悪魔の瞳4
それが切っ掛けだった。
澄んだ陽光の温かさが苛烈な覇気に凍りついた。光は凍るのだ。
そして見境なくその場の者に突き刺さる。
サリエを中心に幾千もの光の刃が取り放たれる。
まず餌食になったのは、もちろん一番サリエの側にいたマントルだ。
気圧されたように手を伸ばしたまま、二、三歩後づ去ったかと思うと耐えきれずに派手に転倒した。
ひぃひぃと腹の奥底から洩れる恐怖が喉で引きつけを起こしている。
そこにはもうサリエに対する嘲笑などない。
目に見えない何かに畏怖したマントルの瞳が見上げる先で、絶世の美しさを誇る顔が冷酷な笑みを浮かべていた。
なんとも圧倒的だ。
美しさが人に恐怖心を抱かせることがあるのだとこの世に知らしめていた。
サリエに圧倒され、アンダルシアの騎士達は一様に息を飲み言葉を失った。
その姿はこの場に君臨し、全ての生殺与奪を担う王だ。
気の向くままにこの場にいる者の心臓を鷲掴みにするなど訳ないだろう。
そしてこの男はその力を躊躇なく揮う冷酷さも持ち合わせている。
王は悠々と赤い騎士団にぐるりと視線を向けた。
一瞬の横顔が漆黒の髪の隙間から見え、ハニーは固唾を飲んだ。
金色の瞳が映し出すものが現実だというのなら、サリエはきっと人間ではあるまい。
非情な空気を纏い、まるで大輪の雪花が花開いているかのように微笑む者がこの世のものであるはずがない。
艶やかで、透き通り研ぎ澄まされた美がそこにはあった。
だが柳眉の下にある隻眼は永久に解けない暗い炎に揺らめいていた。
絶対零度の炎は近寄る者を一瞬にして凍りつかせ、塵一つ残さぬように消し去ってしまう。
アンデルシアの騎士団と共に、ハニーは凄艶の笑みに目を奪われていた。
いや、目を逸らすことなど許されない。
(男の人をこんなにも美しいと思ったのは初めて……。でも、何でこんなに寒気がするんだろう)
背筋が凍りつき、体の奥まで支配されていく感覚が広がる。
思わずハニーは剥き出しの肌を擦り、肩を抱いた。
そうでもしないとサリエから発せられる冷気に圧倒され、無様に泣き叫んでしまいそうだ。
(もしかして…あの人、怒ってる?)
いつもサリエは嫌味たらしい笑みしか浮かべない。
くっと喉で笑い、顔を歪めるように口の端を上げて人を馬鹿にする。
その中途半端な笑みを今まで美しいと感じていた。
それがサリエの最上の笑みだと思っていた。
なんて浅はかだったとだろう。
今頃、この男の真実に気付くなど……。
本物の美しさはここにある。
人を圧倒させ、恐怖に引き込む壮絶な美しさだ。
ハニーの脳裏に昨日、あの神殿で彼が放った言葉が蘇る。
『悪魔とはその力が邪悪であればあるほど醜悪な姿を隠して、天使のような顔で現れる』
あれは自分のことを言っていたのだろか。
怒りが頂点に来れば来るほど、サリエは美しく微笑むのだ。心に沸々と沸く激情を感じさせないよう、凍てついた笑みでそれを隠す。
それは美麗な悪魔のセオリーなのかもしれない。
(悪魔の瞳……もしかしたら、本当に彼の左目には悪魔がいるのかもしれない………)
ハニーはアンダルシア騎士団の噂話など何一つ信じていなかった。
それを受け入れるのは、同じく心ない噂に傷ついたハニー自身が血に濡れた女王を肯定してしまうようなものだった。
どれだけいけすかない男であっても、この金色の瞳が映し出す彼だけを見ていようと思っていた。
だが、その思いは脆くも崩れさる。
凍りつくほどの美貌が悪魔の瞳の存在を無言の内にその存在を肯定していた。
サリエという覇王を中心に空気が氷の厚みを増していく。
風も木々も光さえも動くことすら許されない。
悪魔のように美しい男の前ではなす術もなく、全てがその美貌に跪く。
「血に濡れた女王を狩る前の余興だと?身の程知らずがよくもまぁ大きく吠えたものだ。その度胸だけは褒めてやる。だが………」
それは美しい笑顔が劇的に変わる合図だった。
凍りついた時が一気に動き出し、一つの衝撃となってアンダルシアの騎士達に押し寄せる。
彼の凍える瞳が険しく、禍々しい気を放った。
「よく聞けっ!それは俺の獲物だっ!」
「ひいぃっ………ぎぎぃぃぃぎゃぁぁぁあああああぁぁあぁぁぁあああああっぁぁぁぁぁっ!」
情けない悲鳴が森にこだました。
ガシャンッ!ガシャンッ!とかな切り声のような金属が響く。
女王を追う為の武器がけたたましい音を立て地面に落ちて、跳ねた。
騎士達は自らを守る武器を手放したことさえ分からないようだ。
皆、武器を掴んでいるかのように空を掴み、恐怖に染まった瞳をサリエの方へと向けていた。
その眼光に射すくめられ、まるで氷漬けの人形のようだ。
それは異様な光景だった。
凍りついた時。
凍りついた人間。
その中心に君臨するは神の寵愛を一身に受けた漆黒の男。
壮絶な美しさで目の前の赤い壁を見下すと、赤い口を皮肉げに押し上げた。
「挑発する時は人を選ぶんだな。そうすれば長生きできる」
ハニーはその氷の視線に身が切り刻まれる気がした。
自分に向けられた訳ではない。
寧ろハニーに背を向けているサリエの全貌がハニーの位置からでは見渡すこともできない。
だがアンダルシアの騎士団同様、覇気という鋭い切っ先を眼前に突きつけられ、見えぬ鎖に縛られて動くこともできなかった。
今さらな忠告だなと呟くとサリエは仰々しく被りを振った。
それは己の愚かさによって死に急ぐ者を哀れんでいるかのようだった。
サリエがまっすぐに前を見据えた。
「さあ、お望みどおりに悪魔の瞳を見せてやる。人生、最初で最後の瞬間だ。とくと味わえ!」