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悪魔の瞳8

 マントルの元まであと一歩の距離だ。

 ハニーは心のうちから溢れだす切なる思いを動力に更に足に力を入れた。

 だが最後の一歩は踏み出す瞬間は永遠に訪れなかった。

 力づくで掴まれた右肩に背筋が凍りついた。

 鼓動さえその動きを止めた。

 逸る気持ちに反して動けなくなったハニーの後ろにいるのはもちろん、全ての元凶である漆黒の悪魔だ。

 錆付いたように動かない首がぎぎぎっと背にいる男の方へと引き寄せられる。

 恐ろしさに色を失った金色の瞳の先にいるのはもちろんサリエだ。

 彼は冷酷な無表情のままハニーの肩を片手で掴んでいた。 

 左手で悪魔の瞳を覆った男はその細腕でハニーの全力を簡単に抑え込んでいる。

 何っ…そう言いかけたが、結局息を飲む音に全てを打ち消された。

 ひゅっと間抜けな音がハニーの耳に届いた時にはハニーは地面に引き倒されていた。

 容赦なく後ろに引かれ、強かに腰を打ちつけた。

 あまりの衝撃に一瞬息が詰まる。

 それでも打つ付けた腰に手をやり、ハニーは形振り構わず立ち上がろうと顔を上げた。

 だがその時には彼女の前に黒い影が出来ていた。

 大きな影は全てを覆う。

 その真ん中で何の感情もない漆黒の瞳がじっとハニーを見下ろしてくる。

 ハニーはキッと目をつり上げ、立ち上がった。


「どいてっ!早く手当てをしないと死んじゃうわ!」


「別に命に別状はない。ちょっと黙ってもらっただけだ」


 感情的なハニーに反してサリエは奇妙なほど冷静だ。

 抑揚のない声でハニーの動きを制した。

 その短な言葉の中にある言葉以上の迫力に気圧され、ハニーはぐっと歯を噛みしめた。

 ハニーの動きが止まったのを確認すると、サリエは左眼を押さえたまま、器用に眼帯を着け直した。 

 視界からハニーを外しても何もできないと確信しているのだろう。

 頭の後ろに両手を回し、長い睫毛に縁取られた右目をそっと伏せる。

 そんなさり気ない仕草さえ濡れるような色気を放つのだからこの男は始末に悪い。

 卒のない動きに彼の余裕が表れていた。

 ハニーはただ戸惑うようにサリエを見つめるしかできない。

 本当に彼らの命は無事なのだろうか。

 本来なら駆けだしてこの目で見るまで信用ならない。

 だがサリエの言葉はするんとハニーの心に沁みていく。

 まるで研ぎ澄まされたようにさざ波一つたたない水面のような声が暗にそれが真実だと告げていた。

 彼の言葉を受け入れて耳を澄ませれば、微かだがマントルの息を吸う音が聞こえてきて、ハニーは強がって怒らせていた肩の力を抜いた。

 彼が何を考えているのか。

 それを探るように伏せられた右目を窺う。

 しかし彼の片眸にはもう何の色も浮かんではいなかった。

 ただただ無感情で無機質な闇が広がっているばかりだ。

 ざあっと二人の間を風が駆け抜けた。 

 舞い上がった落ち葉がはらはらと二人の間に落ちる。

 その風に乗って、また遠くから恐怖の旋律を奏でる騎士達の怒号が聞こえた。 

 眼帯を付け終えた両手を下ろし、サリエはそっと深い森に視線を這わせた。

 まだ視覚で捉えることはできないが、確実にハニーの敵はその数を増し彼女を追い込まんと森を埋め尽くす。


「また追手が来る。だが、折角俺が見つけた獲物だ。他に奪われるのは癪だな」


 ぽつりと呟かれた言葉に、ハニーはここが自分の死に場所なのかとまるで他人事のように考えていた。

 怖いとか悔しいとか、そんな感情はなかった。

 燃え尽きてしまったとでも言えばいいのか。

 エルが無事だと知り、早く彼女に会いたいと思う反面このまま死んでも悔いはないとさえ思った。

 先ほどまでの熱せられた視線が失せたことを感じ取ったのかサリエが怪訝そうに眉を寄せた。

 だがそんなことで口を開く男ではない。

 彼は自分の貫くべき使命に忠実な男だ。

 その突き進む道に同情など存在しない。

 真っ直ぐにサリエを見つめる金色の瞳の中で、無情な男が音もなく腰に佩いた剣を抜いた。

 すらりと伸びる抜き身の刀身に鮮やかな空が映し出される。

