禁忌の書4
全てハニーの思う通りに事が進めば、何と大きな足がかりになることか。
その道中、ハニーに従うこの女性を見て他がどう思うかは、もう二の次だ。
そう、割り切らないとこの森を抜け出すことなどできない。
彼女が危険に晒されてるかもしれない、その時は………。
(その瞬間、彼女を見捨てる覚悟ができる。大丈夫よ。騎士団だって見た目に華麗な貴婦人に対していきなり剣をふるったりしないはず……でも………)
覚悟を決めた心が突き進む想像の途中で、うろたえ出す。
揺れる金色の瞳が見たのは、薄暗い馬車内でも煌々と輝く扇情的なエメラルドの瞳だ。
彼女は悠々と微笑みながら、じっとハニーの心の中を覗いていた。
全て見透かしているとばかりに真っ赤な口がにやりと押しあがる。
その瞬間、どきんと鼓動が弾けた。
(違う!)
どくどくと警鐘を鳴らし、血潮が体中を駆け巡る。
それでも見つめ合った瞳は逸らせない。
湧きあがった期待に揺れ興奮する胸の内を冷やすように、ひやりとした研ぎ澄まされた切っ先に似た何かが首筋に触れた。
じりっと嫌な悪寒が脳幹に走る。
それは一握の雪解け水のように、熱せられてぼうっとするハニーの頭に理性の風を吹き込む。
幾重にも張り巡らした思考の糸に一瞬引っ掛かった淡い期待を打ち砕くように、ハニーは激しく被りを振って打ち払った。
(……違う。そんな簡単に物事が行く訳ない。この人は優しげな姿を装っているだけだ。こんな口先だけの言葉に騙されてはいけない………)
安直に流される自分の惰弱な自分を叱咤し、ハニーは眼差しを鋭くした。
ハニーが一瞬で思いつくことをこの妖艶な美女が考えない訳がない。
彼女はただの貴婦人じゃない。
この森に単身に乗り込んでくる豪胆さを胸に宿し、か弱い振りをしている狡猾な女―――。
この身がいくら汚れても構わないが、それはこの信念を突き通すためだけだ。
一時の気休めに身を任せるためでも、浅ましい夢に縋るためでもない。
暗い闇にあっても真っ直ぐに前のみを見据える金色の瞳は、対峙する蠱惑的な美女をしっかり捕えた。
誰もが骨抜きになる蠱惑的な美貌を一番輝かしく見せる笑みを浮かべ、ゾフィーは艶然とハニーを見つめ返す。
その深い瞳は妖しく輝き、底が知れない。
ハニーは気付かれぬようにごくりと喉を鳴らした。
彼女は確実にハニーの敵だ。
どれだけ優雅な笑みで迎え入れられても、激しく暴れる鼓動がそれを確信する。
敵なのに、敵とは思えない顔をしている者ほど信じられない。
それでもゾフィーは飼い猫がおイタをしたのを見咎めたように、柳眉を寄せるだけだ。
どこからともなく曇り一つない葡萄酒杯を取り出すと、嬉々とハニーの方へと差し出す。
「ねぇ、子猫ちゃん。意地悪しないでワタクシの心慰みにお付き合い下さらない?いい葡萄酒が手に入りましたのよ?貴女はどちらがお好みかしら?聖女の涙を集めたかのようなブラン・ド・ブラン(白の中の白)?それとも殉教者の熱き情熱を絞ったサン・ルージュ(血の赤)?」
歌うような口調で、ゾフィーは赤い葡萄酒の瓶のコルクを抜く。
開け放たれた瞬間から甘酸っぱい芳醇な香りが馬車に広がる。
それはまるで命の水だ。
体中を流れる血液が同じ色をした至高の水を前に湧きかえる。
飢え渇き極限にまで至った体がそれを喉にした時の歓喜を予感し、小刻みに震え出す。
「……ぁぁあ………」
ごくりと喉が鳴る。
仄かな甘みを含んだ重厚な芳香に思わず身を乗り出した。
ハニーの視界には深く輝く真っ赤な水しかない。
そんなハニーをゾフィーはただ妖しく見つめて、試すように葡萄酒杯を金色の瞳の前で揺らしてみせる。
そして、真っ赤な口紅で縁取られた口に葡萄酒杯を寄せると一口含んだ。
彼女の白い喉がごくりと動く様は異様なほど官能的だ。
そうやって存分に見せつけると、物欲しそうなハニーの瞳を意地悪に見返して艶然と微笑む。
「うふふっ。さあ、貴女もお飲みになってね?」
その心を柔らかく撫でる声に誘われて、無意識に手が伸びる。
それが毒であると分かっていても、飢え渇いた体は本能には逆らえない。
ダメだと告げる理性と体の根幹を司る本能が小さなハニーの体で鬩ぎ合う。
