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血に濡れた女王5

 淡々としているのに、驚くほど玲朗な響きが広間の端まで届いても尚、ハニーにはその言葉の意味を理解できなかった。

 ただただ少年に吸い寄せられるように立ち竦む。

 この少年は何か魔力を発しているのだろうか。ハニーの心を捕えて絡めて引き離さない。その癖、その顔からは何一つ感情らしき感情が拾えないのだ。


「……音がもうすぐそこに……」


 伏せるように通路に視線を巡らせる少年に、ハニーはその視線の呪縛から解き放たれた。

 弾かれたように自分の来た道を振り返る。

 今の今まで追われる立場であったこと忘れていた自分の浅はかさを呪いたくなった。かっと頭に血が上り、瞬間蒸発してしまいそうな怒りが込み上げる。

 その感情を必死で押し殺し、舌打ちをした。


(わたしのバカ!追われることを忘れるなんて、どれだけボケてるのよ!)


 闇の沈黙を破るように遠く彼方から何かが近付いてくる。

 微かな物音は次第に大きく、そしてはっきりとした音へと変わっていく。これは彼女を追い詰める絶望へのプレリュードだ。

 幾千もの騎士達の足音が追われる恐怖を呼び覚まさせる。

 傷だらけの華奢な体が恐怖に固まり、強気な顔が一気に青褪める。焦りが浮かんだ金色の瞳が救いを求めるように忙しなく辺りを見渡した。


「逃げなきゃ…」


 浮足立った心を叱咤する。ハニーは差し迫る恐怖から逃げようと奥へと駆けだした。

 だが踏み出した瞬間、後ろ髪を引かれるように少年に視線を向けた。

 然したる感情の変化も見せずに神殿の奥に続く通路を見つめている少年に不安がよぎる。

 このままこの少年をこの広間に残していっていいのだろうか。騎士団はこの幼い少年を助けてくれるだろうか。

 気が立った騎士達が、その憤りを少年にぶつけたりしないか……それ以上にこの少年が自分を匿ったなどという濡れ衣を着せられ殺されることはないだろうか。

 自分一人も守れないハニーに少年を救う力などある訳がない。

 ここで一人の少年に情けをかけて無駄死にするか、それとも国を救うという大義のために少年を見捨てるか……。ハニーに迫られた選択肢は二つしかない。


(でも………)


 そっと瞼を閉じて、深く息を吸う。僅かの逡巡の後、ハニーは覚悟を決めた。


(どちらも選べない。だから………)


 勢いよく開いた視線の先に広がるのは第三の道。

 ハニーは少年目がけ駆けだした。掴みかからん勢いで祭壇に駆け寄るとひんやりとした少年の肩に手を置いた。


「怖がらないで。今から来るのは……たぶん正義の騎士達よ。ただ……誰の正義なのかは分からないけれど……」


 少年は苦しげに言葉を切ったハニーを不思議そうに見返すばかり。ちゃんとハニーの言葉が届いているのか不安になるほどだ。

 しかし問い返している間などはない。


「いいこと。あなたはこの石台の裏に隠れていなさい。絶対に動いてはダメよ。押し寄せた騎士達は私が引き受けるから。あなたは今から何も見ない。何も聞かない。何も知らないの。あなたが出会ったのは血に濡れた女王の幻影。夜と共に消えさる悪夢―――」


 猛り狂う騎士達はまるで理性のない獣のようなものだ。

 目の前に探し求めていた血に濡れた女王という餌があれば、わき目もふらずに食らいついてくるだろう。

 騎士達がこの広間に入り込んだ瞬間、ハニーが通路の向こうに走り出す。

 そうすれば誰もこの広間でもう一人、息を潜めている者のことなど気も止めない。

 ハニーにとっては最高に危険な賭け……いや、ヘタをすればただの自殺行為だ。だが自分の身を切ることでしかハニーはこの少年を守る術がない。

 

「…女王?」


 しかし少年は小首を傾げるばかり。小さな口から零れた愛らしい声には何の恐怖ない。

 ハニーの決死の言葉すらこの清浄な広間に漂う空虚のように思っているのかもしれない。

 どこか上の空でハニーの言葉を舌の上で吟味するように繰り返す。


「そうよ。エクロ=カナンの女王。世にも恐ろしい血に濡れた女王よっ!」


 血に濡れた女王―――自分でそう名乗るのは腑に落ちないが、事態は急を要する。

 早くこの少年に自分がいかに危険な存在であるかを知らせなければならない。


「エクロ=カナン………」


 だが焦るハニーとは裏腹に少年は、彼女の言葉に心を奪われている。

 何かが彼の心の琴線に触れたらしく、無心に何度も何度もその小さな口の中で転がす。


「ああもう!じれったい子ね!」


 余裕なくハニーは唇を噛み、素早く立ち上がる。 こんな幼い子供にすぐにこの現状を理解しろというのが無理な話なのだ。

 ハニー自身、全てを把握しているかと問われれば否としか答えられない。

 だが今は全体像など拘っている場合ではない。

 ここから逃げ出す。それが最大の使命。

 ごくりと唾を飲んで、ハニーは切迫した顔でどちらへ逃げようかと辺りを見渡した。


(真っ直ぐに行くか…それとも脇に逃げるか…)


 敵はハニーを挟み撃ちにしてくるかもしれない。

 ただ今は、この深淵の闇によって守られている神殿がどのような造りになっているのか、追っている騎士達も知らないことを祈るばかりだ。


「じゃあ、ちゃんと隠れるのよ。わたしはあの通路の端で彼らを待ち受けるから………もう二度と会うことはないでしょうけど、元気でね」


 少し寂しげに顔を崩して笑う。

 本当はその血筋に見合う流麗な仕草で別れの挨拶をしたかったのだが、今のハニーにそんな余裕はない。

 どんなに強がってもひたひたと押し寄せる恐怖に抗うことはできない。

 それでもそんなものなど全て切り捨ててやるとばかりにハニーは眉間に力を入れた。

 思わず口から零れそうな弱い自分を唇を噛みしめることで押しとどめ、少年の側を離れた。

 優雅に髪を払い、胸を張って身を翻す。淡い赤の髪はまるで燃える花のように、美しく光の広間に舞った。

 足音が段々大きくなってくる。遠くから聞こえるのはくぐもった悪魔の声だ。

 姿なき悪意が溢れかえった通路の向こうが恐ろしくて仕方ない。余裕に見せかけたハニーの頬を冷や汗が伝った。


(ほんと、しつこい男達ね!モテる女はつらいわ)


 心の中で押し寄せる騎士達を皮肉るように笑ったが体は正直だ。

 気丈なはずの顔は強張り、美しい金色の瞳には焦燥の色が浮かんでいる。引きつった頬には余裕のない歪な笑みが張り付いているばかり。

 もう終わりだと諦められたらどれだけ楽だろう。絶望し、動くことすらやめてしまった先にある死はどれだけ安寧の内に訪れるのか。

 それでもハニーは行かなければならない。

 怖いのは死ではない。一番の恐怖は自分の為に血に染まった友人との約束を違えることだ。

 ぐいっと顎を引き、燃えさかる金色の瞳で自分の進むべき道を見つめた。


 不意にその手を掴まれた。




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