禁忌の書10
瞬間、がくんと馬車が傾いだ。
「えっ?」
立ち上がっていたハニーの体が一気に床板に打ち付けられる。
馬車の中はまるで嵐の海のように、荒々しく波打つ。
世界が反転したような衝撃に頭が働かない。
ハニーは反射的に馬車の壁に手を当て、安定を求める。
そして何かに引かれるように顔を上げた。
乱れた赤い髪の向こう。
目まぐるしく変わる狭い世界の端に映ったのは、初めて見せる余裕ないゾフィーの姿。
衝撃から逃れようと必死でベルベットの座席に捕まっている。
(今だ!)
待ちに待った時機にハニーは興奮した。
ゾフィーの瞳が初めて自分から逸れたのだ。
飛びつくように馬車のドア目がけて手を伸ばす。
「っ何を!」
息を飲むゾフィーの声が遠くに聞こえた。
でもその時にはハニーの体は馬車のドアに掴まったまま、半分以上外に出ていた。
激しい風がハニーの頬をはたき、纏わりついていたねっとりとしたゾフィーの香りを吹き飛ばす。
鼻の先にあるのは、もう見慣れた暗澹たる忘却の森。
あまりの速さに黒々とした緑が大きな蛇の動体のように畝くる。
馬車は狭い森を突き進み続ける。
「ドアを離さないで!走る馬車から飛び出すなんて自殺行為よ!戻ってらっしゃい!早くっ!」
ゾフィーが焦燥に駆られた顔を歪ませた。
叫びながら手を伸ばし、ハニーを戻そうとした。
急いで手を離さなければ、脱出は失敗だ。
でも本能がドアを離すことを拒む。
離せばどうなるか。そんなことハニーは嫌というほど知っている。
自分を抱えて落馬したカンザスは、その痛みにもんどり打っていた。
常日頃体を鍛えている彼でさえそうなのに、自分が同じことをして無事な訳がない。
最悪命を落とす可能性もある。
だが………。
(行かなきゃ!ここにいるのは死んでいるのと同じ。あの塔の地下で立ち止まっているのと何も変わらない。あの日の約束がわたしの全てっ!)
信念に燃える眩しい金色が畝くる蛇の中に進むべき道を見出した。
蛇の腹が途切れ、ゼル離宮へと続く緑の道がそこにはあった。
ハニーは体の奥から息を吐き、腹を括った。
しかし、魔女の手が逃げるハニーの腰を掴まんと迫る。
「逃がさないわっ!」
大蛇のように纏わりつく叫び声に振り返ったハニーは、歪な美女の素顔を見た。
目が合った瞬間、ハニーは悠然と微笑み返した。
ゾフィーが驚愕し、その動きを止める。
そこにいるのは妖艶な美女でも狡猾な悪魔でもない。
度肝を抜かれ立ち尽くす、ただの女だった。
「元より死ぬのは怖くない。怖いのはこの思いが潰えてしまうこと………」
手を離した。
瞬間、ハニーの体が風に飲まれた。
目の前にあるのはもう漆黒の馬車ではない。
黒い大蛇だ。
大蛇の大きな口に飲み込まれ、身を切る旋風に激しく踊らされる。
そして、好きなだけハニーを弄んだ風は、無情にもハニーをその場に撃ち落とした。
ハニーのか細い体はまるで熟した果実のように、暗い森の地面にぐちゃりと追突する。
あまりの勢いに何度も地面を跳ね、その衝撃のまま、隆起した地面を無様に転がり続ける。
あまりの激痛に何も考えられない。
やっと動きを止めてもすぐに起き上がることすらハニーはできなかった。
何も映さない瞳に閃光が弾け、閉じたはずの瞼が白い闇に怯える。
(痛い、痛い……熱くて、痛くて、苦しくて、もう全てが嫌だ………!)
熱い光が体中を駆け巡り、ハニーから生きる意欲を奪おうとする。
落ちた瞬間、腰を強か打ちつけたようだ。
立つことも歩くことも、またその気力さえ風に奪われてしまった。
懸命に守った頭には鈍い痛みが重く響き、手足が引き千切れそうなほど熱い。
泣き喚いて、このまま痛みが去るのを待とうか……。
でも……ハニーは泣き叫びながら、それでも何度も何度も立ち上がろうとした。
「だ、だいじょうぶ……だいじょうぶよ、ハニー。カンザスもお、んなじ………でもきぜんとしてた………だから……わた、しもまだ………行けるっ!」
ぐいっと掌で地面を押し上げた。
足の指で土を引っ掻くようにして、倒れそうになるのを懸命に耐えた。
痛みで平衡感覚さえ失われている。
立っているのか、それとも倒れているのか………。
この瞳に映るものは本当にハニーを包む現実なのだろうか。
金色に映り込んだのは、暗く鈍く、歪に傾いた世界。
ざわざわと不安を掻き立てるように森の木々が揺れる。
それでも進まなければならない。
「早く追いなさいっ!」
そう鋭く叫ぶゾフィーの声を遠くに聞きながら、ハニーはふらふらと森の奥へと足を向ける。
その体にあるのは、ただ果たすべき使命感のみ。
「行かなきゃ……果たさなきゃ、必ず……この約束を………」
曇りなく輝く瞳は深い森の中で一際眩しい光を放ち、暗闇に道を示す。
それはまるで闇の中を生き、人々を照らす道標となった者の歩んだ道程のようだった。
ようやっと自分を追う者の正体を掴み始めた血に濡れた女王。
彼女の目指す先は遠ざかるゼル離宮。
果たしてその城には禁忌の書なる物が存在するのだろうか。
傷つき、全てを失った彼女をかの城で待ち受けるのは天使の愛か、悪魔の憎か――。