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禁忌の書1

 ロロンは薄暗い城の中を一人彷徨っていた。

 一歩踏み出す度に、ひたっと頼りなげな足音だけが長い廊下に響く。

 何人もの人の気配があるのに、ゼル離宮は奇妙なほど静まり返っていた。

 ロロンはその静謐が恐ろしくて仕方なかった。

 僅かな隙間風にさえびくりと身を竦ませ、小柄な体躯を縮こまらせる。


「何がどうなってるんだろうね~。おじょさんはどこだろね~」


 間抜けな声はどこか暢気そうだが、彼は慣れない異国の城に心から恐怖していた。

 その怯えを打ち払おうと懸命に顔を力ませるが、次の瞬間にまた微かな物音にひっと息を飲む。

 情けない顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。

 それでも彼は勇気を出して声を上げた。


「お、おじょさんはどこだぁ~?」


 誰も答える人はいない。

 長く続く廊下にロロンの情けない声は消えていった。




 ずんぐりとした体に、愛嬌たっぷりの丸い顔。

 ロロンは大国ウォルセレンの王宮の一厩で働く、ただの馬丁である。

 才も学も身分もなく、ついでに見た目通りに動きが鈍く、なんとも風采の上がらない男だ。

 それ故彼は他の馬丁らからよく馬鹿にされ、蔑まれていた。

 ロロンはその嘲りをいつも当たり前に受け止めていた。

 彼らがそうするのは当然なのだと、自分があまりにも愚鈍なのがいけないのだと、ロロンはいつも悲しい気持ちで自身を責めて慰めた。

 ロロンはそういう男だった。

 心根が優しく、人を責めることができない。

 その為か王宮での馬丁という仕事は彼にとって天職だった。

 人と違い馬はロロンを蔑んだりしない。

 世話をすれば世話した分、心を開いてロロンに懐いてくれる。

 今までもこれからもロロンは王宮の端にある小さな厩で馬に囲まれて生きていくはずだった。

 世界の旋律や神の教えなど、どれだけ聞かされても理解することすらできないのだと彼は思っていた。

 そんなロロンが今、異国エクロ=カナンの離宮内をうろついているのは、もちろん彼をここまで連れてきた者がいるからだ。

 それはロロンに王宮の馬丁を天職だと思わせるもう一つの要因だった。


「ロロン、貴方しか頼る人がいないの」


 そう声を固くして、真剣な眼差しを向けてきたのはウォルセレン王の一人娘であるマリス・ステラ王女であった。

 父王の厚い庇護の下、この姫は誰の視線にも晒されることなく、城の奥底で大切に育てられていた。

 ウォルセレン王家のマリス・ステラとは国内外においても有名な存在だ。王族と側仕えの女官以外寄せ付けない崇高な聖女である。

 それ故、ロロンは彼女が自分の名前を名乗るまでこの国の王女だと知らなかったほどだ。

 それまでのロロンは、時折厩の近くで見かけるこの可憐な乙女をどこか身分のある人の娘か何かで、気まぐれに城に遊びに来ているのだとばかり思っていた。

 その乙女は馬丁という卑しい身分のロロンにも臆することなく、その美しい頬笑みを向けてくれた。

 時々、ロロンには一生見ることすら許されない菓子を持ってきては一緒に食べようとさえ言ってくれた。

 その代わりになるか分からなかったが、せめてものお礼にとその乙女を馬の背に乗せてあげたり、ロロンが唯一誇れる草花の話を聞かせた。

 たどたどしく、要領を得ないロロンの話をその乙女はいつも楽しげに聞いてくれる。

 ロロンにとって、これ以上ない楽しい時間を彼女は与えてくれた。

 そんな乙女にロロンは一度何の気なしに、何故自分のような者のところに来てくれるのかと聞いたことがあった。

 その問いに乙女は少し目を見開き、だがすぐに頬を緩めた。

 その、どこか悲しげな笑みは白みゆく空にうっすらと浮かぶ有明の月のように美しかった。


「ちょっとだけね、窮屈だなって思う時があるの。大好きな友人のところに気軽に行けない自分が………」


 そう答えた彼女の言葉の意味がロロンに分からなかった。

 何が窮屈なのか、何故好きな時に会いたい人に会いに行けないのか。

 どれだけ考えてもさっぱり分からない。

 ロロンには一生分からない乙女の感情の機微に、彼はただ首を傾げるばかりだ。

 それでもロロンにはただ一つ分かっていることがあった。

 彼女の頬笑みは彼女が心から喜び浮かべているものではないということを。

 どうすれば彼女をいつものような穏やかな笑みに変えられるのだろう。

 悩んだあげく、彼は一つの提案を試みた。


「きゅ、窮屈ならね~おじょさんの着てる服、大きくしてもらうといいね~。そしたら気軽に動けるのね~」

 

