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禁忌の書6

 セオ・オーディン。

 そう呼ばれた男は更に眉間に皺をよせ、研ぎ澄まされた恐ろしい眼光でそれに答えた。

 彼の纏う空気が一気に燃えあがる。

 それは深い深い青い炎―――闇の中にあって、その闇を飲み込むがごとくに燃えさかる信念であった。

 風もないのに、セオの髪がぴりりと振動している。

 捕らわれ、自由の利かない姿であっても威風堂々、誰もが圧倒される覇気であった。

 

「ハールート………貴様、女王に何をした………?」


 掠れてもまだ、人を畏怖させる重低音が暗い室内に鈍く響く。

 込められた侮蔑の視線にハールートは笑みを浮かべて答えた。


「何も………女王が勝手に王座から転がり落ちて、死の淵を彷徨っているのですよ」


「貴様っ!!」


 猛り狂う獣の咆哮が室内を震撼させる。

 弾かれるようにセオは身を乗り出したが、ぎしっと縄を揺らして自らを拘束する結び目をきつくしただけだった。

 くっっと苦痛に声を洩らしたが、それでもセオはハールートを睨むことをやめない。

 だがそれに反して対するハールートの顔には余裕と悦楽が浮かぶ。

 自分よりも屈強な精神力を誇る鼻持ちならない男が自分に屈して膝をつき、噛みつくこともできない。

 強い肉食獣を飼い、従えることは一種の快楽だ。

 支配欲を掻き立てられ、自分がまるで世界の頂点に立った気にさせられる。

 なんとも言えない痺れに体の芯がぞくぞくとした。

 愉悦に笑いが止まらない。


「はははっ。どれだけ叫ぼうがお前は女王を助けることすらできない。女王の犬と呼ばれ、絶対の忠心をレモリー・カナンに誓うお前には……。ああ、今頃彼女は、血に染まった姿でお前に恨めしい視線を送っていることだろう。何故自分を助けに来てくれなかったのか、この裏切り者っ!……と呪いの言葉を吐きながらな」


 吐き捨てるように言い放つと、ハールートはセオの腹を力いっぱい蹴りあげた。


「……ぐっ………」


 あまりの衝撃にセオは目を見開き、瞬間、顔を強張らせた。

 だが、そこは屈強なエクロ=カナンの戦士だ。

 すぐに表情を引き締めるとハールートを睨みつける。


「……貴様、どこまでも腐ったやつだな……」


「どうとでも……今のお前は口で強がる以外何もできない。ほら、俺に命乞いをしてみろよ。うまくできれば女王を助けてやらないこともない……。さぁ、セオ!犬なら俺がその気になるように媚びて、尻尾を振れっ!」


 どうあっても自分を見下すセオの視線が気に食わず、ハールートは常の冷静さを忘れ、狂った子どものようにセオの腹を蹴り続けた。

 どれだけ鍛えていてもその衝撃に耐えられる訳がない。

 目を剥き、呻くセオの体は鴉に襲われても何もできない案山子のようであった。

 自由を奪われたその体に刻みつけるように、ハールートの狂気に満ちた声が突き刺さる。


「いいか!俺がこのエクロ=カナンの支配者だ。ウヴァルやキアスなどただの駒だ!俺の言葉に従わなかったからレモリーは失脚した。よく聞け!俺がお前の飼い主なのだっ!分かればその目をやめろぉぉぉぉ!」


 一際大きく足を振り上げたその時、ハールートの腰に何かがぶつかってきた。

 セオめがけ振り下ろそうとした足がその衝撃に勢いを失い、冷たい地面に着く。

 ハールートの胡乱な瞳が見下ろす先にいたのは、静かにハールート達のやり取りを見守っていた令嬢であった。

 彼女は縋りつくようにハールートの腰に抱きつき、悲愴な顔でハールートを見上げていた。


「大司教様!おやめ下さい!セオを殺さないで!」


「……エリカ………」


「セオは私の婚約者です。何があっても彼を私のものにする、その為にご協力下さると言ったのは大司教様ですわ。確かに彼は我が強く、よほど強く痛めつけても己の信念を変えません。私がここ数日、どれだけ折檻を加えても調教することもできなかった。でも、これはあんまりです。彼が死んでしまったら私はどうすればいいのですか。彼を手に入れるために、父も母も領土さえも貴方に捧げた私は………」


