途切れた道9
仰々しいほど大それた科白を吐くが、彼のたった一つの瞳は一つも嗤っていない。
変わらず無表情な顔。
でも額にかかる黒髪が作り出す影の所為か、ハニーにはその美貌が悲しげに見えた。
それはサリエがハニーに初めて見せた、感情らしい感情だった。
戸惑ったようにハニーはその顔を見つめ返す。
彼が口にした言葉は神に仕える者として、絶対に口にしてはいけない言葉だ。
司教が神を否定するなど、自分の人生全てを否定するようなものではないのか。
冗談でも悪ふざけが過ぎる。
それをあまりもさらっと言ってのけた彼の意図がハニーにはまったく見えない。
「訳分かんない。あなた、自分の言ってることが分かっているの?」
「もちろん。お前は俺が寝言を言ってるとでも思ってるのか?」
そう言いながら鼻で嗤ったサリエはすっとハニーの髪を手放した。
淡い空の青に透き通った赤がたなびく。それを毛先まで追うようにサリエの視線が逸れた。
その瞬間、ハニーはサリエの胸を激しく押しやった。
素早く後ろに下がると、緊迫した面持ちでサリエを睨みつける。
「何それ?異端審問官流のブラック・ジョーク?笑えないんだけど?」
「残念だな。もう少し、この手で抱き締めていたかったのに」
さっきまでハニーの手を掴んでいた手に熱の籠った眼差しを向け、名残惜しげに口の端を上げてみせた。
そしてゆっくりとハニーの方へと視線を向ける。
黒曜石の瞳は凍てつくほどに冷たい。だが、ハニーの胸の内に熱い炎を灯す。
まるで媚薬のようだ。人の心を惹きつけてやまない黒曜石の瞳は一つしかない。
もしその瞳が二つ揃えばどんなことが起きるのか………。
その底知れない恐ろしさに萎縮してしまいそうになるが、馬鹿にされっぱなしはハニーのプライドが許さない。
「ふざけないでっ!髪を掴んでただけじゃない!」
ハニーは全身の毛を逆立ててサリエを威嚇する。
だがハニーがむきになればなるほど、サリエは艶然とした微笑みを浮かべるのだ。
まるでハニーの反応を愉しんでいるかのように言葉を紡ぐ。
「ん?抱き締めてほしかったか?」
「ちっが~う!!そんな訳ないでしょ!」
「なんだ?お姫様は初なのか?真っ赤だぞ」
揶揄する口元は意地悪く、小馬鹿にする瞳は嬉々としている。
こんなにも美しく、そして嫌味たらしい笑みを見たことがあっただろうか。
(悔しいっ!)
カッと燃え上がった頬を歪め、ハニーは怒りに濡れた瞳をつり上げる。
「違う!あ、あなたのバカさ加減に呆れただけっ!ホント!あなたって最低っ!変態っ!ナメクジッ!」
「……おい、ナメクジってなんだ?」
思いもしない悪口に流石のサリエも不審げに眉を寄せる。
そんな醒めたサリエの突っ込みなどまったくハニーの頭には入ってこない。
胸を突く激情のまま叫び続ける。
「ネチネチとしつこいのよ。だからナメクジッ!いいえ、それじゃナメクジに失礼だわ。彼らはその体の構造上、雨のジトジト降る日を好む訳だし、ネチネチと地面を這うしかないんだもの。でも、あなたは違う。もう性格が救いようもなく腐ってるっ!見てて不快よっ!ナメクジに謝りなさいっ!」
叫ぶハニー自身、自分が何を言っているのかも分からない。
ただサリエを言い負かすべく、感情のままに叫び続けた。
一瞬呆気に取られていたサリエだが、ナメクジナメクジと叫ぶハニーの言葉を遮るように声を高くした。
呆れかえった隻眼が冷たくハニーに注がれる。
「おいおい……それ以上大声で叫ぶな。俺の他にもこの森の中をたくさんの騎士が血に濡れた女王を捜してうろついている。死に急ぎたくなかったら、俺の言葉に従え。運が良ければ、何かが変わるかもしれないぞ?」
「あなたになんか従わないっ!!」
キッと睨みつけ、言いきった。
サリエに左右される運命など真っ平だ。
この男はこうやってハニーをからかうだけからかって、そして殺すつもりなのだ。
