37.脱出準備
虎太郎さんに言われて、取り急ぎここを離れるべく、寝室に隠してあった少量の虹色魔石のストックを布に包んで胸の間に押し込み、鍵を掛けて家を出る。
何度も左手の婚姻の印に向かって、ノースラァトさんに声をかけたけれど、なんの応答もない。
ノースラァトさんも、私が誘拐されたとき、こんな思いをしていたんだろうか。
応答の無い相手に、何度も声を掛け。
もしかして、拷問をされているのだろうか…いやいや、魅了の魔法を使われたのなら、そんなことはされない、よね。
堀の外の町に向かって何食わぬ顔で二人で歩きながら、私の肩くらいの身長しかない虎太郎さんが、私の左手の印を見て首を捻る。
「こんな風に、契約の証の色が薄くなるなんて聞いたことがないですね。 もしかしたら魅了だけじゃなく、もっと他の魔法も掛けられているのかもしれませんね。 旦那さんのこと、心配だとは思いますが、今は一度引くべきです」
他の魔法も掛けられて……。
その可能性を伝えられ、ぞっと身をすくませた私の右手を虎太郎さんの小ぶりな手が掴み、歩きながらギュッと握り締めた。
「その痣は、契約相手が死ぬまで消えない、だから少なくとも君の旦那は生きてる。 生きてるなら、ボクの薬で幾らでも元に戻します」
言い切った虎太郎さんは、早足で堀の外の町にある『じゅげむの薬屋さん』に向かう。
「薬を取りにいきます。 多分、ボクが君と合流したことは、向こうには知られていないはずだけど、外門に手配が回っていたらまずいから」
そう言ったっきり、私たちは黙々と歩いてゆく。
裏町にある薬屋『じゅげむ』につくと、虎太郎さんは店の横の細い路地に入り、裏手から鍵を外して中に入った。
「大丈夫、この店は2日営業して3日休むところだから。 今日は休み」
そう言いながら、薄暗いバックヤードの、ごちゃごちゃした室内の床の一角を外し、地下室へと降りてゆく。
「君もおいで」
呼ばれて、私も恐る恐る、暗い地下室への梯子を手探りで降りた。
2メートル程降りて足が地面に触れると、頭上の入り口が閉じたけど、すかさず虎太郎さんが地下室内の明かりを点けてくれたから悲鳴を上げずにすんだ。
上の部屋の雑然とした様相とは異なり、地下のこの部屋は壁一面の作り付けの棚に、きっちりと瓶が並べられていた。
空調も効いているのか、肌寒い。
「まずはその髪の色を変えよう。 髪の色で印象も随分変わるもんだよ。 何色が良いかな、明るい栗色…いや、やっぱり濃い緑にしよう。 ボク達みたいな顔立ちで、そんな髪色の部族があるんだ」
棚から瓶をひとつ手に取り、部屋の端に備えられていたテーブルの引き出しを開けて、木製のスプーンを取り出して瓶の中のとろりとした液体をすくう。
「手を出して。 大丈夫、甘いから。 これだけ全部食べて」
言われて出した手のひらの上に、スプーン半匙分の蜂蜜のような液体を落とされる。
コレを舐めたら、髪の色が変わるんだ……。
黒髪に未練があるわけじゃないが、濃い緑の髪になるという抵抗感に、少し躊躇いつつも手の上の液体に口をつける。
「よし、綺麗に変わった。 大丈夫、この薬は、大体半年あれば、新陳代謝で元の色に戻るから」
虎太郎さんはそう言いながら、使ったスプーンを洗って、しっかりと乾いた布で拭いた。
「これでも駄目なら、"若返りの薬"を使って体を縮めよう、ただ、この薬はまだ実験段階で、どの程度飲んだら何歳若返るのか詳しく調べてないんだ。 だけど、死ぬよりはましだろう?」
そう言って私を見上げた虎太郎さんの目は、少し暗くて、ほんの少しだけ怖くなった。
だけど、彼の言うことは、理解できる。
"死ぬよりはまし"
私だって何度も死にそうになった、道端の草木をかじり、腹を壊しながら、石を舐めて飢えに耐えて、それでも死にたくなかったんだ。
「……死ぬくらいなら、子供に戻るくらいなんてことないです」
虎太郎さんの目を見てそう言いきると、ふわっと目元が緩んだ。
子供なのに表情は大人びていて……違和感がある、な。
「その心意気だ。 とりあえず、まだそのままで良いだろう、小さな子供二人で門の外へは、なかなか出してもらえないしな」
虎太郎さんが必要な薬を携帯用の容器に移し替えている間に、私は虎太郎さんの持っていた携帯電灯に虹色魔石をセットして、誠さんへの通話を試みた。




