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禁忌の書3

 ガラガラッッ―――――。

 ハニーを更に不安に駆る車輪の回る音が小さな馬車の中に響いた。

 こんな起伏に富んだ森をどうやってこの馬車は快活に走っているのだろう。

 信じられないほどの速さで森を駆けるそれは、あっという間にカンザス達からハニーを切り離した。

 カンザスを助けるためにハニーにもできることを探していたはずなのに………。

 今ハニーの目の前にいるのはさっきまで対峙していた死の天使でも、訛りのきつい帝国の騎士でもない。

 彼らはどうなったのか。突如ハニーが姿を消し、あの不毛な争いは幕を下ろしたのか。

 だが今はそんなことなど気にする余裕はない。

 ドクドクドクッ――と体中を駆け巡る焦燥感に体が警戒心を顕わにする。

 彼らから離れるほど暗澹たる思いが深くなる。

 ハニーの心臓が早鐘を打つのは目の前にいる美女に言い知れない恐怖を感じてだ。

 芳醇で危険な色香がハニーを追い詰める。

 計り知れない存在を前に出来ることは自分の身を守るように眼差しを鋭くことのみ。

 馬車の板の間にうずくまったまま、ハニーは自分を相対する女性から視線が離せなかった。

 急激な展開に体が付いていかない。

 最高潮に暴れ出した心臓が痛くて、沸きたった血潮が体から飛び出してしまいそうだ。

 射抜かんばかりの金色の瞳に応えるように目の前の美女はハニーの戸惑う眼差しを見つめ返し艶然と笑みを浮かべる。

 それは香水が噎せ返るほど蠱惑的な色気を放ち、馬車に溢れかえる。

 ごくりと喉を鳴らした。

 これほどまでに妖艶で美しい人を今まで見たことがあるだろうか。

 美しさで言えばあのサリエとかいういけすかない異端審問官の方が見目麗しいかもしれない。

 だがあのお高くとまった氷の美貌とは違う胸を焼く魅力に動揺して、何も考えられない。

 くせのある鮮やかな亜麻色の髪を上品に纏め上げ、ヒスイの飾りのついた髪飾りで押さえた彼女は、エクロ=カナンやウォルセレンではあまり見かけない、やたらに胸を強調したデザインのドレスを身に纏っていた。

