途切れた道6
急激にその場の温度が下がった。
低く、深くハニーの心を揺さぶる。
ハニーは意味が分からずに、怪訝な顔をサリエに向けた。
「どういうこと……」
「真実とはな、為政者のものなんだよ」
突き放すような冷たい声にハニーは動けなくなった。
サリエはそんなハニーを見つめ、淡々と語る。
「真実と、為政者が権威ある歴史書で語る事実は常に違っている。だが違っていても是正されることはない。何故なら敗者に待っているのは無情の死。けして彼らの真実が表に現れることはない」
ハニーの全てを否定するような冷たい声にハニーの心が凍りつく。
興奮した頭に急激に冷や水をかけられたようだ。その急速な温度についていかない。
『悪魔のフォークロア。それは――――聖域によって消された敗者の歴史』
耳の奥で、穏やかにこちらを揶揄するあの男の囁きが聞こえた。
思いもしない言葉に、世界が一瞬歪む。
(悪魔のフォークロア………)
無意識に心の中で男の言葉を反芻していた。
その言葉が幾重にもハニーの中に反響し、特別な意味を帯びる。
時の為政者が聖域ならば、敗者とは血に濡れた女王の隠喩か―――。
固唾を飲んで、対峙した漆黒の男を見つめた。
なんて性質の悪い男なのだ。
ハニーを奈落へ突き落とし、その信念を振り回し、突如虚空に置き去りするなんて……。
そして彼は、戸惑い呆然とただ立ち竦むしかできないハニーを見つめ、ほくそ笑むのだ。
「どんな陰謀があろうと歴史とは常に人の手で勝手気ままに描かれていくものだ。噂が根も葉もないのと同様、歴史もまた詭弁だ」
にやりと美しい顔が凶悪な笑みを浮かべる。
それが全ての答えだ。
漆黒の隻眼が始めから全てを知っているにも関わらず、あえて知らぬ振りしているのだ。
そうやってハニーのことをからかっているに違いない。
全てを知り、それでもまだハニーを追い込もうと漆黒の男が嗤う。
(やっぱり……これは聖域が仕組んだことなんだ………血に濡れた女王を悪魔に仕立て上げる残酷な喜劇。なのに首謀者はまるで被害者のような顔をして、陰に隠れている………)
ずっと半信半疑だった。塔の男の言葉も、馬車の貴婦人の探し物も、全て。
だが今この瞬間、もやもやとした煙のような疑心が確信に変わった。
凍りついた体の中心で、心臓だけが燃えるように熱く鼓動を打つ。
「あなたは何を知っているの?」
そう言うのが精一杯だった。
強張った顔でただ冷酷な男を見つめる。
麗しい笑みを浮かべるサリエがハニーには邪悪な悪魔にしか見えなかった。
「何も。………いや、あるいは全てを」
まるで言葉遊びのようだ。
嬉々と歪な笑みを浮かべ、サリエがハニーを追い込もうとする。
胸打つ鼓動はまるでうねる濁流のようだ。激しく全身を駆け巡り、どうしようもない速さで時を刻む。
ハニーは押し寄せる運命の荒波にただただ身を小さくして耐えるしかない。
それでも空は変わらずに麗らかで、風は残酷なほど優しい。
「……陰謀があったと知っているくせに、わたしを殺そうとするの?」
「重要なのは真実か否かではない。歴史に残るか否か、つまり勝者になるか否かだ。お前はこの仕組まれた劇の勝者になれるのか?」
すぐ側でハニーを見下すサリエの影が彼女をその色に染めていく。
抑揚なくハニーの信念を揺さぶる声はひどく冷たくて、甘い。
サリエはゆっくりと唇をなぞって、ハニーの言葉を待つ。これがこの男の手口なのだろう。他人の心にさらりと入り込み、その中枢に揺さぶりをかける。
ハニーはぎゅっと拳を握りしめた。自分に影を作る男を見上げ、金色の瞳を輝かす。
「なるわ!絶対になるっ!!だってわたしは約束したの!必ずこの国を照らす光になるって!」
燃えさかる情熱の中、高潔な女王は毅然と黒い司教と対峙した。
美しく輝く金色の瞳は真実を照らすように輝く。
全ての始まりも思えば同じような旋風の中から生まれた。
この熱く、頭の先から足先まで通る強固な一本の柱を信念と呼ぶのだと、ハニーは初めて知った。
この脆弱な体にそれだけを抱え、ずっとこの深い森を駆けてきた。今まで自分を成り立たせていた全ては、この暗澹たる森では一切役には立たなかった。
見栄や誇りなどとうに捨て去った。常識も知識も感覚も全てを無意味だった。
全て捨てて、失くし、遠ざけ、それでも最後までハニーの胸に残ったものがあった。
そう、胸の奥から溢れる熱い思い。
「この光はけして黒い歴史の海に埋没させたりしないっ!」
その熱い思いのままに喚いた。
声を嗄らすほどに叫び、訴え、ハニーはこの世で一番美しい瞳でサリエを睨みつける。
こんなにも全身全霊で訴えかけても石膏のような男の顔はぴくりとも動かない。
それは美しくとも残酷なまでに変わらず降り注ぐ日の光に似ていた。
無情な陽光が胸に突き刺さる。ズキンッと胸が痛んだ。
それはもうずっと気付かない振りをしていた心の傷。
眩しい光に照らされて、その傷口をまざまざと見せつけられる。
もう目を背けることもできない。
大きく開いた傷はもう塞ぐこともできないほどに抉れている。
もう体も心も限界だった。
ちょっとでもその均衡が崩れるだけで、全てが崩壊してしまう。
それでもその傷に気付かない振りをして走り続け、涙の滲んだ瞳で道なき道を見据えてきた。
(だって一度でもこの想いを違えれば、わたしはもう生きていれない)
だからハニーは駆けるのだ。
今までも、そしてこれからも………。