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優しい詩3

 悲痛な声が沈黙を守る森にこだまする。

 しかしどれだけ耳を澄ましても返ってくるのは静かな川の流れのみ。

 ハニーの心に更に小波が立つ。

 

「エル……エル?どこなの?どこに行ったの?わたしの愛しい天使………もしかしてもっと下流に流されてしまったの?」


 ハニーよりも体の小さなエルだ。

 もっと下流まで流されていてもおかしくない。

 その現実にハニーは狂わんばかりの殺意を自分に抱いた。

 何故手放してしまったのだと、意識を失った自分を責めた。

 エルは無事なのだろうか。

 自分と同じように寒さに震えていないだろうか。

 止めどなく湧きあがる不安がハニーの体を急速に蝕んでいく。

 闇のベールに包まれたここは数歩先のものの輪郭しか分からない。

 それでもハニーはしきりに辺りに視線を巡らせた。

 川から吹く風に吹かれ、ざわりと揺れた草木の陰がまるで人の手のようにハニーを誘っている。

 それはエルであるはずがない。

 エルならばすぐに自分の下に駆けてくるはずだ。


(……でも……もしかしたら、体が思うように動かないのかも………)


一縷の希望に賭け、確かめに行かずにはいられなかった。


「早く……早く行って……あげなきゃ……可哀想に……あの子、震えているわ」


 力の入らない足で砂地を踏みしめた。

 一歩踏み出す度に自身の体が倍以上に重くなっていく。

 何度もバランスを崩し、自分の足だけでも堪え切れずに転倒した。

 濡れた髪に細かな砂が絡まり、彼女の美しい髪くすませていく。

 ハニーは戦っていた。

 目に見える敵や目に見えぬ悪意ではなく、己自身と。

 今までずっと自分の背を追う者に恐怖してきた。

 彼らから逃れる為にガムシャラだった。

 今ハニーの背を追う者はいない。

 しかし立ち止まる訳にはいかない。

 立ち止まることは即ち諦めることだ。

 諦めの先にあるのは死―――それは常に彼女の側にいて、ハニーを引きづり込もうと手招きしている。

 死んだら楽になれるのかもしれない、そう暗い思いが頭を擡げる。

 もう一歩も動きたくないと体中が悲鳴を上げて、途轍もない倦怠感が華奢な体に圧し掛かった。

 全て投げ出して、駄々っ子のように泣き叫びたかった。

 だがハニーは立ち止まる訳にはいかなかった。

 一度は絶望に支配されかけた金色の瞳が凛と燃え上がった。

 そこにあるのは清廉な輝きのみ。追われる者の恐怖や弱さはない。

 自分を鼓舞するよう、固まってしまって思い通りに動かない頬に力を入れた。

 僅かに口の端が上がったが、ハニーが思っているほど表情は変わらなかった。

 ハニーは震える肩を抱く手を無理やり引き剥がし、自分の頬をぎゅっと抓ってみた。

 どちらも思い通りに動かないが、僅かだけ頬がほぐれたように思えた。


「……い、生きてるだけでもよしとしなきゃ。あ、あの……まま、あの男に切り殺されてたら、わたしの体には血が通ってなかったんだから」


 そうだ。震えているのは生きているからだ。

 これは生命の躍動なのだ。

 あの冷酷な異端審問官の剣に真っ二つにされていれば、今ここで寒さに震えることさえできなかった。 切り裂かれた瞬間にハニーは永遠の死に凍り付き、永久凍土の世界に旅立つことになる。

 崖の淵でサリエに言った自分の言葉が不意に脳裏に響いた。


『悪いわね。わたし、諦めが悪いの』


 ハニーの諦めの悪さは時に周りの人間を閉口させるほどだ。

 それをサリエに宣言して間なしの今、果たせなかったと知れば、あの男はどんな顔を浮かべるだろう。

 きっと嫌味なほど美しい顔を歪めてハニーを嗤うに違いない。

 耳の奥でサリエが鼻を鳴らす音が聞こえる。

 癪に障るその声が、弱りその場に座り込みそうになるハニーをたきつける。


『フンッ、口ほどにもない女だ。殺す価値もない』


「あ、あなたに、言われたくないわっ!」


 瞼に映るいけすかない黒い男の背を一睨みし、ハニーは現実に視線を戻した。

 そこにあるのは変わらず何が隠れているのか分からない暗澹とした森だ。

 一歩踏み出すことも躊躇してしまう。

 だが不安になる前に立ち止まる前に手足を動かすのがハニーだ。

 ならば今この瞬間を置いて他に手足を動かす場面があるだろうか。

 サリエに対する怒りが功を奏したのか、寒さに凍てつく身の奥で反抗心が燃えあがっている。

 眩き金色の瞳が蠢く森を見据えた。


「待っていて。エル…………」


 ハニーの嘆きを風が攫った。

 その時だった。


「ぅわお~っ!ヴィ、ヴィ、ヴィーナスの誕生だぁぁぁぁぁ!」


 真摯な気持ちで一歩踏み出したハニーはその頓狂な叫びに足を竦ませた。

 寒さに震えていた体が今度は恐怖に凍りつく。

 この森の中ではエル以外は全てがハニーの敵だ。

 声が紡いだ言葉の意味すら理解できなかった。

 だがどんな言葉であろうとハニーを貶めるものに違いはない。

 自分を追い詰める者の全貌を捉えなければ、と弾かれたように声の聞こえた方に顔を向けた。

 次はどこの騎士団だろうか。

 それとも遂に自国の兵と行き合ってしまったか。

 余裕のない金色の瞳が声の先に自分と違う人の姿を捉えた。

 それが若い男だということは雰囲気で分かるが、それ以外は薄闇に溶け込んでよく分からない。

 ただ男は武器を手にする訳でもこちらを威嚇する訳でもなく、驚きに息を飲んでこちらを見つめているように見える。

 何者だろうか。

 警戒するように目を眇め、次の敵であると確信を強めた。

 だがその確信はすぐに崩れさった。

 男が突如、ハニーの方に跪きだしたのだ。

 ハニーは何事だと目を見開く。

 その視線の先で、男はまるで祈るように手を組んで天を仰ぐと、雄叫びをあげた。


「川辺に立つ一糸纏わぬ乙女!男のロマンがそこにあるぞぉぉぉぉ!」


 

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