悪魔の瞳3
一瞬場が止まった。全員の視線が声を張り上げた年若い騎士からサリエの黒い眼帯に向かう。
全員固唾を飲み、眼帯の下に隠された秘密に釘付けだ。
幾数もの眼差しに晒されてもサリエの顔色は変わらない。
滴る玲朗な気配は相変わらず。
優美で不敵で、心底意地悪い顔が余裕の笑みを浮かべている。
「悪魔の瞳だと!」
部下の言葉にマントルは二三歩後づ去った。
胡散臭いほど派手なリアクションだ。
そして異様なものを見るかのように髭面を歪める。
好奇心と蔑みが入り混じったその視線は明け透けなくサリエに注がれている。
(悪魔の瞳ですって?そんなものあり得るの?)
邪眼とは一目、目が合うだけでその者の命を奪う恐ろしい瞳のことだ。
地獄の奥深くに住む悪魔や混沌の時代に世に蔓延っていた怪物が持っていたとされている。
思いもしない言葉にハニーは言葉を失い、漆黒の男の背を見つめた。
興味なさげに鼻を鳴らす横顔は、ざわめくこの場に反してひどく冷静だった。
自分のことを噂されているのに、一切歯牙にかけていない。
「悪魔の瞳だって?なんだって、そんな奴が異端審問官などしているんだ?」
「噂ですよ?根も葉もないね」
見下したような視線で自分をマジマジと見つめてくるマントルにサリエは面倒くさそうに肩を竦めて答えている。
相手にする気はないとばかりにサリエは大げさに被りを振くと、盛大にため息を吐いた。
「噂と現実を混同する者がいるから始末に悪い……」
小馬鹿にしたようにゆっくりと被りを振る。
その瞳が一瞬ハニーの方へと向けられた。
たった一つの黒曜石の輝きがハニーの心を見透かすように射抜く。
(何………)
何かを語りかけているようだった。
だがすぐにふいっと逸らされる。
無口な視線はハニーに何を求めていたのだろう。
ただハニーがこの隙に逃げ出していないか確認しただけだろうか。
この男の意図するところが一切分からない。
「はん!所詮は何の特技も持たない異端審問官の箔付けだろ?」
そんな静かなやり取りなど気付かないアンダルシアの騎士団長が噂の異端審問官を嘲笑した。
それに倣うように部下達も皆、サリエに侮蔑の視線を向ける。
浮かべられた薄い笑みにハニーは他人事ながら虫唾が走った。
「いやいや、団長。あながち間違えではないかもしれません!あの眼帯の下には醜悪な悪魔の瞳があるのです」
「お、俺も聞いたことあるぞ。邪眼に睨まれても立っていられる者は真の勇者となる素質があるのだとか……」
アンダルシアの騎士達は口々に心ない言葉を吐き、せせら笑った。
彼らの明け透けない視線に晒され、屈辱的な言葉が飛び交う中心にいるサリエ。
今の立ち位置ではハニーには彼の表情が一つも見えない。
この男のことだ。きっと変わらず、傲慢なほど美しい顔で自分に敵対する者を見下しているのだろう。
そうと分かっていてもハニーの胸はまるで矢で射られたように激しく痛む。
ドクン、ドクンと高まる鼓動に合わせて痛みは増していく。
理由は分かっている。
囲まれて屈辱的な言葉を吐きかけられるサリエが自分と重なるのだ。
何も知らぬ者に勝手に決め付けられ、貶められる現実が……。
(同じ聖十字騎士団なのに、何故わざわざ反目し合うの?)
