禁忌の書9
ぽつりと呟いたその言葉は艶やかだが、落ち着いた透明感があった。
今までのどの表情よりも美しく、聡明な顔が真っ直ぐにハニーを見つめてくる。
毅然とした顔はもう色気だけで勝負しようとする娼婦のものではなかった。
「何故かしらね?貴女のその強い瞳に見つめられると、従わずにはいられない。とんだ小猫ね。このワタクシをここまで魅了するのだから」
苦笑するように肩を竦めたかと思うとゾフィーは表情をぐっと引き締めた。
ハニーの顔を正面に見据える。
「禁忌の書。それは、ありえないものと聖域が存在を認めない書物―――そう、例えば神の子ユーティリア自身が綴った生々しい彼の軌跡……」
奇妙なほど静まり返った馬車にゾフィーの声が低く、深く、浸透していく。
淡々と明かされ、紐解かれた禁忌の書の正体が、奇妙な説得力をもってハニーの体の奥底に響いた。
どくんっと不安な鼓動が弾け、体の芯が熱くなる。
「ユーティリアの自伝………」
思いもしない言葉に、どんな言葉を聞いても顔色を変えまいとしていたハニーだが、小さく目を見開いて、言葉を紡ぐゾフィーの口元を見つめた。
この驚きを顔に出さずにはいられない。
神の子ユーティリアが書いた聖書。
そんなものが存在するのだろうか。
聖書とは彼の弟子が彼の言葉を綴ったものだ。
それ故、それぞれの弟子によりユーティリアの言葉の解釈が違い、この世が聖域に統一されているといっても、それぞれ傾倒する聖書によって宗派がいくつも分かれている。
ユーティリアの口から直接語られた書物があるならば、それこそ宗派など関係ない。
この世の者は誰一人道に迷うことなく、神の子の歩んだ道をその足跡を追うように続けばいい。
だが残念ながら彼はそのあまりにも短い生涯の中で、自分の半生を振り返ることはしなかった。
聖書とは、彼の指し示していた方向を見失った者達が彼の生前の言葉の中にそれを見出そうとしたものだ。
彼の言葉を直接聞いた者から次代の道に迷うる者へと伝える神の奇跡と神の子の軌跡――――。
こうして彼の生は神話となり、人々の救いとなっていったのだ。
それ故に一言一句全てに神気が宿っており、扱いを疎かにしてはいけない。
時に一つのフレーズをとって苛烈な論舌が繰り広げられ、時にはペンと本の争いに不似合いな剣が争いの場を赤く染めることもある。
この美女が探している禁忌の書とはなんと恐れ多いものなのだろう。
もしそれが事実存在するならばこの美女だけではなく、聖域はもちろん各国が競って手に入れようとするだろう。
そこ書かれた彼の真実を覗いてみたいという要求に抗える者などいない。
そこには最短で迎える天国までの道が書き記されているのだから…………。
その書物を手に入れた者が次代の覇者だ。
だが、残念なことにそれをハニーは持っているどころか書かれた内容にも皆目見当もつかない。
ただ………。
(あの塔の男が言いたかったのはこのことなのかしら?聖域はエクロ=カナンがこの禁忌の書を手に入れたと思って、それで女王を消そうとしているのかも……)
不意に湧いた想像は、あまりにも子供じみた妄想だった。
そんなまさか……そう打ち消したくなるが、だがそういう妄想に囚われたら聖域だけではなく、どんな国であっても徹底的にエクロ=カナンを追い詰め、手に入れようと策を弄するのではないだろうか。
そうしてでも手に入れたくなる逸品だ。
使いようによっては手にした者が聖域に取って変わり世界を掌握することも可能なのだから。
そうやって誰もが欲する書物を、そして世界を手に入れた者は次にどんな行動にでるだろうか。
ハニーは悔しげに唇を噛んだ。
それは想像を馳せるほどのことでもない。
幼子でも簡単に解けるトリック。
秘密を知っている者を消せば、世界の叡智はそれを手に入れた者の手にのみ存在する。
(まさか………!)
