悪魔の瞳5
凍てつく太陽の下、漆黒の死刑執行者が厳かに口を開く。
静かに下された死の宣告に赤い円が撓んだ。
アンダルシアの騎士団には成す術もない。
だがサリエは追い込む手を緩める気はない。
大きくマントを払うと、サリエは徐に自らの左眼に手を当てた。
(本当に……悪魔の瞳の持主なの?ねぇ、悪魔なんて存在しないのでしょう?お願いだからもう、あなたを馬鹿にした哀れな男達を許してあげて)
サリエの背を見つめながら、ハニーは悪魔の瞳を必死に否定した。
愚かにも覇王の逆鱗に触れた男らに代わり、許しを乞うた。
しかしどれだけ心の中で叫んでも現実が変わる訳がない。
ハニーはただただ離れた場所から事態を見つめるしかできない。
サリエの纏う空気に所為だろう。
冷える青空にハニーの皓歯がかちかちと音をたてる。
食いしばって止めようとしても体の芯が冷え切って、その生理的な反応を止めることができない。
「ひっ、やめてくれ!許してくれ!」
空気を伝い押し寄せる波動に赤い壁は今にも砕け散ってしまいそうだ。
がくがく震える騎士達の口から洩れる命乞いの言葉は悲痛な叫びとなって森の葉を揺らす。
サリエは邪眼など必要としていなかった。
蟻と虎の戦いだ。もう勝負は決まっている。
だがサリエの手は止まらない。
ぐっと眼帯を掴むと力任せに引っ張る。
頭に後ろで括られていた眼帯の紐がぱらりと解けた。
今、その悪魔の瞳を覆うものは、もはやサリエの掌だけだった。
「悪かった!お願いだ、助けて……」
マントルは誰よりも情けない顔に脂汗を滲ませて、懇願の眼差しをサリエに向けている。
先ほどまで強気一辺倒だったのに、もう楯突く気も起らないとばかりに平身低頭している。
あまりの落差に誰よりも薄っぺらい人間に見える。
しかしそれも彼方ないことだろう。
これこそサリエとマントルの格だ。
始めからマントルなどサリエの敵ではなかったのだ。
口だけの男が凶器を孕んだ美しさを持つサリエに敵う訳がない。
サリエの背しか見えないハニーにもマントルの恐怖心が痛いほどに分かった。
ハニー自身もビリビリと空気を伝播するサリエの凶気に身動きが取れない。
サリエは絶対零度の気を放つ右の瞳のみで人を恐怖に陥れる。
たった一つの瞳でこの威力だ。
邪眼と恐れられる隠された左眼が揃った時の恐ろしさなど計り知れない。
でも……震える手で両肩を抱きながらハニーは心を暗く染める恐怖心の中に一つの違和感を覚えた。
逃げだしたいと願う本能の中で、灰汁のように浮かび上がったその感情は周りと比べて異質だった。
その異質にハニーの鼓動が不協和音を奏でる。
居心地が悪く、綺麗に収まらないその胸の高鳴りを抑えるようにハニーは両手を握りしめた。
指先の色が白く変わる。
それでも違和感は消えない。
名前のない違和感が段々とハニーの胸の内で形を得ていく。
灰汁だった違和感は今や掌大の球体となってハニーの胸の内を暴れ回る。
「ああ……」
胸に響く球体の震動に体が焦り出す。
居ても立ってもいられない衝動を必死に抑え込み、大きく息を吸った。
吐息に紛れて、小さな呻き声が漏れた。
ハニーは灰汁の正体をおぼろげながら掴みかけていた。
球体は更に激しく弾む、ハニーの鼓動がそれに呼応する。
(なんで?)
それが違和感の正体だ。漠然とした疑問。
そしてその疑問の先にハニーがどんな時の捨てきれない優しさがあった。
優しさが熱せられて怒りに変わる。
自分の理想と反する不条理な現実が悔しくて、唇を噛みしめた。
ハニーはマントルらアンダルシアの騎士団のような、浅はかな人間が大嫌いだ。
こんな場でなければ力の限り彼らを罵っただろうし、もしかしたら頬の一つも打ったかもしれない。
それでも負けを認めた者を更に追い込むようなことはしない。
命を奪うなど以ての外だ。
何故同じ人同士でいがみ合い、陥れ合うのか。
その先にある未来が明るいものでなるはずがないのに、何故それが分からないのか。
(もう彼らは戦う気なんてないのに……。もう悪魔の瞳は必要ないじゃない。なのに何でまだあの人達を追い込もうとするの?)
ハニー自身よく分からない。でも居ても立ってもいられなかった。
黒く底のしれない疑問という泥の中でただ叫ばずにはいられなかった。
「やっ、やめなさいっ!」
強張った顔で叫んだ所為で声が上ずり、締まらない口調になってしまった。
完全無欠のサリエの前ではあまりに滑稽だ。
しかしそんなことに構うものかと、ハニーは全ての力を眼差しに込めサリエを睨む。
ハニーの横やりが意外だったのか、一瞬サリエの動きがピタリと止まった。
だがすぐに不機嫌そうなつんけんした声が飛んできた。
「見たいと言ったから見せたまで。お前は黙っていろ」
左目を押さえたまま、不満げに眉を寄せたサリエがこちらを振り向く。
大きく揺れる漆黒のマントの向こうで赤い騎士団が今にも死にそうな顔をしていた。
彼らの生命を自由に扱えるサリエはまるで死神だ。
その左目に騎士団の未来を握っている。
酷薄に見える白皙の肌が淡い陽光に照らされて更に色を失う。
漆黒の衣と濡れたような黒髪の中で肌の白さが一際際立っていた。
唯一色を添える赤い花十字がぽかっり浮かんで見えた。
それは絵画のような光景だった。
ひょっとしたらサリエは絵画の中にいたのかもしれないと、それならば人の心を解さなくても仕方ないと半ば本気に思わされた。
だが、たとえサリエが人でなくともハニーは人だ。
感情のままに動く彼女を絵画の中に留めておくことなどできない。
心の赴くまま、ハニーは大きく一歩踏み出した。
「いいえ、黙らないわ!追いこまれて怯える人を目の前にして、ただじっと見ているだけなんてわたしには無理っ!」
険しいサリエの視線に負けるものかとフンッと鼻を鳴らした。
強がって肩も怒らせてみる。
そうやって自分を誇張しないとサリエの纏う闇に飲まれてしまう。
サリエが恐ろしくて仕方なかった。
でも何もしないという選択はハニーにはない。
巻き上げられた赤い髪はハニーの血潮だ。
彼女の情熱に呼応するように青い空を無尽にはためいた。
その乱れる赤の中で信念の灯に燃える金色の瞳がサリエを射抜く。
「……お前は怖くないのか?」