優しい詩2
勢いよく見開かれた金色の瞳の前にはあるのは薄暗い森だけだ。
愛しい人の面影もない。
先ほどまで自分を包んでいた懐かしくも物悲しい記憶とのギャップに戸惑い、呆然と目に映る物を見つめた。
陽の落ちた森は不気味なほどに静まり返っていて、その物陰に残忍な悪意が身を潜めているようだった。
「あ……れ?」
驚いたようにハニーは目を見張った。
しばし夢見心地で暗い森を見つめいたが、すぐに自分の立場を思い出し、ガバリと身を起こした。
大げさなほど険しい表情で辺りを見渡す。
ドッドッドッと心臓が急速に高鳴りを上げ、ハニーに警鐘を鳴らす。
(ここはどこ?わたしは今どこにいるの?)
焦燥に駆られた金色の瞳が忙しなく辺りを窺う。
しかし、しんっと静まりかった森は深く全貌が知れない。
ハニーが今の今まで寝ていたのは静かに流れる川岸の砂地だった。
すぐ側に川が流れていると分かるのは、時折水面が盛り上がって光を反射するからだ。
それ以外川は沈黙を守っている。
自分の頬に手を当ててみた。
じんわりとした熱に指先が痺れた。
血の気の失せた指先が僅かな温かさに心底安堵しているようだ。
ジンジンとした痺れが鼓動に重なり、速度を速めていく。
指先から鼓動に乗って熱が駆け巡り、感覚の奪われたハニーの全体に広がっていく。
その温かさにハニーは全てを悟った。
呆然とした顔に驚きが広がった。
ハニーは声を上ずらせる。
「わたし、生きてる?」
どうやら意識を失ったまま川に落ち、そのまま激流に飲まれこの下流まで流されたようだ。
側の川からはあの濁流の飛沫など想像もつかない。
穏やかな流れはそれだけハニーが下流まで流されたことを意味するのだろう。
川の上流を見上げるも鬱蒼と茂った木々が黒い輪郭を描くのみだ。
宵闇に支配された森は昼間と様変わりし、先が見えない。
あの崖からここがどれほど離れているのかハニーには想像もつかなかった。
「ははっ……」
こんな状況にも関わらずハニーの口から笑い声が零れた。
それは崖の側で絶望故に漏らした笑いと違い、純粋な驚きからだった。
なんという悪運の強さだろう。
こうも立て続けに九死に一生を得ることになるとは、助かった今でもハニーは信じられなかった。
崖の上では最悪の予想しかなかった。
それをこうも華麗に裏切られると死の覚悟を決めた身としては拍子抜けしてしまう。
結果笑うしかない。
覚悟を決め力んだ体から力という力が抜けた。
緩んだ体に血潮が沸き返った。
それはハニーに新たな息吹を吹き込んだ。
「わたしって、本当にすっごい強運だわ。あの崖から落ちて生きてるのよ!」
興奮にハニーの頬が紅潮する。
押し寄せる暗闇すら跳ね飛ばす勢いで金色の瞳が輝いた。
しかし希望に満ちたハニーの瞳を曇らそうと、濡れた身に冷たい初冬の風が容赦なく吹きつけた。
「へっ……くしゅ!」
川の水で洗われた透き通るような赤い髪がその白い頬にへばりついている。
濡れた体に纏わりつく襤褸切れはとうの昔にハニーの体を守ることを放棄している。
体の芯から寒気が走り、体の震えが止まらない。
ハニーの体から急激に体温を奪って、風は森へと駆け抜ける。
感覚のない指先が小刻みに震え出した。
それに追随するように歯が噛み合わなくなっていく。
カチカチと乾いた音がやけに響いた。
その後はなし崩しに震えが全身を駆け巡っていく。
自力では止まらない震えを抑えようと、ハニーは両手でその身を抱き締めた。
細い二の腕にぎゅっと指が食い込むが、寒さで痛覚まで麻痺してしまっているらしい。
痛いはずなのに何も感じない。
少しでも暖を取ろうと更に力が入っていく。
吐息の代わりに零れるのは、寒いという呪いのような呟きばかりだ。
一時希望を取り戻した瞳が夜の森に飲み込まれていく。
このまま立ち竦んでいても寒さが治まる訳がない。
それはよく理解していた。
だが今のハニーは一歩踏み出すことにも多大な苦痛を強いられるほどに衰弱していた。
更に熱を求め腕に力を入れた。
細いハニーの指に水に濡れて項垂れた髪も一緒に絡みついてくる。
「……?」
自分の身を抱き締める腕が違和感を覚えた。
寒さに支配された体が一瞬、解放される。
この細い絹のような感触には覚えがあった。
覚えどころではない。
ずっと忘れることができなかった。
するりと己の手をすり抜けていったのはどれほど前のことだっただろう。
そして再び巡り合い抱き止めた時、自分はその感触をけして手放さないと決めたはずだ。
「……なんてこと…………」
違和感が確信に変わり、ハニーは青褪めた。
寒さの為ではない。
体の根幹を激しく殴打されたような衝撃に視界が歪む。
つい先ほどまで自分を包んでいた感触がありありと思い出される。
なんで今まで忘れていたのだろう。
今は忘れていたこと自体が信じられなかった。
もう二度と離すものかと渾身の力を持って抱きしめたのに。
考えの足りない自分にこれほど嫌気が差したのは初めてだ。
ハニーは喧しく音を立てる歯を乱暴に噛みつけた。
濡れた髪がハニーの体から剥がれるほどの勢いで首を振り回し、余裕ない金色の瞳を視界の利かない森へと向けた。
衰弱した体のどこにそんな力が残っていたのか。
もう魂のみで動いていたというのが正しいのだろう。
ハニーは喚き散らした。
「エルッ!どこにいるの?応えてっ!お願いだから、返事をしてっ!!!!」