 エリカと呼ばれた令嬢は、尽きた言葉の続きを探すようにただハールートのみを見つめていた。

 濡れた瞳が映し出すのは、神聖な空気を纏った神の使い。

 彼女にとって、ハールートはどれだけ乱暴で狡猾であっても、真実神である。


「……エリカ・ミルトレ………お前は何と言った?この男に何を捧げたと言った?」


 脳髄まで疼く激痛の中、それでもセオはエリカの悲痛な訴えを聞き逃していなかった。

 痛みに歪んだ顔が言葉の意味を掴みかねて、青銀の瞳が呆然と見開かれる。


「………領地を捧げただと……しかしミルトレ公は病で…………」


 動揺し、忙しなく動く青銀の瞳が掠めた一瞬に真実を掴みかけた。


「……まさか………」


 その時、ぱんっと甲高い音が響いた。

 セオの頬が燃え上がる。

 驚きに目を見開いたセオの前にいるのは、右手を振りはらったエリカ・ミルトレだった。

 ハールートの蹴りに比べれば、まるで蚊に刺されたような痛みだ。

 彼女は今までそれ以上の苦痛を彼に与え続けてきた。

 それでもセオは目を見開いて、すぐ側にある碧眼を見つめた。

 その苦労を知らない白魚のような手がセオに直接手を下したのは、今が初めてだったのだ。


「貴方が……貴方がいけないのよ。いつも女王、女王と言って、レモリーの側にいるから!」


 小刻みに震える体を抱きしめ、今にも泣き出しそうなエリカが叫ぶ。

 それはずっと胸に抱き、しかし日の元に晒すことのできなかった、執着心だった。

 利己的と言われようと、傲慢だといわれようが手放せない、それはある意味純粋な恋心だ。


「私がどれだけ貴方を愛しているかも知らずにいつも女王に付き従っている、薄情なセオ。そう、女王も女王だわ。貴方をただ側に置いて飼い殺して、私に見せつける。女王は貴方を利用してるだけなのに、それなのに、貴方は女王に騙されて永遠の忠誠を誓わされていて、私は遠くから見つめるしかできない……」


 震える手ががくりと落ちた。

 溢れる感情を抑えつけるようにエリカは身に纏ったドレスの裾をぎゅっと掴む。

 もう言葉にもできない激情に耐える彼女の瞳にあるのは、狂気とも取れる嫉妬だった。それはもう、かつて愛情と呼ばれた時とは姿を変え、歪なものへと変貌を遂げていた。

 そんなエリカをセオはただ見つめるしかできない。

 自分に執着する目の前の令嬢の言葉全てが彼には理解できなかった。

 いつ彼女と自分が婚約者になったのだ?

 そういう話が、もしかすれば一度くらいはエリカの父ミルトレ公から持ち出されたかもしれない。

 だがこの国でセオの嫁にと自分の娘を差し出してくる者は後を絶たない。それはもっともなことで、皆、エクロ=カナン一の武将と列強各国からも一目置かれるセオとの繋がりを求めているのだ。

 質実剛健―――無駄口をたたかず、ストイックなほど真っ直ぐ己の信念に従う勇猛な武将。クールな外見や屈強な割に細く見える体躯からエクロ=カナンの美しき豹と称される。

それがセオだ。

 一見他者を寄せ付けない寡黙な彼だが、常に目下の者のことを考える思慮深さとどんな苦境でも発揮される均整のとれた指揮統制力に部下の騎士達から盲目的なほど慕われている。

 エクロ=カナンは、女王レモリーが優しさで国民を惹きつけ、武将セオが厳しさで国を纏めている――――そう女王と並び謳われ、讃えられていた。

 それ故に降ってわくほどの縁談話があるのは事実だが、そのどれをも受けた覚えはない。

 いや、セオ自身に受ける気がないのだ。

 幼い時より付従う、敬愛してやまない女王陛下が彼女に見合う男性と結ばれ、国がもっと安定するのを見届けたら、いつかそっとこの国を離れ、静かに生きていこう。それが自分の果たすべき道であるとセオは信じて疑わなかった。

 生涯の伴侶を得て子どもに恵まれ、幸福な人生を歩むレモリー・カナン。

 その幸せの縮図に自分はいらない。強固な意志を抱き、胸に燻り続ける秘した想いを抱いたまま、永遠に彼女に忠誠を誓い続ける。

 それが自分の歩む道なのだとセオは心静かに受け止めていた。

 なのに……どこで歯車が狂ったのか。幸せの縮図は砕け散り、支えるべき主は姿を消した。


「エリカ・ミルトレ………お前は何を言って………」


「ああ、なんと可哀想なエリカ……どれだけ君が純粋な愛を注いでも女王の禍々しい瘴気に包まれたセオには届かない。でも大丈夫だ。君は彼と結ばれる日は近い。女王の首が刎ぶその音が祝福の鐘だ」


 か細いエリカの体を後ろから抱き締めるとハールートは猫撫で声でエリカを慰める。

 濁流に飲まれそうなほど不安定な顔をしていたエリカは、縋るようにハールートを見上げ、頬を紅潮させた。


「大司教様、貴方だけですわ。私の心を分かって下さるのは……。父ミルトレ公は私がセオとの結婚を望んでいるのに、お前には無理だとしか言わなかった。だから、全てを消して真っ白なミルトレを大司教に捧げて私の忠誠心を表したのですわ。流石大司教様、人を消す技術もお持ちなのね」


 うふふっと楽しげに笑い声をあげるエリカはこのような暗い場にあって、まるで花畑にいるかのような可憐さを見せつけてくる。

 セオは言葉なく、ただ二人のやりとりを見つめていた。

 消えたミルトレ公……女王を恨む令嬢……唆したのは大司教。

 そして大司教はその誠実な仮面をかぶったまま、ウヴァル王子にも近付いて行き………。

 セオの中で何かが繋がった。

 それが答えであると確信し、何故もっと早くに気が付かなかったのかと絶望した。

 もう言葉も出まい。

 命に代えても守るべき人を守れなかった自分はただの虫けらよりも愚かで、生きる価値もない。

 それでも……まだ女王が生きているのならば……最後の力を擲ってでも彼女を守る盾とならねばならない。

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