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禁忌の書5

 ロロンの横を通り過ぎたハールートは、ロロンのことなど綺麗さっぱり忘れ去っていた。

 彼は躊躇なく、廊下を幾つか折れた先にある部屋へと向かった。

 重厚な木の扉に穿たれた真鍮製のノッカーを叩くと、中からくぐもった女の声がした。

 いささか剣呑な口調で誰何するそれにハールートはただ低く、私だと答えた。

 すぐに扉は開き、中からはほっそりとした、美しい乙女が出てきた。

 白銀の髪にエクロ=カナンの民らしからぬ碧眼を持つその乙女は、どこか薄幸な面影を漂わせている。

 それは彼女がつい最近、家族を全て失ってしまったからであると説明すれば、誰もが納得しただろうが、元から彼女を知っている者から見れば、彼女は元々そういう空気を纏っていると答えるだろう。

 美しいのに花がない、そんな淋しげな色香を纏った乙女はドアを開けた先にいるハールートを見つめ、頬を紅潮させた。

 貴族の令嬢らしく、流麗に腰を折って大司教に敬意を表すと、彼女は大司教を部屋の中へと導く。



 そこはがらんとした、寒々しい部屋だった。

 幾重にも敷き詰められた石が剥き出した床と壁。

 室内を照らすのは僅かに灯された蝋燭のみ。

 時折隙間風が入り込むのか、今にも消えそうに灯芯がその身を揺らす。

 薄暗い室内で蠢く二人の影は歪で、まともな神経を持ち合わせた者なら背筋にうすら寒いものを感じたことだろう。

 残念ながら、この部屋にまともな者など誰一人として存在しなかった。



 ハールートの訪問に好意を隠さない令嬢に対して、彼は冷たいもので、無表情のまま我が物顔でその異様な空間にずかずかと入り込む。

 その顔は先ほど高位枢機卿を相手にしていた時と打って変って、ひどく酷薄に見えた。

 僅かな灯に照らされできた影の所為か、異様なほど陰鬱で邪悪に見える。

 無表情の中に張り付いているのは、人の命を虫けらにしか見ていない彼の本性だった。

 傲慢さを包み隠さない、不遜な態度のハールートだが、彼を見つめる令嬢は羨望の眼差しだ。

 彼に代わって扉を閉めると、彼女は冷やかなその背に声をかけた。


「お待ちしてましたわ。大司教様」


「ああ、それで様子はどうだね?」


「それが……まだ…………」


 淡々と聞く彼に乙女は申し訳なさそうに瞼を伏せ、言葉を切った。

 僅かにこけた頬に浮かぶ影が更に彼女を幸薄く見せ、焦りの浮かんだ碧眼は色褪せて見える。

 ハールートから目を逸らし、心底悔しそうに唇を噛みしめて項垂れている彼女を振り向くと、ハールートは音には出さずに鼻先で笑った。

 彼の視線の先では枯れたような立ち姿の令嬢が自分の至らなさに肩を震わせている。

 元来、その身分ゆえか自尊心の高い女性である。

 彼女が彼の尋ねたことを達成できていないことは、この部屋に入った瞬間からハールートは気付いていた。

 それをあえてその自尊心に揺さぶりをかけるように言ったのは、偏に彼の変質的な性質の為だろう。

 非常にサディスティックな嗜好を好む彼は、人の歪んだ表情を見つめることに何より愉悦を感じるのだ。

 それがより優れた者や美しい者であればあるほど、彼の快楽は高まる。

 目の前の令嬢は、見た目はそこそこ麗しい。

 その顔を歪ませることで、ハールートは先ほど感じた殺意にも似た怒りを鎮めた。

 そんな感情を抱いた、ねっとりとした視線が自分に注がれているなど令嬢は露知らず。ハールートの次の言葉を待って、申し訳なさそうに視線を床に漂わせている。

 上手に返答もできず、ただ言葉を待つのみ。

 そういう姿を見ると、世慣れぬ貴族令嬢だと思わされる。

 そのか弱い姿にハールートはにやりと口の端を歪に上げたが、すぐにその表情を改めた。

 そして彼女を慰めるように、一歩側に近寄るとその髪を撫でてやった。

 その仕草に乙女はまるで神に出会ったかのような法悦を口元に浮かべ、顔を上げた。


「ああ……大司教様……なんとお優しいのでしょう」


 心底陶酔しているその表情にハールートは満足げに顔を歪ます。

 そうだ。これでいい。愚か者は皆彼女のように自分に跪いて、心から自分を敬い、犬のように媚を売って生きていればいい。

 あの見た目も中身も身分にそぐわない者どもなど、即刻首を刎ねてやりたいほどだ。

 無能なら無能らしく、這いつくばって生きていけばいいものを。