何かが一つに繋がった。
あの男の言ったとおりだ。
確かにこれは一国の女王を貶める為だけの悲劇じゃない。
ハニーはぎりりと歯を噛みしめた。
彼らの狙いは『血に濡れた女王』じゃない。
女王がどこかに隠した『禁忌の書』だ。
そしてその書から得られる『栄光の未来』だ。
ドクンドクンと鼓動が一層早くなり、胸が苦しい。
あの城にそんな物があるとは思えない。だが誰か確信を抱いた者が入り込んでいないとは言い切れない。
彼らはその禁忌の書を手にしようと、女王の留守の間に城を荒らしまくり、そして望みの物が見つからなければ………。
(まさか、そんなっ!)
威勢のいい金色の瞳が恐怖に歪んだ。
その瞳に映るのは、豪奢な馬車の内装ではない。
赤。一面の赤だ。
フラッシュバックする苦痛の瞬間――――。
真っ赤に染まった広間はまるで血の海のよう。
そこに崩れる蒼白の乙女の姿。
大きく見開かれた瞳がハニーを見つめ………。
「ぃいややややぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~!」
絶望に悲鳴を上げた。
思わずか細い肩を抱き締める。
そうでもしないと体が凍りつきそうだった。
あんな光景、もう二度と見たくない。
ドクンドクン――と鼓動が逸る。
(絶対に止めなければ……もう二度と誰かが傷つくところを見たくないっ!)
勢いよく頭を上げた。
赤い髪が大きく宙に踊る。
顔を鋭く強張らせると、ハニーはゾフィー睨みつけた。
禁忌の書の存在を知り、それを欲するなら彼女もエクロ=カナンの敵だ。
剥き出しの憎しみをそのままにハニーはゾフィーの側から飛ぶように離れた。
「そんなものわたしは持ってないわ!このエクロ=カナンにも存在しない!だから早く下ろして!わたしはそんな絵空事に付き合う気はないわ!」
「嘘おっしゃい。さっき、何を思い出したの?表情がただ事ではないと言っていてよ?」
「バカらしいっ!あなたの目は盲目だわっ!この目に映った真実は永遠に続く絶望でしかないっ!」
「それはどんな真実なのかしら?とても気になるわ。ねえ、小猫ちゃん。聖域はね、長くその存在を否定しつつも喉から手が出るほど禁忌の書を欲しがっていたのよ。それこそ国一つを滅ぼしてしまうくらいにね。それほどまでにその聖書は魅力的で絶対の力を持っているの。それを前に貴女の嘘をワタクシが信じると思って?」
鋭い眼差しで、ゾフィーがハニーのか細い腕を掴みにかかる。
まるで自分の手の内にハニーを引きこもうとしているかのようだ。
伸ばされた爪が白い肌に食い込む。
ぴりっと肌を走る痛みにハニーは不快げに眉を寄せ、そしてゾフィーを侮蔑するように見下げた。
さっきまで萎れていた鮮明な赤が力を得て、ふわりと持ちあがる。
血気盛んに叫ぶのはか弱い子猫ではない。
暁光を背にした気高き獅子だ。
金色が爆ぜる。
「あなた達が何を望もうが知ったことじゃない。そんな浅はかな欲を満たす為に国を、そしてその国に住む人を追い込もうとする非道な者の言葉になんか耳を貸す訳がない!なんて愚かな振舞いなの!いくら神の子とはいえ過去に生きた者のことよりも今ここで生きている人の方が数倍大切なのに!そんなことも分からないなんて!!」
掴まれた手を力任せに打ち払い、ぐっと拳を握り締めた。
そうでもしないと悔しさでおかしくなってしまいそうだ。
驚いたように目を見開くゾフィーを毅然と見つめ、ハニーは声高々に叫んだ。
「わたしはあるとも知れない書物に振り回されない。このバカげた悲劇は絶対にわたしの手で幕を下ろす!」