途切れた道7
日の光に煌めく瞳から不意に大粒の雫が流れた。
ずっと心に溜めていたものが溢れ出したかのように、堰を切って止まらない。薄汚れた頬を洗い、そして、音もなく土に染み込む。
たくさん溜め込んだものが涙で洗い流されていく。それは弱く、時に信念に背を向けようとしたかつての自分だった。
ポタポタと後から後から止めどなく流れる清らかな雫が曇った視界を鮮やかな色彩に変えた。
そこにあるのはどこまでも晴れ渡り、澄みきった空だった。
(ああ……世界はこんなにも美しい……)
ハニーの瞳が生まれたての太陽に煌めく。
キュッと胸に当てた拳を握った。
今涙を流すのは純然たる信念の灯。
(そうだ。こんなにも美しい世界を消してはいけない。けしてこの国の幸せを失う訳にはいかない)
瞳に映り込んだ青天が一瞬で傷ついた心を染めてしまった。
不思議と手足に力が漲ってくる。ハニーはグイッと目元を拭った。
キラキラと光を受け輝く涙の粒が金色の瞳を離れ、透き通る青に散る。
ゆっくりと顎を引くとそのまま目の前を見据えた。
ハニーの前にいるのは、ハニーの真実を無きものにしようとする世界の勝者だ。
でも………。
(負ける訳にはいかないっ!)
清らかで逞しい眼光が闇を纏う男を射る。
「それが今のわたしを突き動かす全てだっ!」
風が吹いた。
ハニーの淡い髪を揺らし、サリエの方へと清風は流れていく。
青く輝く空を背に、凄然と立つ姿はどこまでも高貴で世界を圧倒する。
だが、彼女が対峙するのは世界の闇を全て凝縮したような漆黒の男。
眩い光に照らされてもなお、染まることのない黒曜石の瞳が不敵に細まる。
「ふんっ。女だからって泣けばうまくいくなど思わないことだな。世の中はそんなに甘いものではない。そういう武器はここぞとい時まで取っておいた方がいいんじゃないか?」
霞む視界の真ん中で、無情な異端審問官が吐き捨てるようにハニーを見つめている。
サリエは興覚めだとばかりに肩を竦ませた。
「あなたの同情を買いたくて泣いてんじゃないっ!ちょっと……そう!ちょっと目にゴミが入っただけよっ!」
サリエの醒めた声に反発するようにハニーはごしごしと目を擦ると、濡れた金色の瞳でサリエを睨みつけた。
泣くつもりなどなかった。でも感情が湧きあがると涙も一緒に溢れてしまう。
けしてサリエの同情を買おうなど思ってのことではない。
そんな器用な真似がハニーに出来る訳がない。
(く~っ!こ、こんな男に泣き顔を見られるなんて一生の不覚だわ!)
悔しさに歯を噛みしめ、ハニーはもっとサリエを睨む。
しかしハニーが睨めば睨むほど、サリエは嬉々とその美しい顔をほころばす。
「それはそれは………。よほどでかいゴミが入ったんだな。この俺が取ってやろうか?そう、残酷な現実を映し出すその眼球ごとな」
せせら嗤う声がすぐ耳元でした。
面白がるようにサリエがハニーの頬に手を伸ばす。
「煩い!!!触らないでっ!」
ハニーはそれを拒絶するように拳を握り打ち払うと、その勢いに任せサリエに殴りかかった。
振り払うだけじゃ気持ちが済まなかったのだ。
何故こんなにもこの男の言葉はハニーを不快にさせ、真摯な気持ちでいるハニーに怒りを抱かせるのか。
綺麗な顔にせめて傷の一つでもつけなければ、この気持ちは治まらない。
この男の言葉にどれだけハニーが辛酸を舐めさせられたことか。
これは正当な暴力だ。
ただ怯えるだけの弱い羽虫ではないとこの男に身を以て教えなければならない。
握った拳を下から突き上げるようにサリエの白皙に向け、揮う。小さな拳が風を纏い、サリエの方へと空気を抉った。
睨みつけた視線の先では、無表情のまま自分を見下げるサリエがいる。
彼は身じろぎ一つしない。
吸い込まれるようにサリエの頬へとハニーの拳が近付き、そして――――。
(怒りの鉄槌をお見舞いしてあげるわっ!)
パシッ――乾いた音が森に響いた。
「……あぁ………」
思わず落胆の吐息が漏れた。
サリエの頬を確実に捕らえていたハニーの拳は呆気なく、サリエの力強い手で掴まれてしまった。
さすがは死の天使。聖域に仇するものを確実に狩る死の執行者だ。
力任せに繰り出した拳がその目標を失う。ハニーはサリエの思うままに引きづられ、よろめいた。
限界を迎えているハニーの体では、踏ん張ることもできない。
「あっ!」
バランスを崩し、ハニーの体が地面に倒れ込んでいく。
思わず息を飲んでも止める術はない。
来るであろう衝撃に思わず目を瞑った。傷だらけの体が強張り、思うように動かない。
(悔しい……いいように弄ばれて、歯向かうこともできない………)
くっと歯を噛みしめたが、想像していた衝撃はいつまで経ってもこなかった。
押しつけるような突風に抗う力を腰辺りに感じた。思いもしない熱さに鼓動が跳ねた。
ぐいっと腰を持ち上げられ、そして流されるまま厚い胸に抱かれる。
(………えっ?何?)
いきなりのことに思考が付いていかない。
ただ何かを確信した鼓動だけがドッドッと激しく胸を打つ。
薄い衣越しに与えられる温かさに肌が燃え上がる。
戸惑いに瞼を開くと艶然とした美貌が鼻の先にあった。
流麗な笑みを嫌味たらしく浮かべる、鼻持ちならない不届き者が腰に当てた手をするりと這わせる。
そのままハニーの赤い髪を梳くと、洗練された動きで口付けた。
その一連の動きをハニーは呆然と眺めていた。
美しすぎるこの男に飲み込まれてしまって、何の言葉も出てこない。
そっと髪から顔を上げると濡れて深い色を宿す黒曜石の瞳をハニーに向ける。
「その涙に情けをかけてやろう」
どこか楽しげな響きを宿した残酷なほど麗しい声が耳朶に注ぎこまれる。
不安に駆られ、ただでさえ逸る鼓動が更に速度を速める。
(何?またそんな綺麗な顔をしてわたしを追い込もうとするの?こうやって温かく抱きしめながら、わたしを氷点下の地獄に誘うの?)
この男は信じられない。何度もこの美しい顔に地獄を見せられた。
でも、何故だろう。その視線を振り切ることができない。
惹きつけられるようにハニーは漆黒の隻眼を見上げた。
自分をじっと見つめる淡い太陽の光にサリエは満足げに口の端を押し上げた。
そして――――。
「お前が殺したウォルセレンの王女は一命を取りとめたらしい」