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血に濡れた女王4

 これほどまでに有難く精美な絵画をハニーは見たことがなかった。まるで天上の至宝だ。

 その簡素な服装もこの少年が着れば、上質な絹のドレスにも劣らないように見えるから不思議である。

 なのに、鼓動が警鐘を鳴らすように高鳴る。


(何でこんなにも心がしっくりこないの?)


 ハニーは漠然とした不安に駆られ、忙しなく瞳を動かした。

 それでもハニーを見つめる少年の眼差しは逸れることがない。

 真っ直ぐ、ただハニーにのみ注がれる。その瞳はハニーの全てを飲み込むように深さを増していく。

 

(もしかして、この格好に怯えたのかも……。しまった!そりゃ怖いよね。今のわたしは血まみれお化けよ!)


 はたと自分の現状を思い出し、ハニーは浅はかな自分の行いを悔いた。

 少年の表情を自分への恐怖だと受け取ったのだ。それが普遍の答えであると彼女は知っていた。

 赤い髪と金色の瞳という稀有な容姿。しかもその上、今の彼女は血に濡れボロボロの服という出で立ちだ。

 年端もいかない少年の目にどう映るかなど火を見るよりも明らかなこと。

 真実はどうであれ、今のハニーは『血に濡れた女王』。エクロ=カナンを闇に陥れる悪魔だ。

 この事実はすでにエクロ=カナン全土に広がっていた。今まで女王を尊敬の眼差しで見つめていた国民が急に掌を返したように石礫を投げつける。

 これが現実だった。

 この少年もどこかでその噂を聞いているかもしれない。


「あの……怖がらないでね。あなたに用があるわけじゃないの。わたしはこの先に進むだけだから。だから………」


 少年が怯えて泣き出さないよう、優しく慎重に声をかける。

 ハニーは闇で凍りついていた顔を引きつらせ、精一杯の笑顔を浮かべた。


(ここに長く留まるのは得策じゃないわね。この子に姿を見られたし、早く別の場所に身を隠そう)


 ハニーは歪な笑顔のまま、頭の中で忙しなく先へのことを考えた。

 本当はこの場で僅かにでも休息がとれればと思っていたのだが、この朽ちた神殿もけして彼女の安住の地ではないようだ。

 こんな少年でも入ってこられる場所などあの騎士達に掛かればあっという間に包囲されてしまう。

 僅かの休息すら彼女は許されていない。

 一度腰を下ろしたが最後。きっとハニーは糸の切れた操り人形のようにもう立ち上がることすらできなくなる。

 そんなハニーがもう一度自分を奮い立たせて押し寄る騎士達の手から逃げ出すのは、きっと今以上に難しい。

 体の奥から湧きあがる倦怠感やじわりじわりと自分を追い込む恐怖を体の奥底に仕舞い込むように大きく深呼吸した。

 少年から顔を背け、距離を取るように壁伝いに別の通路に進もうと足を進める。少年は彼女の心配とは裏腹にさして怖がる風もなく、不思議そうに彼女を見つめている。

 その突き刺さる視線が気になり、進める足を止めてちらりと横目で少年を確認してみた。

 少年は変わらずにじっとハニーにだけを凝視している。透き通り、澱み一つない湖のような瞳が彼女をとらえて離さない。


(そ、そんなに見つめられると何だか居た堪れない気分になってくる……何?怖がってるの?それとも何も分かってないの?ああっ!もっと感情豊かに表現しなさいよ!分かりづらいわっ!)


 逸れない少年の視線にハニーは戸惑うばかりだ。

 じっと見つめられると何故だか緊張して、手足一緒に動き出してしまう。まるで蟹のように、不審な動きで壁に沿っていく。

 進むたびに一緒に動く眼差しに我慢できずに、ハニーはそろっと少年の方へと顔を向けた。

 不思議な色を湛えた青色とハニーの金色が絡み合う。


「……やあね、そんなに見つめないでよ。なに?わたしの美貌に惚れちゃった?…………って、うん。冗談よ!冗談!ははっ…………面白くないわよね………」


「………」


 場の空気を変えようと頑張った。だが少年の表情は先ほどと何一つ変わらない。

 無言で不思議そうに首を傾げている。ただ………ハニーを包む空気は一気に冷え込んだ。


(ははっ。気の利いた言葉がまったく思い浮かばない)


 結局一人落ち込む結果になり、ハニーは心の中で自暴自棄に乾いた笑い声を上げた。


(も~っ!何よっ!この空気っ!……泣きそうだわ……なんでわたし、こんなところで心に傷を負ってるのかしら?)


