血に濡れた女王3
石で出来た遺跡はどこまでも薄暗く、足を通してじんと伝わる氷のような冷たさが彼女の体の芯を凍らせた。それは千年以上眠りについた神殿に流れる時の流れのように無情だった。
テラスのように広がったエントランスを潜り、ハニーは不安げに奥へと進んでいく。
次の間に広がるのはガランとした広間だった。両端に繊細な細工のされた飾り柱が奥へと誘うように並んでいる。
エントランスから差し込む弱弱しい光はその広間の入口までしか届かず、その先は完全に日の光の届かぬ闇だ。
その奥に潜む姿なき恐怖にハニーは身震いが止まらなかった。
ひたひたと彼女の足音だけが果ての知れない広間に響く。闇はその音すらも飲み込み、無に帰そうとした。
自らの肩を抱きしめるその腕だけが唯一の温もりで、希望であった。暗闇は心の弱き場所を知っているかのように執拗にその隙に入り込もうとする。
ハニーは自分の背に絶望が近付きついているという空恐ろしい妄想に囚われそうになる自分を懸命に奮い立たせた。
(だめよ…。負けてられない)
ぐっと金色の瞳で睨むように前を見据え、ハニーは胸を張る。そして更に深淵の闇目がけてずんずん進んだ。
暗闇の中にあってその眼が見つめるのはすでに遠く彼方のゼル離宮。そこに戻るまで彼女は何物にも負ける訳にはいかないのだ。
強き信念によって動くその足が止まったのは広間の端に行き当たったからだ。
伸ばした手が闇に凍てついた壁に触れる。じんっと痺れる指を壁に添わせ、それを辿るように彼女は右へ右へと進んだ。
この先に何があるのか、それは彼女にも分からない。
ただ運命に導かれるように足を向ける。それは永遠とも思えるほどに長い時間で、進むたびに彼女の心は陰鬱に染められる。
どこまでも続く壁が不意に途切れた。
どうやら先に進む廊下となっているのか、細い通路が奥へと広がっている。
広間と同じような闇にあってもその通路は狭い分圧迫感があり、奥には禍々しい者が眠っている気にさせられる。
躊躇するようにたたらを踏んだ。
それでも闇に留まるよりはましであると自分に言い聞かせ、ゆっくりと一歩を踏み出した。
この先は地獄か、冥府か――――。地獄にはあるのは醜悪な悪魔。冥府にあるのは凍りつきそうな無であるという。
(どっちも同じか。ならまだ地獄の方が賑やかそうでいいわね)
そう、自らの行く末を揶揄するように薄い苦笑を洩らした。
その時、ハニーの金色の瞳が深い闇の先に小さな光を見つけた。
「あれっ?」
どこまでも続く闇の先に小さな点のような光がある。その輝きは深淵の闇に浮かぶ星のようであった。
闇に慣れてしまった瞳にはあまりにも眩しすぎる。それでも求めてやまないその一縷の光に縋るように、ハニーは駆けだした。
無我夢中で、ただただその光へと走っていく。
すでに限界を迎えつつある体であるが、その光を前に湧きかえる心を止めることはできなかった。
近付くほどにその光は大きくなり、それが闇の通路の出口であることが容易に知れるまでになった。
「わあっ!」
通路の果てまで駆けたハニーは感嘆の声を上げた。
今までの暗闇と対照的な光の洪水が彼女を包み、思わず目を瞑る。暗闇に慣れ過ぎた彼女にその光はあまりにも激しかった。
それでも瞼越しでも分かる温かさに、張りつめた緊張の糸が途切れ、体からするんっと力が抜ける。
瞼越しに感じる光に高鳴る胸を宥めて、薄く眼を開く。
徐々に光に慣れた瞳が捉えたのは、仄明るい日差しが差し込む小さな広場だった。
天井はやけに高く、中心に小さな明かり取りの穴が開いている。そこからゴモリの森にあるとは思えないほど清浄な光が降り注いでくる。
左右奥と、彼女が立つ入口以外に三本の通路があり、その十字路に丸く広がるように、その場は開けていた。
高い天井を支える数本の柱に挟まれた中央、一部分だけ高くなったそこには祭壇のような装飾された石台があり、それを囲むように床には幾何学的な模様が緻密に描かれている。
白い石の床はそっと差し込む光に照らされ淡く輝く。
闇の奥にあって光を放つそこはまるで月のように穏やかだ。
光の粒子がそこここに浮遊し、色褪せたその空間は外の世界と完全に時間の流れが違っていた。廃墟特有のすえた、埃と黴の混じった香りが古の時に漂う。
「あっ――」
呆然と見つめた先の広間に先客がいることに気付き、ハニーは息を飲んだ。
祭壇の側に静かに佇む小さな子ども。年の頃、十ぐらいだろうか。
長い黒の巻頭衣を腰のあたりで白銀の紐で括った、まるで古めかしい修道士のような服を着ていた。
その上衣にはフードがついており、彼の頭を半分以上も隠している。
少年はハニーに気付いていないのか、こちらに背を向けてまるで起きたばかりの赤ん坊のようにぼおっと空気に漂う光を見つめている。
ただ佇んでいるだけ。なのにハニーはその少年から目を離すことができなかった。
呆けるように先客である少年にのみ視線を送る。
だがはたと我に返り、ハニーは込み上げる驚きを飲み込むように喉を鳴らした。
(このような遺跡の奥に人がいるなんて!)
ただその驚きだけに囚われ、もしかすれば――いやエクロ=カナンの民ならば皆、血に濡れた女王のことを知り、そして恐れている事実など頭の片隅に追いやってしまっていた。
この少年の存在が自分の身の破滅に繋がるかもしれないのだ。しかし今のハニーはそんな未来を思い描くことも忘れていた。
もし少年が血に濡れた彼女の姿に怯え逃げ出し、血に濡れた女王を追う騎士に彼女の居場所を進言すれば一貫の終わりである。
だがこの神聖な空間は、追われている現実も、今まで感じていた先への恐怖をも霧散させてしまう。
『血に濡れた女王』は一時その仮面を脱ぎ、ただのハニーとなっていた。
「どうしたの?」
その生まれたばかりのひな鳥のような少年に惹きつけられ、ハニーは壊れ物を扱うかのように恐る恐るといった様子で声をかけた。
少年は弾かれたように振り向く。
被っていたフードが落ち、一つに括られた光の糸のような長い金髪が清らかな空気に揺れた。
少年は大きな瞳を更に大きく見開いて、ハニーを見つめた。
光が滑ったような湖面の色をした瞳にハニーは息を飲んだ。
なんと美しいのだろう。
彫刻のように端整な顔立ちに、薔薇色の頬とくりくりした円らな瞳。幼さの残るあどけない表情の中に凛とした気品と優美さが漂う。
降り注ぐ光のベールに包まれたその少年はまるで崇高な神の国から気まぐれに降り立った天使のようだ。
エクロ=カナンの民らしくない金に輝く髪とどこまでも深い湖に似た青の瞳を持つ少年だった。




