、俺はそれに背を向けた。


「対価のない魔術などない。今はその代償が何かはわからないが、魔術を使えば必ず“何か”が奪われる。俺の傷は放っておけば治るものだ。お前が気にすることはない」


 そんな言葉で、彼女の思いを否定して。



 ◇ ◇ ◇



「遅咲きの方だったんだね。まぁ、よかったじゃん」

「まぁな」

「何その間。手のかかるわが子がいつの間にか手が離れて、寂しいとか思ってんの?」


 そうでないと、否定しようとしたけれど、その例えが妙にしっくりきてしまって何も言い返せない。

 途中、邸の者達を里に返すために街へ留まった数時間。

 彼女は綺麗になっていた。昔の小さな女の子だった面影を少し残して女性になっていた。

 ほんの少しの時間離れていただけなのに、別人になった気がしたのは、そんな思いがあったからだろうか。


 これから西の国の国境へ向かうというのに、俺と同期の間で交わされる会話は呑気なものだ。


「でも、気をつけたほうがいいよ」


 馬上で揺れる昔馴染みは端正な顔を崩さず言っているのに、雰囲気が神妙だった。その気配が肌に刺さって、思わず姿勢を改める。


「遅咲きって、力が強いんだよ。眠ってた分が蓄積されてるのか腕の立つ奴が多い。その代わり、代償も大きいのが特徴なんだ。しかも彼女は水の系統だろう? 気がついた時には、目が見えなくなってたり、声が出なくなったり、味がわからなくなったりするらしい。五感が駄目になるって噂だから、あまり使わせないほうが得策だよ」


 ————対価のない魔術などない。

 自分でそう言っておいて、背筋が冷えた。

 俺は、彼女のどれも失いたくない。その為に戦場へ出る。どれだけ深手を負ったとしても、彼女を守るために。


 俺の帰る家は、彼女の待つあの邸だけだ。


 ————私が治すね。

 冗談じゃない。

 守るといっておきながら、俺が彼女の何かを奪うなんて、許されない。


「……ねぇ、聞いてる? 返事くらいしなよ。それにしても治癒の能力かぁ。対価さえ大したことなければ僕が引き抜こうか。過保護なお前の視界に入れておけるし、一石二鳥じゃない?」


 へらっと笑って言った同期を、気がつけば殴っていた。

 手加減を忘れて、殴った相手は呆気なく馬上から姿を消した。


「何事だ!!」


 先頭を歩いていた隊長が振りかえる。周囲は無言を貫いていた。


「すいません。気をぬいていたら落馬しました!! 足をとめてすいません。以後気をつけます!」


 素早く立ち上がって頭を下げた同期は、汚れた衣服を払ってからまた馬上の人となる。

 俺は殴ってしまった手を信じられない思いで見つめていた。


 同期に手を上げたことなど、生まれてこの方一度もなかったのに。


「全く、冗談だろ。真に受けるなんてお前らしくない。こんなことで取り乱すなんて武神の名が泣くよ。本当過保護過ぎ。いつまでも守られてばかりじゃないよ。彼女だってもう成人なんだから」


