死の天使7
覚悟を決めた瞳は何故こんなにも澱みなく世界を駆けていくのだろう。
眼前で兇器を手に命のやりとりをしているはずなのに………。
それでも彼はそんな苦境に立っているとは思えないほど溌剌とした眼差しをハニーに向けてくる。
それも一時のこと。ふいっとハニーから顔を背けたカンザスはアシュリに視線を戻す。
その表情に頬笑みはない。
猛る武士の慟哭が森を駆けあがる。
「ぅぅぅぅうううおおおおぉぉぉぉ~っ!」
「っくっ!」
カンザスの剣がアシュリの鎌を横に薙ぐ。
ガツン―――と鈍い音を奏で、一度は熱く溶け合った二つ兇器が二つに分かれた。
再度攻撃を加えんとアシュリは後ろに飛び引いて間合いを取る。
カンザスもやられてなるものかと腰を下ろして、殺気を濃くする。
「ただの衛兵にするには惜しい腕だ。だが、それもこの瞬間まで。お前も灰塵に帰す」
「ブラッディ・レモリィィィィィィ~ッ!逃げろぉぉぉぉぉぉぉぉ~!!!!」
魂のままの叫びが悲痛な響きをもって森にこだまする。
鬩ぎ合う銀の輝き。
煌らぐ火花が散り、深い森を燦然と彩る。
その美しくも儚い命のやりとりを遠くに見つめながら、ハニーは動けない。
「……行けない。行けないわ……血に濡れた女王はもうこれ以上他の誰の血にも濡れる訳にはいかないのよ……」
まるで見えない蔦に手足を絡めとられたかのように、ハニーの足はその場から離れることを拒む。
泣きじゃくる様に赤い髪が宙に揺れた。
焦燥に駆られた瞳が打開策を探すように辺りを彷徨う。
ふと目に付いたのはハニーの腰まであるほどの長さの枝だった。
太さもハニーの手にちょうどいい、その枝ぶりにハニーは歓喜した。
(そうだ……これでわたしも戦える。これならあの子の動きを僅かでも止めることができるはず……)
たとえアシュリを止めてもカンザスはハニーを聖域に連れ帰る使命に違えることなく、行動するだろう。
だが彼はハニーを生かして聖域に連れていくと言った。
それは彼がこの偽りの惨劇に何しかしらの疑問を抱いているからではないだろうか。
余裕ないハニーの頭の中で、そんな希望的観測が浮かんでくる。
いや、そんなことは全て建前だ。
結局はハニー自身、今は何かに向かって動き出さなければ体がバラバラになってしまいそうなのだ。
これ以上誰もブラッディー・レモリーの名の元に傷ついてほしくない。
力無き身でそう願うのは傲慢なのだろうか。
それでも身の丈にあまる激情がハニーを突き動かす。
(きっとあのカンザスという人はわたしの言葉を真っ直ぐに聞いてくれるはずっ!ここを脱け出したら彼に全てを話そうっ!―――だから大丈夫っ。自分を信じて動くのみよ、ハニー!!)
心に決めて、枝目がけて走り出した。
その背では空気を切り裂く研ぎ澄まされた音が幾度も響く。
それはまるで高鳴るハニーの鼓動のように時に早く、時に遅く、深い森にこだまする。
(後少し、どうかそれまで持ち堪えて!カンザスッ!)
傷ついた体に鞭打つ。
塞がりつつある傷口から鮮血が吹き出す。
途中何度も転び、泥だらけになった。
新たな傷に体が悲鳴を上げる。
それでも一たび動き出したハニーはもう何者にも止められない。
ハニーの瞳に映るのは、ただ地面に伏するその枝のみ。
それが全てだとばかりに目指す。
(……あっ、後、少し………)
苦しい息をそのままに身を屈め、その枝に手を伸ばした。
(これであのアシュリとかいう子の動きを一瞬でも止められれば……!)