司令塔を失ったハニーの指は、葡萄酒杯へと伸ばされた先でぶるぶると震えている。
その赤い命の水を一口でも口に含めば、ハニーはゾフィーの思いのままに操られてしまう。
(………ダメよ、ハニー………でも……)
その抗い難い誘惑を断ち切るようにハニーは目を逸らした。
ぐっと口の端を噛みしめると、鈍い味が口の中いっぱいに広がる。
ぎゅっと傷だらけの拳で、襤褸になったドレスのスカート部分を掴み、武装するように肩に力を入れる。
「いらないっ!早く元の場所に戻して!わたしはのんびりお話なんてしてる間はないの!」
まるで負け台詞だ。
この謎の貴婦人が子どものような言葉を簡単に聞き入れるなど思わない。
でも強がっていないと、必死に寄せ集めている自分が崩壊してしまう。
口先だけでも拒絶しておかないと、いつか心さえ陥落されてしまう。
じわりじわりとハニーの体に染みついていく、この濃厚に噎せ返る彼女の香りのように……。
彼女はそれを知って、あの手この手でハニーの心を腐らせていく。
武器なしに籠城した城を陥落させる、それはまさに魔女の手腕だ。
しゃなりとした妖艶で高貴な姿は仮の姿。彼女は見えない鎌を携えた死神だ。
不用意に近寄れば、途端その鎌でハニーを一番残酷な方法で地獄に誘う。
(か、考えろ。今わたしに出来ることを……。この人の本当の思惑を………)
揺れ惑う金色。
艶然としたエメラルド。
薄暗く狭い空間で行われる駆け引きの主導権を握るのは、残念ながらゾフィーだ。
「そう言わず一杯付き合って下さらない?積もる話もありますし、それにワタクシ、貴女をあの争いの場に置いておくなどできませんわ。か弱い乙女にそのような過酷なことをさせられません」
さも争いなど恐ろしいとばかりに悲痛そうに眉を寄せ、大げさに首を振る。
揺れるに合わせて銀で出来た精巧な十字架が薄暗い空間を煌めき流れる。
それは彼女の顔を彩る艶やかな花から生まれた光の雫のようで、この暗澹たる空間で唯一本物の美しさだと思えた。
ハニーは全てを飲みこもうとする眼差しから視線を避け、十字架の中心へと思考を向けた。
誰が身に纏っていてもその神聖さは変わらない。
何度も心の中で落ちつけと言い聞かせ、むくむくと頭を擡げる姿なき恐怖を押し込めた。
弱い心が、言い知れない恐怖がハニーに居もしない悪魔を見せるのだ。
この閉じられた空間で信じられるのは、自分自身。
そして………。
(神よ……どうかわたしの心をお見守り下さい。わたしは二人のエルの為になんとしてもこの妖婦の魔の手を掻い潜ります……だから……)
瞬きの間に間に浮かぶのは、この世で一番慈悲深い清楚な乙女と愛くるしい頬笑みで心を温めてくれる少年の姿。
責められ、孤立し、追い込まれ、それでも自分を奮い立たせることができるのはこの二人がいるからだ。
この二人がいなければハニーはもう二度と『血に濡れた女王』として森を駆けることなどできない。
懸命に被り続けるその仮面は薄氷のようにたやすく砕け、ハニーをただの無力な乙女に変えてしまう。
(もう少しだけわたしに力を下さい。血に濡れた女王として城に帰還する力を……)
小さく息を吐くと、まっすぐにゾフィーを見据える。
揺らぎ、道を失っていた金色が凪ぐ。
その瞬間、燦然とした金色が正面にある妖艶なエメラルドを射抜いた。
「そんなことあなたに心配されることじゃないわ」
みすぼらしい姿に反して、神々しいほどの自信に満ちたその顔にゾフィーは僅かに目を見張った。
それは追い詰めたはずの小猫がする顔ではなかった。
きっと彼女の意図ではなかったのだろう。その僅かな表情の変化は全てに計算しつくされたゾフィーが見せた、初めての隙だったのかもしれない。
しかしそれも一瞬のこと。
すぐにねっとりとした微笑みを垂れた瞳に浮かべ、飾り羽のついた扇子で口元を意味ありげに隠す。
「いいえ、そうもいきませんわ。やっと欲していた物を手に入れたのに。それをむざむざ手放す訳がありませんわ」
「何を言って……」
動揺するハニーの顎元を掴むと自分の方へと顔を上げさせる。
そしてゾフィーは艶然と言い放った。
「貴女はお持ちなのでしょう?禁忌の書を………。わたくしに渡して下さらない?そうすれば悪いようには致しませんわ」