途切れた道5
睨みつけるハニーなど一切気にせず、まるで動物を観察しているかのように淡々としたサリエの声がハニーの耳朶を叩く。
僅かに感嘆の混じるそれは熱い吐息となり、ハニーの肌に触れてその温度を上げる。
ハニーを蔑んでいるような言葉なのに、どうしてだろう。今の彼の言葉の色からはそんな気配は一切ない。
純粋な興味からハニーを見つめているようだ。
(本当になんなのよ、こいつ!このまま、されるがままなんかでいてやるものですか!)
いいように遊ばれている現実に歯向かおうと、ハニーは必死に目の前の敵を睨みつけた。
「ほう、まだ俺を睨むか。どれだけ追い込まれてもけして諦めようとしない。先が見えない莫迦なのか、それとも強靭な心の持ち主か――」
対するサリエはどこか楽しそうに、美しい顔を愉悦に歪ませる。そして更にハニーが何か仕掛けてこないかと期待して瞳を細めた。
「離して!」
ハニーは身を捻じり、精一杯の力を込めて自分の顔を掴むサリエの手を払った。飛び退くように彼から距離を取る。
はあはあと息を切らしながら体を緊張させた。
(そうだ。思い出せ。こいつはわたしを弱らせ、絶望させ、そして殺そうとしているのよ!)
そんな男にされるがままでいるなど、ハニーの誇りが許せない。ゆっくりと息を吸うと、大きく胸を張った。
(わたしらしく………女王らしく………)
真っ青な空を背にハニーは毅然とサリエに対峙した。
荘大な風に揺らされる淡い赤い髪が、空の青に映える。
煌めく金色の瞳で漆黒の男を睨みつけた。
「殺るならやりなさいっ!それがあなたの役目なのでしょう?でも、よく考えることねっ!女王を殺すその権利があなたにあるならば、殺した後の責務もまたあなたにある。あなたはこの先、この重責を負ったまま生きる覚悟があるの?」
「覚悟…ね。女王殺しという大業を恐れていて、異端審問官が務まると思うか?」
「違う!そんな倫理観の話じゃない。あなたは知らないのよ。これが全て仕組まれたことだって!全てはありもしない一冊の書物を求める者が仕組んだ茶番!隠された真実の重大性を知らず自分の手を赤く染めようとするあなたにわたしは警鐘を鳴らす!」
怯える心を奮い立たせ、サリエを指さし叫んだ。
そう、全ては巧妙に仕組まれた罠。若き女王を王の座から引きずり落とし、ありもしない神の子の聖書を手に入れるために描かれた陳腐な悲劇。
その真実を知る者はいない。
皆上辺の狂言に騙され、その脚本を真実だと信じて疑わない。
じっとサリエを睨みつける。
どれだけ睨みつけてもサリエは身じろぎ一つしない。
彼はハニーの意図することが分かっているのだろうか。
驚愕も動揺もない黒曜石の瞳は日の光の下でも他を受け入れず、高潔に輝く。
真実を彼に伝えれば、サリエはハニーに協力するだろうか。
聖域が死に物狂いで探す禁忌の書が全ての原因だと、血に濡れた女王などどこにもいないのだと………。
聡しいこの男のことだ。何かきっかけを与えれば、その明哲さを発揮してすぐに全ての仕組みを理解してしまうかもしれない。
それが吉と出るか凶と出るか――――。
ハニーはごくりと喉を鳴らし、サリエを見つめ続けた。
慎重にサリエと距離を取り、懸命に思考を巡らす。ごくりと喉を鳴らした。
(結果は凶ね………。彼は聖域の異端審問官。その彼が聖域を裏切る訳ない………この小芝居の陰に何かが隠れていると知っても―――)
逸る鼓動に、体の奥が熱い。
でもじっと注がれるサリエの視線に触れた肌だけは異様なほど冷えていく。
無意識に傷を負った肩に手をやっていた。まだじんわり熱を持っている。
この傷は戒めだ。
自分の使命を忘れぬように、この痛みを忘れてはいけない。
(だって、もっと痛かったはずだから……)
悔しげに眉を寄せ、ハニーは歯を噛みしめた。
今でも手に残るのは、ずしりとした死の重みだ。
そっと瞼を閉じれば、すぐ目の前に浮かんでくる血だらけのエルの姿。
胸に刺さった妖しく光る刃。血の海に伏して、自分に訴えかける悲痛な瞳。
思い出したくない光景に表情を強張らせた。強気の眼にうっすら涙が浮かぶ。
悲しみとも怒りとも後悔とも取れる感情の表れがそっとハニーの頬を伝った。
その瞳で厳しく目の前の無知な男を睨んだ。
この黒い男はハニーの敵、この国を追う込む全ての象徴だ。
暗雲はこの長閑な国を、優しいエルを、全てを包んでハニーの前から消してしまった。
(そう――けしてこの男に、この男の後ろにあるものに負ける訳にいかないんだ………)
すっと顔を上げ、漆黒の男を真っ直ぐに見つめる。
大切な友人の為にも自分は城に戻り、真実を取り戻さなくてはならない。
それがこの国、ひいてはエルの為になる。
「真実に気付かず、ただ流されるままにいることがどれだけ愚かなことかっ!真実は必ず公にされなければならないっ!」
それは気高き獅子の咆哮だった。
空気を振動させる強さに森の木々が震えあがる。
高々と言い放ったハニーは高潔な女王そのものだ。
言葉の端々が覇気を帯び、追われる者の影など一切ない。
透き通る赤い髪が激しく舞い、金色の瞳が燃えさかる。
自分に襲い来る運命すら凌駕する強靭な姿にサリエは目を細めた。
自分を真っ直ぐに指さすハニーをじっと見据え、薄い唇をなぞる。
「隠された真実ね~。……おもしろい。何がこの一連の事件に隠されていると言うんだ?」
冷酷なサリエの表情は変わることなく、動揺すらしない。
むしろ山場を迎えた歌劇を見つめる傍観者のようだ。
対するハニーは押し競り上がってくる激情に興奮し言葉を熱くする。
「全てが仕組まれたことなのよ!今流布しているブラッディー・レモリーの噂も、血に塗られた惨劇も!全てがっっ!」
「実に興味深いな。お前の言う真実が……」
サリエは意地悪く目を輝かせ、ハニーの心を試すように言葉を紡ぐ。
濡れたような黒の瞳がじっとハニーの瞳を捕えて離さない。
「―――…しかしお前の言う真実が真実として名を残すかはまた別の話だ」