死の天使5
次から次へと押し寄せる悪戯な運命の波にハニーは翻弄されっぱなしだ。
その華奢な体はとうに限界を迎え、嵐の海を無残に漂う藻屑である。
がっしりとしたカンザスの背に守られていても、押し寄せる恐怖からは逃れられない。
か細い手が縋るように、無意識のうちにカンザスの服を掴んでいた。
不意に気付いた背中の違和感にカンザスは驚いたように目を見開き、ちらりとハニーの方を窺った。
その瞳が捉えたのは、がたがたと震える哀れな乙女。
美しくカンザスの心を掴んで離さない金色の瞳は恐怖にその色を失っていた。
そのどこにも狂気など存在しない。
血に濡れたと称される赤い髪は透き通るほどに淡く、血の赤とはまるで違って彼女の双肩に項垂れかかっている。
これが自分の追っていた者なのだろうか――――。
その金色の瞳からすっと音もなく、清らかな涙が零れ落ちた。
その瞬間、カンザスの胸を巣食う悶々とした疑問が霧散した。
「おいっ!」
感情のままに叫ぶとカンザスは素早く腰の剣を引き抜き、アシュリの眼前へと躍り出た。
煌めく切っ先を何物にも動じない氷の瞳に向けると声高々に言い放つ。
その体躯からは想像もつかない威勢に、アシュリは僅かに眉を顰めた。
「その鎌を下げろっ!力なき者に武器で襲いかかるなど騎士の風上にも置けん奴やなっ!」
「私は司教だが………」
カンザスの激情にアシュリはかくんと首を横に傾げた。
濃紺の髪がふわりと揺れる。
そのあどけない仕草は世の習いを知らぬ可憐な乙女そのものだ。
その至極真っ当な答えにカンザスは羞恥に顔を真っ赤にした。
側にいるハニーすら一時恐怖を忘れてしまうほど、彼女を守る腕も燃え上がっている。
「そ、そんなん分かってるわ!オレが言ってんのは人の道理やっ!司教も騎士も関係ないっ!何も持たへん人間相手にその大鎌は反則やろっ!」
自分を包む空気を変えようとカンザスは一際大きな声で怒鳴った。
だが言っていることはめちゃくちゃである。
しかし、対するアシュリは表情一つ変えず、淡々と頷くのみ。
「成程。お前の言うことは一理ある。以後気をつけよう」
「分かればええねん」
まだ顔の火照りの取れないカンザスは取り繕ったように胸を反らして、偉そうに答える。
そんなどこか現実味のない光景をハニーは逸る思いで見つめていた。
この少女の実力も目の前の青年の実力も分からない。
元は同じ目標を掲げこの森を駆けていた二人が今、ハニーを挟んで相対している。
彼らが何かの拍子にぶつかりあった時、結果はどうなるのだろう。
どうすればそのような事態を食い止めることができるのか………
そんなことは自分が気を回すことではないのかもしれない。
ハニーの目指す先は遥かゼル離宮で、こんな辺境の森で繰り広げられる小芝居の行方ではない。
だがハニーはもう目の前で血が流れるのは嫌だった。
手足を絡める死という恐怖はどんな状況であっても解けてなくならない。
(……ここから逃げ出すいい方法はないかしら?あの子にもこの人にも気付かれずにそっと一人消える方法が……)
アシュリは身構えるハニーに構わず、不思議そうにカンザスに視線を向けている。
彼女は女王の側にこのような付き人がいるなど聞いていなかったのだろう。
いや、森を駆け女王を追う者全てが狂い出した旋律の外にいる。
ハニーがその命を研ぎ奏でる悲壮なシンフォニーは、女王を狩ることに囚われた彼らの耳には届くことなどない。
ただ一人、その音に熱きビートで応えたのはこの不思議な訛りで話す青年――――。
「……女王は一人だと聞いた。お前はなんだ?その姿からガルシアの者だと見受けるが?」