 その言葉に乙女は一瞬驚きに瞳を見開いたが、すぐに屈託なく笑い声を上げた。

 彼女が笑った理由はいくら考えてもロロンには分からなかったが、心から彼女が笑ってくれるならそれで彼は満足だった。



 だからそんな彼女が困っていればロロンは何を以てしても手を差し出さない訳がなかったのだ。

 一生をウォルセレンの厩で生きるつもりであったロロンがあっさりとその運命に背を向けたのはある意味必然だったのかもしれない。

 マリス・ステラ王女が深夜の厩に訪れ、ロロンしか頼る者がいないと真実の名を告げて縋ってきた時には一も二もなく、姫の願いを叶えるべくロロンは行動した。

 鈍くさいロロンがこれほどまでに俊敏に行動を起こしたのは、きっと後にも先にもないだろう。

 ロロンはすぐに王宮にいる馬の中で駿馬を選りすぐって三頭用意し、それを馬の藁を運ぶ粗末な馬車に繋げた。

 仮にも一国の王女を運ぶというにはあまりにもみすぼらしく、馬車を見た王女は目を丸くして息を飲んだほどだった。

 しかしその顔はすぐに屈託ない頬笑みに変わった。


「ありがとう。ロロン。素敵な馬車だわ。これなら誰にも怪しまれずに最速でエクロ=カナンに向える」

 

 王女の睨んだ通り、風采の上がらないロロンが操る粗末な馬車にまさかウォルセレンの王女が乗っているなど誰も思わなかったらしく、誰にも引き止められることなく彼らはエクロ=カナンの王都ベルゼルに着いた。

 そしてやっと王女の親友、エクロ=カナン女王レモリーが滞在している離宮に着いた時、マリス・ステラ王女はロロンに対して、すぐに帰ってくるとのみ言い残し、城の中に消えていった。

 あれからいくら待てど王女は姿を現さない。

 そうこうしてる間に奇妙な馬車が城から出ていき、大勢の騎士が集まり出し、ロロンは居場所を失った。

 彼がそういった輩から邪険にされずに済んだのは、偏に王女が置いていったウォルセレン王の紋章が描かれた宝剣のお陰である。

 城の者は皆ロロンに対して蔑む視線を送ってくるが、ここに滞在している王女の従者だと分かっているのか直接声をかけたりはせず、ただ彼をないもののように扱っている。

 下手に紋章を抱くものに手を出せば、自分の身が危ない。

 皆、そう考えていたのだろう。

 そのお陰で今ロロンは誰にも咎められることなく、この広大な城をうろつき、何処かにいるはずの女王を捜すことができるのだ。

 待っててくれと彼女が言ったのだから、ロロンとしてはその言葉を信じていつまでもみすぼらしい馬車の前で待つつもりでいたが、如何せん状況が状況だ。

 馬車を停めた場所はすでに騎士団の陣が出来て、流石のロロンもそこに居続けることはできなくなった。

 これは勝手が違う、早く激変した状況を王女に知らせねばいけない。

 使命感に駆られた彼は、そのどこまでも優しい心を勇気に変え、見知らぬ城に一歩足を踏み入れたのだ。

 まさか彼のお嬢さんの命が悪戯な運命に脅かされ、今にも消えようとしているなど彼は知る由もない。


「おじょさ~んっ、ロロンは、ここにいるよ~!」


 辺りを憚るように、小さく声かけをしながら城を巡っていく。

 ロロンが長い廊下を折れた瞬間だった。


「これはどういうことだっ!ハールート・マールート大司教っ!」 


 激しく叱責する声にロロンはびくりと身を竦ませ、ごめんなさいと口の中で小さく何度も呟いた。

 その声が自分に対して放たれたものではないと分かっていても彼は警戒体勢のまま、声が聞こえた方へと視線を向けた。

 彼の視線の先にある部屋の、厚い木の扉が僅かに開いている。

 ロロンは何かに惹かれるように、その扉へと一歩踏み出した。

部屋に反響し、放たれる言葉すらロロンには理解できない。

 どうやらその中には何人もの人間がおり、言い争いをしているようだった。

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