 痛そうに頬をさする同期に、何も言えなかった。


 ————対価さえ大したことなければ、

 彼女の全ては彼女のものだ。

 何一つ失われてはいけない。


 力が目覚めたと言っても、まだ扱いなれてもいない、対価もわからない力だ。

 彼女は俺が守ってやらなければいけない。


 俺が、

 彼女を守ると決めた。


 ゼロの子として冷遇されてきた彼女のささやかな世界は俺が守る。

 二度と、誰にも壊せはしない。



 ◇ ◇ ◇




 それから次の戦場、それが片付けば次の戦場。

 唇をかみ締めながら奪った命がいくつもある。


 数をこなしていくうちに月日は流れ、一年を越え、二年を間近に控えた頃、北の国境を攻めてきた西の国とかち合った。


「戦え! 殺さなければ、殺されるぞ!!」


 そんな怒声をどこか遠くに聞きながら、俺は日々、死者の山を見つめて彼女の事を思う。


「……一個聞いていい?」


 聞き慣れた声に返事はしない。

 放っておいて欲しい時に限って、この同期は現れる。一体何の因果か。


「なんだ」


 改めて物事を尋ねるような間柄でもないのに、同期は妙に真剣な眼差しで俺を見つめる。


「お前はさぁ、失うものが何も無い強さと、守るものがある強さ、どちらが強いと思う?」


 同期は遠くを見つめながらまるで独り言のようにこぼす。

 その問いに正解などあるのだろうか。


「守るものがある強さの方が、強いんだよ」

「何が言いたい」


 聞いておきながら、俺の答えは聞かない。

 同期の本意がどこにあるのか、俺は隣に並ぶ男をじっと見つめた。


 俺が一番守りたいもの。

 それは、八年前に出会った、小さくて小さくて壊れてしまいそうなあの手だ。


「今のお前は、昔のお前より強いってことだよ」


 その言葉の真意はわからなかったけれど、

 少しだけ心が軽くなったのは事実だった。


 斬って、

 斬られて、

 斬って、

 殴って、

 殴られて、

 蹴られて。


 そうしてでも、守りたいものを守るために俺は戦う。

 勝利宣言を聞いた同時に、斬りつけられたのは俺の誤算だ。


「…………ナ。——テ……」


 薄くなる意識の最中、彼女の声が聞こえた気がした。


「アルト?」


 自分の声が、誰か他人の声のように聞こえるのは何故か。

 ドクドクと五月蝿い自分の鼓動が邪魔して、愛しい声が霞んでしまう。


「おかえり、テナー」


 聞きたかった台詞が冥土の土産なんて、最高かもしれないなんて思った俺は、正しかっただろうか。



 ◇ ◇ ◇




 俺は死んだ。

 確かに死んだ。

 死に際が分かるらしい、というのは噂程度で聞いたことはあったが、確かにあの時、俺はこれで死ぬのだと確信した。


 だから、鋭い痛みが頬を刺した時俺は驚いて目を見開いた。

 そう、生きる者しか味わえない痛みを味わい、目を開くことができたのだ。


「やめてください!! まだ体を休めなければ……」

「そんなこと言ってる場合じゃないって言ってるだろ!! ここでこいつを叩き起こさなきゃ、こいつは後悔するんだ。それこそ死ぬぞ!! こいつの守りたかったものが……あの子が死んだなんてことになったら、お前どうやって責任取るんだよ。こいつは守る義務があるんだよ!!」

「何意味不明なこと言ってるんですか。いくら班長でもそれは——」


 こいつは今、誰が死ぬと言ったのか……。


「な……ん、だ——」


 やっと出た声は思っていたよりしっかりしている。

 痛いと思っていたのは頬だけで、自分が負った傷を考えると、随分体が軽かった。


「ほら、起きた!」

「班長が殺すのかと思うほど叩いたからでしょう!!」


 同期に噛み付かんばかりに吠える後輩をなだめる間もなく、同期が俺の胸倉を掴む。そのまま俺をベッドから引きずりおろした。慌てて体重を支えようと力を入れると不思議と足が立つ。背中を切りつけられた俺は、てっきりどこかの神経がやられていると思っていた。そう、死んだと感じるほどの傷だった。深かったはずだ。


「おい、どうし——」

「彼女の代価がわかった。お前そんなところで寝転がっている場合じゃないよ」


 普段涼しい顔ばかりしている同期の額にうっすら汗が浮かんでいる。

 一体何事かと思いながらも俺は引きずられたままの同期の腕を叩いて立ち止まる。


「彼女の代価は、彼女自身だ。一晩かけてお前を治したのにケロっとしてるからおかしいと思ったんだよ。疲れた様子もなければ、目が見えにくそうでも、耳が聞こえにくそうでもない。彼女の傷を逆再生させて皮膚の組織を若返らせるって力は昔は治癒の最高峰だって言われてたんだ。治術師って知ってるよね。アレだよ。古い文献で一回読んだことがあったなと思って引っ張りだしたら、代価はその人自身だ。最高峰と呼ばれた治術師が何故短命なのかなんて、気にかかることもない程昔のことだったから本当かどうかはわからないけど、多分、彼女——」