 上半身を包む淡い緑のドレス生地は硬質で、横から下から彼女の豊満な胸を押し上げて見せていた。

 胸元を上から見ると綺麗な円のように見せるその手法はアンダルシア風だ

 その緻密な黄色の刺繍に縁取られた胸元から覗く胸の谷間の白く妖艶なこと。溢れ出んばかりの量感は誰もが視線を奪われ、感嘆することだろう。

 常日頃、自分の胸が後僅かに大きければドレスも映えるだろうと嘆いているハニーにとっては、憧れてやまない理想の体型だ。

 垂れた目尻を強調するように目元に朱が引かれ、長いまつ毛が官能の世界に誘うように妖しくエメラルドの瞳を彩る。

 白く滑らかな顔は貴婦人然としているが、左眼の下には薔薇の花のような赤い痣が咲き誇っている。

 それはけしてマイナスではなく、彼女の艶やかな美貌を一層引き立てている。

 その花の側で、一際大きな十字架のピアスがきらりと妖しく輝いた。

 ハニーは対峙する美女を余すことなく見つめてから、ようやっと相手との距離を測るように問うた。


「………あなたは?」


 警戒心を顕わにした声は固く、悠然とした美女の前では情けないほどか細い。

 その声は激しく揺れる馬車の軋む音に飲まれ消えていった。


「ワタクシは通りすがりのただの貴婦人ですわ。どうぞ、ゾフィーとお呼びになって」


 ゾフィーと名乗った美女は自分の芳香に満ちた馬車から僅かに残ったハニーの声を掬いあげ、しなだれかかるように小首を傾げてみせた。

 甘く絡みつく口調で人の心を擽る音色はハニーの心を惑わし、さらに余裕を失わせる。

 このとろんとしたエメラルドの眼差しはハニーに何を求めているのだろうか。

 ハニーの思惑など一切気にすることなく、彼女は艶然とこちらを見つめている。

 その手に握られているのはハニーを追い詰める兇器ではなく、天国を優雅に舞う鳥の七色の羽で造られた豪華な飾り扇子だ。

 鷹揚とそれを広げ口元を隠す姿は爪の先まで計算し尽くされた、高貴なる妖艶さに満ちている。

 苛列な追跡を受けてきたハニーにとって、ゾフィーほど不可解で底の知れない存在はない。

 どれだけ睨みつけてもゾフィーは顔色一つ変えず、妖艶な眼差しをハニーに向けるのみ。

 ただの貴婦人だと堂々と嘯く彼女は、露骨な嘘をさも真実のように口にする。

 この深い森にいるのは血に濡れた女王とその背を追う騎士だと知っていて、あえてそう嘯いてみせているのだ。


「この深い森の中、ワタクシ、とても心寂しかったのですわ。ご一緒出来るのが貴女みたいな愛らしい人でよかった!これから長い道中ですもの。気安くしてくださいな?」


 軽やかに弾む声はまるで初めて舞踏会に参加したあどけない少女のようだった。

 しかし真実その少女の顔の下に隠れているのは、パーティーで狙った男を上手に弄ぶ妖婦である。

 そんなことも分からないほど、ハニーは世間知らずではない。

 きっと睨みつける視線を通りすがりのただの貴婦人に向けて、威嚇した。

 彼女は柔らかな物腰で首を傾げ、肩を竦めてみせる。

 そして手負いの野良猫に慈悲を向ける貴婦人のように、傷だらけのハニーへと手を伸ばした。

 馬車の端に身を寄せ、警戒心を顕わにするハニーの肩にゾフィーの柔らかな手がかかった。


「やめてっ!触らないでっ!」


「あぁんっ!」


 彼女の存在全てを拒否するように、その手を激しく払った。

 だがそんなことで退けられる相手ではない。

 ゾフィーは鼻にかかった甘え声をあげ、大げさに座席に突っ伏した。

 そしてこれでもかと垂れた切れ長の瞳を見開いてみせ、払われた手をさも怪我を負ったかのように労わっている。

 そして切なげに眉を寄せ、ハニーに濡れた視線を寄せてくる。


「乱暴はよくありませんわ。ワタクシは貴女と仲良くしたいと思っていてよ?ねぇ、そんな床の上では体が冷えますわ。どうぞ、隣にお座りあそばして」


 まるで自分が悲劇の主人公だとばかりの口調で嘯くが、その口の上にあるエメラルドの瞳は禍々しいほど妖しく輝いている。

 その背筋が凍る眼差しにハニーは小さく息を飲んだ。

 

(……何?この人は何者?)


 ただの貴婦人ではない。そのか細い姿や艶やかな仕草に騙されてはいけない。

 ハニーにはゾフィーの姿が、今まで出会ったどの騎士よりも狂気に満ちて見えた。

 か弱い者の毛皮を羽織ったしたたかな魔女―――それはどんな猛者よりも性質が悪くて、始末が悪い。

 物言わぬ眼差し一つでハニーの動きを絡め取った妖婦は、毛を逆立て威嚇する猫のようなハニーの手を優雅に、しかし有無を言わさず握りしめた。

 そしてそのままベルベットの座席の自分の横にハニーを腰掛けさせる。


「うふふっ、やっと近くで顔が見れたわ。……ホント、ため息が出るほど美しいのね。子猫シャトンちゃん」


 同じ高さになったハニーの視線に濡れた視線を絡ませ、何かを推し量るような瞳をしていたゾフィーは小さく感嘆の吐息を漏らした。

 そして白く筋の通った美しい手をそっとハニーの薄汚れた頬へと向ける。

 そのまま有無を言わさずにハニーの顎を上に押し上げた。


「ねぇ、もっとよく見せて。ああ……本当に猫みたいね。光彩がころころと変わる……」


「わたしに触らないでっ!」


 のめり込む様に顔を寄せてくるゾフィーの手を拒絶し、ハニーは座席の端まで身を引いた。

 大きな捕食者を前にした子猫はただ身を丸くして、威嚇するしかできない。

 窮地に追い込まれ、噛みつく牙さえも底の知れない眼差しに奪われたハニーに出来ることなど何もなかった。

 焦りと恐怖のためにまとも働かなくなった思考回路を必死に動かしながら、対峙する者の全貌を掴もうとする。

 ゾフィーは見た目も話し口調も他とは異なり、一見ハニーを庇護しようとしているかのようにも見える。

 だが、何故見ず知らずの彼女が世界を敵に回してハニーを援護するのか。

 それよりも彼女は初め、ハニーになんと言った?


(……禁忌の書って何?まるでそれをわたしが持っているとこの人は確信しているようだった………)


 ゾフィーはハニーからその禁忌の書を貰い受けるためにわざわざ深い森を馬車で駆けていたというのか。

 金色の瞳が何かを掴もうと薄暗い馬車の中で瞬く。

 新月の夜にか細い星の光のみを頼りに暗闇を駆けていく、そんな悲壮さを内包した瞳はそれでも夜の向こうにある目映い朝の光を求めようと必死だ。

 禁忌の書なるものがなんなのか、ハニーには見当もつかない。

 だが今ハニーと対峙してハニーにそれを求めてくるこの女性にとっては、この危険極まりない忘却の森に入り込んでまで手に入れる価値があるのだろう。

 そこまでして彼女が手に入れたいと願うもの……。

 その欲を上手に利用することはできないだろうか。

 そう、彼女はハニーからその禁忌の書を手に入れるまではハニーの意図する通りに動いてくれるかもしれない。

 ならばあくどい手段かもしれないが、禁忌の書があると見せかけて、城までこの馬車を走らせるように仕向けるのはどうだろう。

 縋るような心地から湧きあがった仮初の確信に胸が揺れる。

 卑劣に人を騙す方法が、よくこうも簡単に頭に浮かんでくるものだ。

心の中で自分を嘲笑する。

 ハニーはそんな自分の浅ましさに嫌悪感を抱いたが、今はなりふり構ってなどいられない。

 どうせ一度汚れた身だ。

 これ以上どんな蔑みを受けようが、構うものか。

 そう自分に言い聞かせるとハニーは瞳に力を入れた。

 ごくりと喉を鳴らし、目の前の妖艶な美女を睨みつける。

 色褪せた頬は緊張に凍りつき、ただ注がれる濡れた色に対抗した。


(……うまく言えば城までの足になるかも………)


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