そう信じて疑わなかった。
だが、ハニーの細い指先がささくれたった木の節に触れた……その時。
ハニーの頭を不審な影が覆った。
「あら?愛らしいお嬢さんだこと」
いっそ場違いなほど軽やかな声がハニーの頭上で弾んだ。
目の前の命のやりとりがいっっそ空々しく思えるほど、それは艶美な声だった。
艶やかな響きは異国の香のようにけぶり、森に広がる。
「……えっ?」
思いもしない声にハニーは弾かれたように顔を上げた。
体がその不穏な影に全力で抗おうと強張る。
突如目の前に現れたのは黒檀で設えた上品な馬車だった。
精緻な意匠がそここに施され、金で縁どられている。
そのドアを開け、艶然と微笑む美女はハニーと目が合うとしなをつくって、小首を傾げる。
「ご機嫌よう、可愛らしいお嬢さん―――ねぇ、ご一緒に葡萄酒などいかがかしら?」
「誰?」
驚愕に包まれた金色の瞳が映し出したその全貌を掴もうと瞬く。
しかしそんな努力空しく、息を飲んだ時には既にその美女に腕を掴まれていた。
抵抗する間もない。
彼女はそのか弱い姿からは想像もつかない力強さでハニーを自分の方へと引き寄せる。
「や、やめてっ!!」
悲痛な声が甲高い金属音と共に森に響いた。
必死に踏ん張っても傷だらけの足が地面を離れる。
そしてあっという間に宙を浮いたハニーの体は美女の乗る馬車へと飲み込まれていった。
「………っっな………」
息を飲む間もない。
勢いよく叩きつけられたのは、地面とは異なる固く無機質な板の上。
塞がりつつあった傷がその衝撃に開き、ハニーは低い声で呻いた。
それでも咄嗟に身を起こして身構え、顔を上げる。
孤立した金色の瞳が映し出したのはさっきまでハニーがいた世界から隔絶された狭い空間だった。
馬車は外見に反し、中は目を見張るほど豪奢だ。
黒檀のそこここに埋め込まれた宝珠が妖しく煌めき、滑らかなベルベットの張られた座席は羽毛のように柔らかそうだ。
その中心に悠然と坐し、妖艶にして淫靡な美女は意味ありげな笑みを豪華な飾り扇子で覆い、碧の瞳でハニーを見下ろす。
妖しく輝くエメラルドの瞳の中でハニーは戦慄する。
滴り落ちる色気が不意にその色を変えた。
蠱惑的な声がハニーの耳に響く。
「そして、ワタクシに渡して下さらないかしら?貴女が持っている禁忌の書を………」
どくんっ――鼓動が軋んだ。
ガラガラと車輪の回る音が鮮明に耳に響く。
それは運命の輪から外れ勝手彷徨うハニー自身のようだった。
車輪は回る。
ハニーの意図せぬ方へと転がっていく。
さっきまで側にあったはずの鉄の擦れ合う音を遠くに聞きながら、ハニーは運命の奔流に飲まれていった。
***
泉の袂ではまだ深遠の青と泰然とした紫がぶつかりあっていた。
余裕無げに口の端を歪めたアクラスを真っ直ぐ射抜くようにエルの眼差しが注がれる。
その視線に応えるようにエルは茫洋とアクラスを見返した。
初めて感じる、胸を焼く奇妙な感覚にどうしようかと考えあぐねているようだ。
定まらない視線を肌でじりじりと感じて、アクラスはただ愉悦に喉を鳴らす。
ぽつりとエルが呟いた。
「………何で僕は貴方のことを知っているのだろう?」
「魂の記憶と呼びましょうか?おれも貴方のことをよく知っていますよ?自分のこと以上に貴方のことを……」
「僕自身、僕のことが分からないのに………。出会ったばかりの貴方に何が分かるというのです?」
信じられないとばかりに、エルの瞳がアクラスという理解できない存在に揺れ惑う。
その瞳に浮かんだ複雑な感情を的確に掬い出すとアクラスは小さく嗤った。
それはいつもの爽やかさとは対極にある陰鬱とした影を負っている。
「フフッ……知ってます?こういうのを共鳴っていうんですよ」
訳知り顔でエルに言って聞かせるアクラスは何者なのだろうか。
エルは漠然とした不安を言葉にできず、ただアクラスを見返すのみ。
「共鳴………」
「そう同じ星の下を生きる者同士、引かれ合う。これはある意味呪いだ。そう、それは甘美で解き着がたい束縛。だから覚えておいて……自分の身の置きどころを……。これは同じ道を歩む者からの忠告です」
そう呟くとアクラスは寂しげに紫の瞳を遠くへ向けた。
まるで去っていた喧騒を追っているようだ。
彼の心の不安に答えるように、森の葉がざぁと暗い森に散る。
突如現れた妖艶な美女を前に女王はただ茫然とする外なかった。
ミシミシと音をたて回る車輪のよう、哀れ、女王の命運は深い森を迷走していく。
彼女を乗せた馬車の行き着く先は天使の宮殿か、それとも悪魔の伏魔殿か―――。