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途切れた道3

 輝かしい青空に心を奪われていたハニーは、瞳に映り込んだ現実に驚愕した。

 ハニーの視線の先にあるのは、眩い青空。

 その先にはまた深い森がある。


 だが……。


 ハニーは呆然自失のまま、がくりとその場に座り込んだ。

 腰の力が抜けて、もう立ち上がる気力も湧かない。

 身を切る冷たい風に狼に噛まれた傷が疼く。

 容赦なく刺さる石や木々の枝で肌は傷だらけだ。

 飢えて渇ききった喉は焼けるように痛い。

 だがそれ以上に彼女を追う込むのは目の前の光景―――鋭く切り立った崖。

 震える手で口元を覆い、押し上げる嗚咽を懸命に抑えた。


「まさか……先がないなんて………」

 

 向こう側にも深い森は続いている。

 だが、対岸との間は飛び越えても渡ることのできない崖で遮られていた。

 崖の下から押し寄せるような轟音がする。

 暴れ狂う濁流の音―――多分、この下には崖を切り取るほど激しく流れる川があるのだろう。

 崖を勢いよく駆けあがる風圧に乗って、細かな水飛沫が飛んでくる。


(一か八か飛び込んでみようか……)


 水の流れに乗ってそのまま下流まで進めば、どこか知っている場所まで出るのではないだろうか。


(ゼル離宮の裏手には森の中から伸びる川があるわ。もし運がよければ、そのまま離宮に帰れるかも………)


 不意に胸に湧いた希望にハニーは自分を奮い立たせた。

 しかしその希望的観測はすぐに押し寄せる濁流に飲み込まれた。

 音だけでもこの勢いだ。

 ハニーなど飲み込まれたら一貫の終わり。

 すぐに水流に押しつぶされてしまうのではないだろうか。


「………ははっ……ははははっ………」


 途切れた道に今まで張りつめていたものがプツンっと切れてしまった。

 もう笑う以外ない。

 麗らかな日差しにハニーの乾いた笑い声が響いて、消えた。

 そのままがっくりと俯き、地面に突っ伏する。


「はははは……っっくぅ………ううぅ……」


 荘大な空に広がっては飲まれていくか細い笑い声がいつの間にか押し殺した嗚咽に変わっていく。

 地面に生えた草を握りしめ、ハニーは体の底から溢れ暴れそうな激情を必死に押し留めた。

 どれだけ歯を食いしばって、堪え切れないものが一縷の光となってハニーの頬を濡らす。

 何度も限界を超えて、もう越えるものもないほど走り抜けた。

 その結果が行き止まりだ。

 潤んだ眼差しで、恨めしげに空を見上げた。

 そこにあるのは、どこまでも続く雄大な空。

 どれだけ傷ついても、どれだけの苦しみを抱えていても、その広さは変わらない。


(神様は意地悪ね……過酷な道をわたしに与えながら、こんなにも美しい空を見せる……)


 どんな時も変わらない天に坐すお方の気ままな采配が今ほど悔しいことはない。

 透き通る青が深ければ深いほど、今の自分がより惨めに感じられる。

 なんて残酷な美しさなのだろう。

 降り注ぐ光は煌びやかで、厳かで、神秘的で、そして慈愛に満ちている。

 それは天に坐す神の姿なのだろうか………。


「でも、なんでこんなにも惹きつけられてしまうのかしら………」


 いっそこの空の雄大さを嫌悪できればいいのに………。

 だが金色の瞳はただただ青い空に飲み込まれていく。

 静かに降り注ぐ光がハニーの心に真っ直ぐに降り注ぎ、悔しさに歪んでいた心にも触れた。

 どろどろとした汚い負の感情が一気に固まったかと思うと、次の瞬間に砕け散る。

 偉大な光を前に、ちっぽけで利己的な感情など無意味だ。


(そうだ。先がないなら迂回すればいい。道は一つじゃない)


 砕け、雄大な風に霧散した感情の中、たった一つ残ったのは、ずっと抱き続けた信念。


(初めから道はなかった。わたしは約束を果たす為にこの荒野を歩むと決めた………)


 研ぎ澄まされた感性に光が一層眩しく感じる。

 ハニーは祈るような気持ちで、空を見つめ続けた。

 この国で晴れ間が見られるのは珍しい。

 常に厚い灰色の雲が空を覆い、国全体がくすんで見える。

 この空を国民はどんな気持ちで見ているのだろうか。

 輝く太陽に女王の無事を祈るだろうか、それとも女王が死して空に晴れ間が戻ったと歓喜するだろうか。

 問いかけるように見上げても金色の瞳に映るのはどこまでも穏やかな色合いだけ 。

 陽光はただ静かに平等に、この大地に降り注ぐ。


(誰かの瞳にどう映っているのか、それは今気にすることじゃないわ。でも、でも願うならわたしも誰かにとっての光になれたら……)


 ぎゅっと両手を組んで胸の前に掲げた。

 一度失ってしまった信頼を取り戻すのは国を取り戻すよりも難しい。

 それは城に帰る以上に困難な道のりだ。

 それでも…。

 真摯に光を見つめる金色の瞳が青空に一際美しく輝いた。


「………それでも……それでも行かなければならない。わたしを持っている人がいるから……」


「ほう、殊勝な心がけだな」


 ガチャッ―――金具が擦れる音がした。

 ハニーは弾かれたように身を強張らせる。

 今まで萎れていた赤い髪が、その玲朗な声に反応して一気に臨戦態勢になる。

 聞き覚えのある声だ。いや、そんな軽いものでじゃない。一生忘れない残酷な傷と共にハニーの心に刻まれたのはつい昨日のことだ。

 この聞き心地よく凛と通るテノールの声を忘れることなどできるはずがない。


(まさかこんなところまで追いついてくるなんて…)


 すぐさま立ち上がろうと、弱りきった足に鞭を打つ。

 よろけるように地面を踏みしめ、余裕ない瞳で後ろを振り返ったが、そこにあるのは暗い森。

 あの男の姿はない。

 だが、ざっざっと草を踏みつける足音だけは鮮明に響く。


(立て!ハニー!!今逃げないで、いつ逃げるのよ!!)


 逃げ場を捜すように辺りを見渡したが、後は崖だ。

 冷や汗が頬を流れていく。

 昨日の恐怖に体の奥が不安に掻き立てられ、どうしようもなく落ち着かない。

 また一歩近付く音にハニーの鼓動が共鳴する。

 ドクンドクンドクンドクンドクン――――…………。

 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ………足音はハニーの思惑など一切読み取らず、ずんずんと近寄ってくる。

 ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン――――…………。

 ザッザッザッザッザッザッ…………ガサッ。

 バンッと鼓動が破裂した。


「やあ、会いたかったよ。愛しい人」


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