 治癒する対象の傷を自分の体にうつしている。


 それを聞いて、俺は頭が真っ白になった。

 思い出されるのは、力が目覚めてからの彼女の体。


「お転婆というよりじゃじゃ馬だな。山に行くのはいいが、あまり傷をつくるなよ。嫁にいけなくなる」


 年頃になっても、彼女は山遊びが好きだった。

 ずっとしたいと思っていたけれど、できなかったからと言っていた彼女の言葉を鵜呑みにしていた。

 それほどに山で遊ぶ彼女は楽しそうだったし、山へ入れば傷の一つや二つ付くのも普通のことだった。何せ彼女は山で狩りや山菜取りをしている。

 だから、不思議に思ったこともなかった。


「自分の体に……」

「そう、だから今回はお前の傷が——」


 彼女にうつる。

 それがどういうことか、想像するだけで恐ろしかった。


 ——私が治すね。

 そう微笑んだ彼女の顔が浮かぶ。


 そんなこと。

 そんなこと。

 俺は望んでなどいない。


 俺が戦うのは、彼女がいるからだ。

 彼女のいる街を、彼女のいる邸を、彼女の彩られたこれからの人生を、守るためだ。


 それなのに。


 ついに罰が下ったのだと思った。

 多くを望んだつもりはなかったのに、どれだけ丁寧に掬いあげても、

 幸福と呼べるものは、いとも簡単に隙間からこぼれ落ちる。


「しっかりしろ!! いいか、今から日の出までに彼女を探せ。大抵はじまりの時に傷の移植は始まるらしい。お前しか、彼女は救えないんだからね」

「……どういうことだ」

「お前の能力は一体何か、ちゃんと思い出しなよ」



 触れたものの持つ能力を最大限まで生かすことができる



 それは治術師と並ぶほど、珍しく特殊な能力。


「彼女の異常な力の量も、悲しいかなお前の力のせいもあるだろうけどね。彼女が生きようとしていれば、きっと間に合うよ。生きようとすることも立派な力だからね。命くらいは助かるはずだ」


 同期はまだ何か言っていたが、俺は構わず走った。



 ◇ ◇ ◇




 薄桃色のワンピースが真っ赤に染まった光景を今でも夢に見る。

 息の荒い彼女の手を取りながら、初めて死を怖いと思った。


 沢山の管と、包帯に巻かれた彼女の小さな体は、俺が覚えているよりずっと大人だった。

 何回目だかの記念日に彼女の体に合わなくなったあの薄桃色のワンピースを仕立て直した。新しく買ってやると言ったのに、頑なに首を縦に振らなかった。


 こんなことになるのなら、世間体やなりふりかまわず彼女に気持ちを伝えておけばよかったのかもしれない。 口下手だからとか、今のままでいいとか、彼女の気持ちがわからないとか、言い訳ばかりを並べて、背を向けて。


 守るといいながら、守られて。


 手を握って彼女の生還を祈りながら、どこかでこれも俺の驕った考えではないのかと負の感情がちらつく。 俺の傷を彼女が治すことが本望じゃなかったように、こうして命を繋ぎとめることが彼女にとって本望ではなかったら。


「アルト」


 彼女のいない世界を、もう俺はどうやって生きたらいいのかわからない。

 おかえりなさいと言ってくれる、彼女がいない世界なんて。


「ナー。テ……ナー」


 掠れた声がか細く響く。

 聞き間違いかと思って思わず二度見するほど、驚いた。


「アルト!! アルト、アルト」


 何度も何度も呼びかける。

 彼女が生きてくれるなら、俺は何度だってその名を呼ぼう。


「——————好き。ずっと好きだった」


 うっすらと開いた瞳は誰を見るわけでもなく、力なく閉じようとしてはまた開く。

 彼女の手を握りながら、俺はそこに額をつけた。


「知っている、馬鹿が。早く治せ」


 俺の強がりを彼女は見抜いたのだろうか。

 穏やかに笑った彼女は、そのまま瞼を閉じ、規則正しい呼吸を続ける。


 もしも願いが叶うなら。

 もう一度彼女を抱きしめたい。


 今度は、できるだけそっと。



 自分の思いの丈と一緒に。




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