禁忌の書2
「女王はどこへ行ったのだ!このままでは聖域の沽券に関わる事態になるっ!早く女王を捕えるのだっ!」
ゼル離宮にある一間ではエクロ=カナンの大司教ハールート・マールートを囲み、大の男達が喚き立てていた。
彼らの不安を含んだ吐息が薄暗い部屋に置かれた蝋燭の火をゆらゆらと揺らす。
その度に石造りの壁を這う影がその形を変えた。
それはまるで彼らの心のようだ。
厳めしい顔の下に押し殺した惰弱な自身を抑えることも叶わず、神の慈悲に群がる哀れな小羊のようにハールートを囲んでいた。
皆、それなりの高位にある聖職者だと容易に想像がつく豪奢な法衣に身を包んでいるが、そのような形式ばかりの権威など真の窮地では役に立たない。
自分よりも高位の枢機卿らに囲まれても、若き大司教は取り乱したりせず、毅然と彼らに対峙していた。
その態度はどこまでも慇懃で謙虚であるが、発せられる言葉は空虚だった。
それも仕方のないことだった。
我こそはと高慢な態度で乗り込んできたかと思えば、事態が自分たちの思わぬところに転がると聞いていないと焦り出す。
敬うべきと頭で分かっていても、これではどれほどの聖者でも心がついてはいかない。
「枢機卿の方々、女王は今、各国の聖十字騎士団が追っています。捕まるのも時間の問題でしょう。今は我々がなすべきことは喚き我を忘れることではなく、彼らの無事と神の栄光を祈ることにあります」
静かで、それでいて説得力を帯びた誠実な声にハールートを囲んでいた男達はぐっと言葉を詰まらせ、鼻白んだ。
自分よりも年若く、位の低い者から聖職者のあるべき姿を真面目に解かれると、それが正しいあり方だと分かっていても素直に聞き入れられない。
それは浅ましい権力の高みにいる者の驕りだ。
しかし彼らは自分たちの持つ位が人としての格と同意だと信じて疑わない。
それ故に驕りとさえ気付かずその内の一人が怒気を顕わに、ハールートを睨みつけた。
「そんなことは分かっている。それよりも全てを聖十字騎士団に委ねるのはいかがなものかな?いくら聖域の意思とはいえ、彼らは各国の騎士だ。聖十字騎士団の活躍が国益を左右することだけは避けねばならぬ。その為に我らが指揮をだな………」
勢いよく発せられた言葉は次第に尻つぼみになってゆく。
その男自身、どう指揮をとればよいか皆目見当もつかないのだろう。
それはその場にいる者は皆同じで、互いに視線をやり取りして次の言葉を探している。
居心地の悪い沈黙がその広間を覆った。
その押し殺したような空気に耐えきれず、一人の気弱そうな高位枢機卿が口を開いた。
「それで、ハールート君、本当に女王はあの禁忌の書を持っているのかね?」
その言葉に場がざわりと揺れた。
『禁忌の書』―――それは彼らが真にこの国に求める物に他ならなかった。
誰もが求めていた存在。しかしそれが孕む危険性ゆえ口にすることさえ憚られる禁忌の書。
その言葉にハールートの周りにいた男達の目の色が変わった。
皆、それを求めてこのような茶番に参加していたとも言える。
だが聖域の公式見解では『禁忌の書』なるものを認めていない。
それ故に口に出して確認することすらできずにいたのだ。
ある者は『禁忌の書』という言葉に知られざる神の栄光が書かれた書物を想像し、ある者は悪しき欲望の書であると確信していた。
それが何を指し示すか知らぬ者、知っていると勝手にも思い込んでいる者、知らぬのに知っている振りをしている者、真実知っている者、その場は異様な駆け引きの場に姿を変えていく。
彼らはその魅惑の言葉につられ、答えを知るハールートに視線を向けた。
熱い視線を一身に集めてもハールートの顔は何一つ変わらない。
「分かりません。それは女王のみが知ること」
「な、なんだと!話が違うじゃないかっ!」
抑揚なく放たれた言葉に枢機卿達はうろたえた。
耐えきれず男が一人ハールートの胸元に掴みかかる。
