悪魔の瞳9
(ああ、エルの声が聞こえる。柔らかで優しい声……。この声に包まれたら、天国に行けるかもしれない)
傾く体を空に預け、ハニーは心からの笑みを浮かべた。
親友エルの笑顔を思い出せなくとも、天使のように愛らしい少年の声は思い出せるらしい。
彼の声に包まれて死にゆくなら本望だった。
傷ついた体を無情な風が突きあげる。
四肢が弾け飛んでしまいそうなほどの勢いだ。
肌が裂けて血が噴き出す。
凍りついた体が砕けてしまいそうだ。
このまま跡形もなく消えていくことが死なのだろうか。
すぐ側で手招く死の存在を確信した。
だが彼女を抱きしめたのは無情な死でなく、息を飲むほどに力強い抱擁だった。
今まさにハニーの喉も噛みついていた死が急にその牙を失った。
諦め血潮の熱ささえ失っていた体の芯が燃え上がる。
(あっ……これが天国?)
うっすらと開いた眼が捉えたのはどこまでも澄んだ青い空だった。
日の光が輝いて降り注ぎ、風が天高く舞う。
華奢なハニーの体が傾き、下から突き上げる旋風に真っ赤な髪が逆立った。
青い空に赤が揺らめく。
その淡い赤に眩い金色が混じっている。
それは太陽の光のように繊細で、でも手を伸ばせば確かに掴むことができる。
思わず伸ばした手が掴んだ者を見つめ、ハニーは息を飲んだ。その瞬間、止まっていたハニーの時間が動き出した。
気持ちの悪い浮遊感に一気に目が覚めた。
あっという間に現実に引き戻され、ハニーは自分が足のつくところがない空中にいることを知った。
でもそんなことはどうでもいい。
ハニーは熱を取り戻した鼓動が逸るままに叫んだ。
「エルッッッッッッッッ!」
自分が掴んでいるのはあの時掴み損ねた愛しい彼の欠片。
見開かれた金色の瞳が自分の腰にひっついている塊を見つけ、つま先から震えあがった。
もう二度と会えないと思った存在。
何度も会いたいと願った彼がすぐ側にいる。
自分の体にきつく抱きついている金髪の少年の小柄な体躯が風に煽られ、今にも舞いあがりそうだ。
それでも彼は歯を食いしばってハニーから離れんとしている。
光の糸のような髪がハニーには本物の太陽以上に眩く思えた。
「なんで……」
「ハニーは僕が守る!」
それは強い使命感に満ちた声だった。
じっとハニーだけを見つめる瞳は透き通った今日の空よりもずっと輝いていた。
覚悟を決めたその眼はけして諦めたりなどしていない。
(……ああ…やっぱりわたしはバカだ。まだ生を諦めるには早い)
ハニーは込み上げる感情と一緒に自分にしがみつく小さな体をぎゅっと抱き締めた。
あまりに力を入れ過ぎてエルが苦しまないかと自分を責めてしまうほどだ。
だがそうでもしないと無情な風に引き裂かれてしまいそうになる。
崖の下から轟々と流れる水の音がする。
その音を背に聞きながらハニーは覚悟を決めた。音のみで全貌が知れないが、下が水ならば一か八か助かるかもしれない。
なんとも無謀な賭けだ。
どんなギャンブラーも絶対に危険極まりないオッドにかけたりはしないだろう。
でもそれがたった一つハニーに残された道ならば喜んで命の全てを賭けようと、高潔な金色が自分を包み込む青を睨みつけた。
たった僅かでも希望があるなら、どんな道であっても進み続ける。
それが自分の使命だ。
ずっと胸に抱き続けたその信念を一瞬でも忘れた自分が悔しい。
(そう。まだ終わった訳じゃない……まだわたしは絶望に足を止める訳にいかない)
強い信念を灯した瞳が日の光を受け、神々しく煌めいた。
その眼が視界の端に黒い塊を捉える。
隻眼の異端審問官がその美しい瞳を見開いていた。
どんな時でも余裕を忘れない彼からは想像もつかない表情だ。