 小さく切り取られた空は青銀に輝いていた。

 ハニーはぼんやりとサリエの剣を見つめながら最後に見る空が晴れ間でよかったとどうでもいいことを考えていた。

 光を受けて輝く剣の切っ先は真っ直ぐにハニーの胸元に突きつけられた。

 たった一つしかない黒曜石の瞳はこの状況でも変わらずにただ高潔に輝く。

 剣の切っ先以上に鋭い気迫に満ちた眼差しにハニーは吸い込まれそうになった

 空気を伝ってやってくる震動が彼の本気を伝える。その剣に胸を貫かれればどうなるか、想像に難くない。

 一歩前に出るサリエに気圧されてか、それとも本能に従ってか。

 無意識にサリエから遠ざかろうとハニーの足が後ずさる。

 しかしすぐ後ろ、数歩先は崖である。すぐにその先端まで追いつめられた。

 背に崖から吹き上げる冷たい風を背中に感じた。

 風はハニーの体の芯を凍てつかせようとハニーの体を包むぼろきれを捲り上げた。

 その下に剥きだしなっている白い肌は傷つき、見るも痛々しい。

 じゃりっと土を踏みしめ、サリエがさらにその距離を縮めようと近づく。

 小さく半歩下がり、ハニーは両の拳を握った。

 その小さな手に握りしめたのは悔しさなのか、それとも諦めなのかハニー自身分からなかった。

 もう全て燃え尽きたはずなのに。

 それなのに、未だ何かが自分の胸の奥で燻り続けている。


「わたしを殺すのね」


 驚くほど冷静な声に自分でも驚く。

 確信に満ちた問いに応えるようにサリエは鋭い剣を天高く振り上げた。

 それは迷いなく異端者を断罪する死の天使らしい高潔な姿だった。

 しかし人としては何かが欠如した、無慈悲な行いでもあった。

 終に死の影がハニーに追いついた。

 足首を深く掴む風は今にでもハニーを地獄の奥底に引きづり込もうとしている。

 すっと一縷の涙が汚れたハニーの頬を伝った。

 その温かい雫が何を意味するのかハニーは掴みかねていた。

 しかし後から後から清浄な雫は留まることを知らずに溢れだす。

 こんな顔をこのいけすかない男になど見られたくないのに、涙を止める術もない。


「…おかしいな……いずれはこんな瞬間が来るって覚悟してたのに……エルが生きているならもうそれ以上望まないはずなのに………」


 震える手で目元を拭っても、燻り今にも燃えあがりそうな感情までは消せそうにない。

 ハニーは頭上に広がる広大な空を仰ぎ見た。


「ごめんなさい……エル………もう二度とあなたには会えそうにないわ」


 青々とした空を映し出す金色の瞳をそっと閉じた。

 その瞼の奥に映るのは血だらけのエルだ。

 生気の欠片もない瞳が暗雲たる暗闇からじっと彼女を見ている。

 それがこの世で見る最後のエルであることがハニーは残念でならなかった。

 でも今ハニーに出来るのことはサリエが嫌味は口にしても嘘は吐かない男だと信じ切って最後の瞬間を迎えることだけ。

 エルが生きているならばそれ以外は望まない。

 必ずやエルがハニーの突き進んだ道を受け継いでくれる。

 亡霊のようなエルは幻想だと自分に言い聞かせ、強がりの笑みを浮かべる。

 それは遠く離れてしまった無二の親友へのエールだったのかもしれない。


(死に方も一緒じゃ笑えないわ。だからどうか……どうか、あなただけは生き延びて。ああ…神様、もしわたしにまだ命の欠片が残っているなら、その全てを彼女に注いでください)


 すぐに地面を踏みしめサリエが自分の方へと近寄る音が聞こえた。

 カチリと剣を翻す音に肌が粟立つ。


(全て終わりだ)


 金色の瞳から最後の涙が零れ落ちた。

 優しく頬を撫でた雫が顎の先から滑り落ち、音もなく弾けた。

 風を薙ぐ音が遥か遠くに聞こえた。

 ごうっと風を切り無情に振り下ろされる断罪の刃は真っ直ぐにハニーの頭上に振り落とされ、そして……。

 その時突風が駆け抜けた。


「ハニィィィィイイイィィィィィィィ~!!!!!!」


 全てを運命に任せたハニーの耳に自分を呼ぶ声が響く。

 それは聞き親しんだあの少年の声に似ていた。

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