そうされてもまだハールートの誠実な顔は何一つ歪むことなく、自分の胸元を掴む男を真っ直ぐに見つめ返した。
その眼光に男は思わず掴んだ手を離し、後ろに下がった。
その男を見下すように一瞥するとハールートは彼らに背を向けた。
「ど、どこに行くのだ?マールート大司教っ!」
「王女のご様子を窺いに………ここにいても何も変わりません故。せめて王女が助かるように祈りを奉げたいと思います」
縋るような声を無情に打ち払う一片の慈悲もない声に、その場にいた者達は言いようもない表情を浮かべ、互いに顔を見合わせた。
「し、しかし、大司教。王女は………」
「無駄なことに想像を膨らませている暇などありません。今を大事になさってください」
慇懃な言葉にどうしてこんなにも身の毛がよだつのだろう。
ぞっと体の奥底から這い上って来る恐怖に彼らは次の言葉を失い、ただ立ち去るハールートの背を縋るように見つめていた。
それ以外何が出来たというのだろう。
もしかすれば、これは彼らが思っていたような簡単な出来レースではないのかもしれない。
この時になって初めて、彼らは自らの身に迫る危機をおぼろげならが掴もうとしていた。
なんと愚鈍で、同じ人であることを嫌悪してしまうほど醜悪な者達なのだろう。
ハールートは遣る瀬無いとばかりに被りを振り、ドアノブに手をやった。
背中に残された枢機卿らの視線を感じるが、もう振り向く気もしない。
自分より高位で年齢も上をいっている彼らに形式的な敬意を表しても、心の中では醜い姿に吐き気がする思いだった。
しかし……前にある深い色合いのドアを見つめる彼の瞳が一際鋭くなった。
「この茶番もこれで終いだ………」
そう、誰にも聞き取れないように呟き、ドアを開けた瞬間。
「ぅわぁっ!」
頓狂な声が上がり、ハールートは足を止めた。
彼が一歩踏み出した廊下には見たこともない男がぼんやりと立っていた。
ずんぐりとした体躯の、見た目に頭が悪そうな男はみすぼらしい服に身を包み、その胸に大事そうに彼に似つかわしくない宝剣を抱いていた。
ハールートはすぐにこの男がウォルセレン王女を連れてきた従者だと気付いた。
そう――ロロンだ。
彼は精悍な顔を歪め、視界に入ったロロンを蔑むように見下ろした。
怯えたように目を瞬くその男を視界に入れた瞬間から、彼はその男を殴りたい衝動に駆られた。
この男も生きる価値などない。
一目にそう判断したハールートは侮蔑の籠った視線をあけすけなくロロンに向けた。
彼は扉を閉じるとともに、小さく、だがロロンの耳には確実に届くように一言言い放った。
「死ね」
思いもしない言葉を司教服の男からぶつけられたロロンは呆然と立ち竦むしかない。
きっと自分の何かが彼の癇に障ったのだと、彼は申し訳なく項垂れた。
だがハールートがそんなロロンの心になど気を配るはずがない。
彼はロロンなど存在しないかのようにふいっとその横を通り抜けていった。
音もなく廊下を遠ざかるハールートの背をロロンはぼんやりと見つめていた。
ロロンは教会の司教様ほど賢く、誠実な人はいないと思って生きてきた。
だが今、その絶対的な信頼が崩れていくのをぼんやりと感じていた。
「司教さんにもいろんな人がいるのね~」
その背が見えなくなった時、ロロンは自分の手が恐怖に震えている事実に気が付いた。
何故自分が震えているのか、ロロン自身も分からない。
ただ彼は震える指先を見つめ、自身に降りかかるかもしれない恐怖よりも前に姿の見えない大切な王女のことを想った。
彼女が王女殿下であろうと、どこかの貴族の姫君であろうと、それとも城に仕える女官でも何でもよかった。
ただ屈託ない頬笑みをロロンに向けてくれる唯一の人、それがロロンの大好きなお嬢さんの全てだった。
彼は漠然と掴みきれない不安を胸に抱いたまま、薄暗い廊下の先を見つめた。
「おじょさん、無事にお友さんに会ってるかね~」