自分を追う者達にそんな感情を抱くのは間違えだろうか。
そんな目の前のやり取りよりも早くここから逃げる手段を考える方がよっぽど自分の為になる。
それは分かっている。
追い詰められ、目の前に赤い壁が出来た瞬間から殺される覚悟を決めても、死ぬ気はない。
最後の最後まで足掻いて足掻いて、無駄だと言われようが、無様と罵られようが生き続けるつもりだ。
目の前の彼らを観察し自分が生き残る最善の道を探すことこそハニーがすべきこと。
自分の視線の先と後ろの崖とを交互に見やり、ハニーは思考をサリエから自分の身の振り方へと必死に転換を図った。
そうだ。今考えなければいけないのは、サリエの心の痛みではない。自分の未来だ。
ごくりと唾を飲み込み、張り裂ける胸に冷静さを失いそうな自分を落ち着ける。
隙をついて逃げ出してもすぐに掴まるのは目に見えている。
一か八か心を決めて川に飛び込むか。
しかしそのあまりにも無謀な賭けに出るにはまだ早すぎる。
(最後まで状況を見極めなければ……)
身動ぎ一つせず、ただ目の前の男達に視線を注ぐことに集中した。
どこかにあるはずだ。
探せ。自分の身を守る武器を……。
サリエの立場と自分の逃げ道―――反する思いに焦るハニーの前で劇は佳境を迎える。
「真の勇者……それはいい。ちょっと、お前、その眼帯を取れ!」
いきなりマントルは高笑いを始めたかと思うと、勝ち誇ったようにマントルがサリエを指差した。
勢いよく突きつけられた指の先はもちろん、悪魔が潜む邪悪な左目。
ハニーは思わず息を飲んだ。
隠しきれない動揺が吐息となって風に紛れる。
思いもしない言葉にハニーの思考が現実へと引き戻された。
その金色の瞳が映し出す現実が中々受け入れられず、何度も目を瞬いた。
黒い男の向こう、赤いマントの男の瞳は眩い陽光に照らされても濁っている。
世俗に塗れ、奢り高ぶった強欲の男の素の姿だった。
マントルは髭面に愉悦を浮かべ、嫌らしい笑みをサリエに向けていた。
もう彼の視界にハニーはいないようだ。
気になる子どもにちょっかいをかけるように、マントルはずば抜けて美しい男をやり込めようと躍起になっていた。
対峙する漆黒の男はマントルに反してひどく冷めたものだ。
僅かだけ首を捻って嘆息を吐くと真っ直ぐにマントルを見据えた。
「真実は噂通りにはいきませんよ?それでも見たいのですか?」
一層滑稽なほど丁寧な口調だ。まるでマントルを試しているかのよう。
これは罠だ。漆黒の男の背を見つめ、ハニーはそう確信した。
その慇懃な態度に騙され、大きく出たところを一気に砕く。それがサリエの手法だ。
(……何を……何を企んでいるの?)
ごくりと喉を鳴らし、ただ二人を見守るしかできない。
ハニーの視線の先で愚かな羽虫がサリエの罠にかかる。
「もったいぶるな!血に濡れた女王を狩る前には丁度いい余興だ!早く眼帯を取れ!このマントルが邪眼を撥ね除けてやろうっ!」
マントルが一歩サリエの方へとずいっと歩みを寄せた。
両手を大きく振りかざしたのはサリエを追い込もうとする意図だろう。
マントルの太い腕がサリエの左目目がけ伸ばされた。
黒い眼帯にその指が触れる位置まで伸びて……。
(やめてっ!嫌な気がする!)
風が通り過ぎた。
ハニーの髪を巻き上げ、サリエのマントをはためかせ、森の木々を揺らす。
だが眼帯が取り除かれる瞬間はいつまで経ってもやってこなかった。
ふんわりと膨らんだ赤い髪が優雅にハニーの肩に舞い降りる。
その一時はあっという間のようで、ハニーには千夜を超えたとも思えるほど長い時間に感じられた。
目の前の男達はまるで時が止まったように動かない。
鴉が羽根を畳むように、マントがゆっくりとあるべき場所に戻っていく。
いや、鴉など可愛いものではないかもしれない。
あれは悪魔だ。あれこそがサリエの正体だ。
その証拠に遠巻きにしている赤い騎士達の顔が段々と凍りついて行く。
先ほどまで嘲笑を浮かべていたことが嘘のようだ。
そんな人を見下した余裕など彼らにはない。
森が鳴りやんだ。
立ち込めていた異様な空気が如実に形になる。
束の間の静寂が辺りに広がり、そして………。
「………フンッ!口先だけの愚か者が。自分の浅はかさを悔いるがいい」