冷酷な顔が驚きの色を湛えて彼女を見つめている。
その手に握られた剣は振り落とす途中、虚空の中で動きを止めていた。
何か言いたげに彼の薄い唇が動いた。
だが、突風に巻き上げられた赤い髪が邪魔をする。
遥か遠くのサリエの姿を覆ってしまう。
サリエがなんと呟いたのか、ハニーにはたった一言も分からなかった。
いや、もう周りに気を巡らせる余裕などどこにもない。
今ハニーに分かることは身を切り裂く旋風に逆らって落ちていくことだけだ。
もう一度顔を上げて、視線の先にある全てを睨みつめた。
しかし眼前に広がるのは剥き出しの崖と青い空だけ。あの男はいない。
すぐに抗いがたい衝撃がすぐにハニーの余裕を奪い去り、ハニーはただガムシャラにエルを抱き締めることしかできなくなった。
重要無尽に駆け抜ける衝撃に押し付けられ、突き上げられ、もう上も下も分からない。
ぎゅっと腕に力を入れるとそれに応えるようにエルの小さな手が握り返してくる。
未知の領域に落ちていくハニーにとって、この小さな存在だけが頼りだった。
(必ず約束を果たすわ……真実を取り戻す)
落ちゆき、薄れゆく意識の中、最後に見たのは眩しい太陽のように可憐なあの人の笑顔だった。
「自ら更に険しい道に落ちたか……。まあ、それもいい。一筋縄でいかない方がより楽しめる」
サリエは眼下に広がる切り立った崖を見下ろし、小さく呟いた。
殺伐とした初冬の風が吹き抜けていく。
風は赤い海に小波を立てて、森の奥深くへと通り過ぎていく。
風の去った後に残ったのはぴくりとも動かない騎士達のなれの果てだった。
気を失った彼らに一切頓着せず、サリエは眼下に冷酷な眼差し注ぐ。
しかし悪魔のように真黒な瞳を以てしても崖の下に飲み込まれたハニーの姿を見つけることはできなかった。
サリエは切り立った崖のすぐ側でしばし思案した。
だが何かを思い当たることがあるのか、徐に指を銜え指笛を鳴らした。
ピィィィィィッと甲高い指笛に惹かれて、瞬く間に一羽の鳥が飛んできた。
大きな翼を空いっぱいに広げているのは精悍な顔つきの大柄の鷲だ。
空の王者は猛禽類らしい鋭い爪を広げ、従順な態度でサリエの肩に降り立つ。
その喉元をそっと撫でてやると鷲は気持ちよさそうに目を細めた。
鷲が満足するまで撫でてやってからサリエは懐から羊皮紙を取り出し、持っていた木炭で何かを書きとめた。
それを慣れた手つきで鷲の足に括りつけると、再度鷲の喉を撫でる。
「いい子だ」
彼らしくない優しい声でそう呟くと、鷲を空へと解き放った。
自分の使命を理解しているのか、鷲は大きく翼を広げ飛びあがる。
青い空を鷲が優雅に風を切って飛んでいく。
その姿をじっと見つめ、サリエは隻眼を眇めた。
鷲が向かう方にあるのは遥か遠くのゼル離宮。
「たった一人で歴史を変えるのか?なんの力もない、ただの女が」
鷲の姿が深い森に飲まれるのを見届け、サリエはマントを翻した。
口元に浮かべられた笑みは彼が心底愉快で浮かべているのだと一見して見て取れる。
眩い光を背にしたサリエの美しい顔に冷酷で意地の悪い影が落ちていた。
「この先が見ものだな」
意味ありげに口の端を押し上げ、サリエは悠々とその場を後にした。
彼の去った森に残ったのは真っ赤な海だけ。
誰一人意識を取り戻すことはない。
風にたなびくマントだけが彼らの存在を主張していた。
空は急激に曇り始めた。透き通る青空を雲が灰色に包んでいく。
まるで悲劇の女王の運命を暗示させるような暗雲が森に迫っていた。
自らの運命に賽を投げた悲劇の女王。
果たして彼女は闇に葬られた真実を取り戻すことができるのか。
力なき女王と小さな従者が堕ちる先は天使の腕か、それとも悪魔の爪か――。