抑揚なく問う眼差しは何の色もなく、ただ淡々とカンザスの頭からつま先までを何度も往復する。
「オレは……聖域の衛兵やっ。名をカンザスという。………名は明かせんが聖域にいる御方から女王を生きたまま連れ帰れとの密命を受けた」
剣の先をアシュリに据えたまま、カンザスは堂々と答えた。
名は明かせないのではなく知らないというのが真実だが、名前など今この場では関係ない。
この深い森で必要なのは女王を追う名目だけだ。
力強く大地を踏みしめるその背がハニーにはとても大きく見えた。
(せ、聖域の衛兵……それなのに……なんで………)
突きつけられた現実に嗚咽が込み上げる。
焦げ茶色の逆立った髪が彼女の金色の瞳の中で潤んで霞む。
ハニーはぎゅっと胸元の頼りない衣を掴み、溢れそうな感情を抑えつけた。
そうでもしないと胸を突くこの躍動感を押さえられない。
花十字を背負っていない彼はどこか憎めない愛嬌があって、ハニーを追っていても他の騎士達とは相容れない一線があった。
それ故にただの旅の者だとばかり思っていたのだが、まさか一番の敵だとは………。
名乗りを上げたカンザスの声がハニーの心に鮮烈に突き刺さる。
(聖域の騎士なのに……なのに何でこんなに傷ついてもなお、わたしを守ってくれるの………)
熱き血潮が雄大な背に沸き立つ。
全てから見放されたはずなのに……彼はハニーがどんな立場に立っているかを知った上でまだハニーの盾となることを是としたのだ。
それが仮初の優渥であろうが、この先を見据えた故の温情であろうが構わない。
彼は同じ聖域の司教に逆らってまでハニーを守っているのだ。
それは並々ならぬ覚悟の上にようやっと成り立っている奇跡だった。
彼がどれだけ愚かであっても、想像に難くない未来に思い馳せることもできない赤子ではない。
ハニーに一時でも味方することは無情の死を意味する。
ハニーを追うは聖域の加護を受けた聖十字騎士団。
彼らは確実にハニーを聖域まで連れ去るだろう。
その命題にハニーの命の有無は関係ないはずだ。
だが彼は今、ハニーを背に聖域の司教と対峙している。
何故ハニーを守ろうと思ったのだろうか。何も武器を持たない、弱々しい姿に同情したのだろうか。
それでもいい。
それでも彼の純粋で偽りない心がハニーの心に火を点ける。
「そうか………」
カンザスの答えに何の感慨もなくアシュリは頷いた。
暗い森に深い濃紺の髪が揺れる。
彼女はそのまま大鎌の先をふっと下ろし、構えをといた。
それに倣ってカンザスもアシュリに向けた切っ先を下ろした。
「そうや、それでいいね……」
カンザスがそう呟いた刹那――――夜の色をした髪が地面を這う。
ハニーの見つめる先が真っ暗な絶望で覆われていく。
「――――っっっなっ!」
押し寄せる旋風に体が硬直する。空気が唸る。日差しが逃げ惑う。
その中をアシュリは電光石火の勢いで低く地を駆ける。
幽寂の森の木々が常ならざる殺気に身震いした。
地を這う蛇のような鎌が頭を擡げた時にはもう、鋭い眼差しがハニーの首を標的に見据えていた。
俊敏に風を砕く大鎌の切っ先が金色の瞳の真直に迫る。
焦燥にかられた瞳はただ襲い来る白銀に視線を奪われている。
信じられないとばかりに瞳を見開く。
それは息を飲む間もない一瞬のことだった。
(………あぁ……もう全てが終わる……)
もう神に祈る言葉すらない。
無情に引き下ろされる終焉の幕を前にハニーは呆然と降りくる切っ先を見つめた。
煌めく兇器がハニーに打ち下ろされる。
あと一歩で世界が壊れる―――――――。
「ぅぅぅぐおぉぉぉぉぉぉ~っ!」
ハニーの眼前でぶつかりあった二つの兇器が爆ぜた。