「ありもしない奇跡を信じて、あなたの甘言を信じて、それで何が変わるの?わたしは自分の手でこの運命を切り開くっ!」
研ぎ澄まされたハニーの声が雄大な空をも圧倒する。
燃えあがった赤い髪を揺らし、ハニーは壮絶な決意を放った。
その小さな体にどれだけの力が隠されているのだろう。
対峙するサリエは無意識に眉を寄せて、金色の覇気に耐えた。
「………そうか。あの瞬間から一筋縄ではいかないと思っていたが………」
小さく口の中で呟かれた声はハニーにまでは届かない。
僅かに視線を逸らし、何かを思案していたサリエだが、すぐに視線をハニーに戻した。
そこにあるのは先ほどと変わらない無表情の美貌。
クッと喉を鳴らすと携えた剣に手を当て、サリエは冷笑を浮かべる。
「では自らの浅はかさを恨んで死ぬんだな」
腰に佩いた剣の鍔に手をかけ、すらりとその磨き上げられた刀身を抜く。
鋭い切っ先が陽光に照らされ、眩く光った。
「フンッ……ほら、お前が大声を出すからどこぞの騎士団が近付いてきたぞ。莫迦な女だ。命乞いでもしていれば何か変わったかもしれないのに………」
心底呆れたかのように首を振ったサリエの声にハニーはハッと顔を上げた。
こちらに剣を向けるサリエの背の向こう、深い深い森の奥から声が響いた。
それは地に堕ちた女王を更に貶める言葉だった。
その数は一つではない。
十数、いや数十にも上る。
彼らが口々に叫んでいるのは、ハニーにとって身に覚えのないことばかり。
勝手気ままに囁かれた血に濡れた女王の噂だ。
これが真実なのだろうか。
ハニーの知る真実と正反対の造られた真実。
誰一人真実を知らず、造られた歴史の中にハニーは闇として葬られてしまうのだろうか。
捨て去ったはずの弱い心が頭を擡げる。
(そんな訳にいかないっ!)
滲み出た弱い自分を毅然と払いのけるとハニーはサリエを、そしてその背にいる全ての騎士達を睨みつけた。
(信念とは貫き通してこそ意味を成す。まだわたしは何一つこの想いに報いていないわ)
金色の瞳には困惑も恐れもない。決意を固めた気高く美しい顔には追われる者の面影はない。
神聖なる気配を身に纏い、優美な笑みを浮かべた。
「悪いわね。わたし、諦めが悪いの」
自分でも不思議なほど緊張感から解き放たれていた。
この状況でまだ笑える自分はどれだけ図太いのだろう。
(でも、もう怖くない……)
流石のサリエも虚を突かれたのか、剣を掲げたまま目を見開いた。
「この手がどれだけ血で汚れても、この身がどれだけ蔑まれても、この足を止める訳にいかない。あの瞬間から全ては決まっているから」
決意に満ちた眼が揺れる。
真っ直ぐに向けられる視線はサリエを捉えているようで、しかしその後ろにある彼女が歩んできた道のりに向かっていた。
それはあまりにも険しく、何の力も持たないたった一人の乙女が歩むには過酷なものだった。
それはあの瞬間、自分で選んだ自分の運命でもあった。
「おかしいでしょ?そう言っていくらでも笑えばいいわ。ここまで貶められてもそれでもまだ何を捨てられないんだって……。このみすぼらしい姿になってまで何を求めているんだって………。きっとあなたには分からない…………」
それはハニーの信念。
それはあの日交わした約束。
それは大切な親友の言葉……――――。
今までの感情的な叫びに反して、淡々と語られる独白をサリエは黙って聞いていた。
「でもわたしはこの想いのままに動かなければ、自分が許せなくなる。ううん、死んでしまうわ。たった一瞬でも忘れられない想い。これが今のわたしを作る全て………誰に笑われてもいいわ。蔑まれてもかまわない。でも………でも、けしてこの国を笑わせない。一時でもエルを蔑ませないっ!」
その時、木々が悲鳴を上げるように鳴った。がちゃりと甲冑が地面を踏みしめる音が森にこだまする。
サリエの声が無情に響いた。
「おいでのようだ」