 だがこんな馬鹿げたことでいつまでも落ち込んではいられない。

 ハニーは気を取り直して懸命に優しく見えるように笑い、両手を上げてみせた。そうして自分が何一つ少年を傷つけるものを持っていないことをアピールしてみる。


「わ、わたしはただの通りすがりの血に濡れた女王様よ。何も怖くないよ~」


(わたし、子どもって苦手…。どうしていいか分かんない)


 じっと自分を凝視してくる少年にハニーは心底困った。

 怖がられている訳ではないと徐々に分かってきたが、こう興味津々に見つめられるとどうすればいいのか分からない。

 子どもはハニーの理解の遥か上をいく存在だ。怖がられていないことに安心して近付けば、急に堰を切ったかのように泣きだすかもしれない。

 ハニーは愛らしい表情で自分を見つめる少年に強張った瞳を向けた。


(そういえば昔、あのチビすけに大泣きされたな~。そうよ。あの子もあの時、始めはこんな顔をしてたのよ……なのに………)


 昔、一度親友であるエルの弟の世話をしたことを思い出し、ハニーは嫌な過去に口の端を歪めた。

 笑顔の彼に近寄った瞬間、何故だか彼は急に大泣きし、どうやっても泣き止まず、結局ハニーは匙を投げたのだ。


『うちの弟はこんなに泣かないわ!』


 そう言ってうろたえるハニーを見てエルはころころ笑った。

 誰もが心を許す春の陽だまりのような柔らかな笑みに、彼女の弟は簡単に涙を引っ込めた。


『だって、緊張しすぎでハニーの顔が怖いんだもの』


『で、でも~』


『大丈夫、貴女がいつも私にやっているようにすればいいのよ。そう、こうやってね!』


 そう言ってエルは彼女の弟を抱きしめた。

 瞬く間にさっきまで火の付いたように泣いていた幼子が満面の笑みを浮かべた。


『……な、なんで~!エ、エル、あなた、何か魔法でも使ったんじゃない?じゃないとこんな意味不明な存在を意のままに操れる訳ないわっ!』


『違うわ。ハニーが呪われてるのよ。きっと子どもが泣きだす呪いよ。でも、安心して。けして嫌われる呪いではないわ。ほら、その証拠にこの子はあなたの元に行きたいみたい』


 そう言って、自分のドレスの裾を掴む弟をハニーの方へと向けた。

 そしてお決まりの蕩けそうな微笑みを浮かべてみせる。


『ようは、慣れなのよ。慣れれば呪いは解けるから!ねぇ貴女になら出来るわ、ハニー。私の大切な、もう一人の私………』


 遠い昔の、懐かしき思い出である。今思えばなんて穏やかで、心休まる一時だったのだろう。

 忘れていた些細な日常の一風景が不意に脳裏に浮かび上がったのは、あの頃と今の自分があまりにかけ離れてしまっているから。

 優しく自分を呼ぶエルの声がズタズタに切り引き裂かれた胸にじんっと沁みる。

 強気に輝く金の瞳に一瞬憂いが帯びた。


(なんで……あんなことになったの?)


 涙を堪えるように顔を歪める。

 どう足掻いても器から零れた水はもう元には戻らない。どんなに祈っても子ども好きな優しいエルはもうこの世にいないのだ。

 神は、その残酷な出来事を夢物語だと思い込むことすらハニーに許されなかった。

 ハニーの腕の中で急速に冷えていく体温。ずっしりと腕にかかる重さ。死は目に見えるのだと思い知らされた。

 失ったのは自分の半身以上に大切な存在。

 本当ならばかの愛しい人を追って自分も死出の旅に飛び出したい。だがハニーは全てを捨て去り、永遠の眠りにつく訳にはいかなかった。

 彼女がその腕に抱えていたものは空よりも広く、海よりも深い。

 感傷的に眉を寄せ、ハニーは自らの手を見つめる。焦燥に駆られた金色が捉えたのは血と泥で汚れたか細い手。


(この手がもっと血で汚れようと、この決意を果たさなければ……)


 固い決意を再確認し、ゆっくりと視線を戻す。その眼がまだ自分を見つめている少年のそれとぶつかった。

 吸い込まれるような不思議な瞳がハニーの中の何かを探るように注がれている。

 自分の心を読まれているかのような錯覚を起こす瞳だった。

 その柔らかくも揺るぎない視線に心臓が大きく鼓動を打つのを感じた。


(何なの…この子)


 戸惑い、足を止める。何故だか足が動かない。そんな彼女を見つめる眼が不意に何かを見透かすかのように深みを増した。


「…何か来る…」


 預言者のように確信に満ちた言葉だった。

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