 そう、さっき廊下で部屋の中を盗み見ていたあの愚鈍な男もだ。

 あのような醜悪な者は生きる価値もない。

 殴り倒して、踏みつけて、跡形もなく消してやりたくなる。

 先ほどの一連の流れを思い出し、ハールートの表情が醜く歪む。

 彼を照り映す蝋燭の灯はゆらゆら形を変え、幾重にも彼の本性を映し出した。

 しかし、そんな彼をまるで神のように見つめる令嬢は、祈るように手を組んで彼に答える。


「きっと、いいところまで来ていると思うのですわ。ただ、最後の最後で……なんと強情なのでしょう」


「まぁ元来芯の強い性質だからね。君のようなか弱い淑女とは造りが違う」


「そうですわね。誰もが惚れる強靭さが、今はいっそ殺したいほど憎らしい」


 ふんっと鼻で嘲笑したハールートに対して、令嬢はぎりりと歯を噛みしめて顔を歪めた。

 そして冷たく凍りついた碧眼を部屋の奥に視線を向けた。



 何もないがらんとして、寒々しい部屋。

 そこにはまともな者は誰一人いない。

 そう―――部屋の奥、天井から垂れ下がる太い縄で括りつけられた屈強な体躯の男もすでにまともとは言い難い様相を呈していた。

 上半身は裸で、剥き出しになった太い腕は広げた状態で鉄の棒に括りつけられいる。

 縄はぴんっと張られており、その為に彼はその体勢のまま身を捩ることも出来ない。

 その体躯には幾つもの赤い線が走っていた。

 鮮血の滲むそれが鞭による傷だと容易に想像がつく。

 塞がった傷の上に新たな傷が出来、彼がここに囚われていた時間の長さを表していた。

 薄暗く寒々しい室内で、与え続けられる苦痛の数々………。

 そのあまりに残酷な拷問に、どんな屈強な戦士も泣き叫び命乞いをするだろう。

 だが、彼は違った。


 じりっと石の床を踏みしめるハールートに気が付いたのか、項垂れていた頭が億劫そうに持ちあがる。

 その顔の中心にあるのは、清廉にして屈強な青銀の瞳―――。

 そこには怯えも恐怖もなく、ただ射抜くようにハールートだけを睨みつけている。

 鋭い眼光が薄暗い室内で、異様なほど煌々と光を放つ。

 こんなにも力強い瞳の主が捕らわれて自由の利かない身であるなど誰が思うだろう。

 眼光だけでない。彼を包む全てがハールートを圧倒していく。

 ハールートは無意識に足を止めた。

 そして、対峙する男の全貌を掴むかのように視線を向けた。

 鋭く切れ長の青銀の瞳が褐色の肌の中に浮かんで見える。

 エクロ=カナンの民らしい白銀の髪は短く刈られ襟足部分のみ長く伸ばされ、首の横で一つにまとめられている。

 鍛え抜かれた筋肉質の体躯はけしてごついだけではなく、均整のとれた、しなやかな肉食獣を思わせた。

 一目で彼が剛の者であると、それもその道を極めた者であると分かる。

 


 その鋭い眼光に足を止めざるを得なかったハールートだが、その事実を認めたくないと自分の胸の内に滲みでた生理的な恐怖を懸命に飲み込んだ。

 そうだ。この男は手足を自由に動かすこともできない。

 ハールートがその気になればいつだって殺すことができる。

 そんな取るに足りない存在を前に何を怯えるのだ。

 そう言い聞かせ、自分を鼓舞する。


(俺は偉い。俺は強い。こんな奴に怯えることなど……)


 だがどんなに自分を繕っても、研ぎ澄まされた閃光が一直線にハールートの胸に突き刺さる。

 どくんっと鼓動が耐えられない緊張に悲鳴を上げた。

 体の芯が一気に冷えていく。

 きっと野生の獣のようなぎらぎらした眼差しの奥にある彼の怒りに圧倒されているのだろう。

 ハールートはごくりと喉を鳴らした。



 なんと屈強な男なのだ。

 何日もこの体勢でほとんど水も与えていないのに、この男にはまだ理性と忠誠心が存在するらしい。 

 どれだけの痛みを味あわせても、彼は見苦しく命を乞うたりはしない。

 じっとハールートを見つめる曇りなき青銀の瞳はどれだけの苦しみを与えても揺らいだりはしない。

 ハールートは顎を押し上げ、精一杯男を見下そうと目に力を入れた。

 恐怖に渇く喉を何度も鳴らし、それでもハールートは大司教の威厳を込めて静かに男に声をかけた。


「流石はエクロ=カナンの豹と呼ばれるだけはある。御見それしましたよ、セオ・オーディン閣下」

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