死の天使4
二人は弾かれたように声のした方へと視線を向けた。
カンザスはその奇妙な声に殺気を顕わにし腰に佩いた剣を構えようと体を起こしたが、その早急な動きに治まりかけた痛みがぶり返した。
「っつぅぅぅ~!」
脳幹を焦がす痛みに視界が歪んで見える。
ぐらりと傾いたカンザスにハニーは弾かれたように駆け寄った。
「だ、大丈夫っ?」
「オレのことは構わんでええっ!」
心配そうに金色の瞳を細めるハニーの手を引くと、カンザスは乱暴に自分の背へと押しやった。
守るように後ろ手でハニーを自分の方へと抱き寄せる。
そして痛みなど全て打ち砕くように、カンザスは吠えた。
爆ぜる激情が一陣の風となって、森の木々を震撼させる。
「何者やっ!出て来いっ!」
あまりの激痛に目の前が霞む。
しかし自分の背にいるのは無力な乙女だ。
今ここで痛みに負ければ、彼女の命の灯は消えてしまう。
この煌めく瞳の見つめるものを守らなければ………。
自分にそう言い聞かせ、襲い来る激痛の波をぐっと唇を噛みしめて押し留めると、カンザスは不屈の精神で立ち上がる。
何故だろう。
祈るような真摯な情熱を前に、心が平穏を取り戻す。
澄んだ心が彼の行動を是とした。
それが始めから彼に課せられた使命のように運命が廻り出す。
「……やめてっ!そんなことすればあなたが世界の敵になるっ!」
「そんなこと今は関係ないっ!オレの後ろでちゃんとちっこうなっとれっ!」
悲痛な叫びと共にハニーは自分を守るカンザスの腕に縋りついた。
大きな背中には彼の屈強な信念があった。
それゆえにハニーは怖かった。
彼はきっとその命を擲ってハニーを守ろうとするだろう。
これは想像じゃない、確信だ。
(……彼はわたしに似ている。いえ、似過ぎている……なら彼が選ぼうとしている道がわたしには容易に想像がつく)
「お願いっ!わたしのために血が流れるのはもう嫌なのっ!」
痛切な叫びが森にこだました。
しかし無情な足音がハニーの願いを踏みにじる。
「血に濡れた女王―――聖域の命により、お前を殲滅する」
ガシャン――ッと金属の打ちつけられる音がする。
その刹那、見つめる先でキンッ―――と空気が裂けた。
視界を覆っていた緑が弾け飛ぶ。
森の木々が恐怖に身を捻じっている。
開けた薄ら暗い森の中で一際輝くのはハニーよりも大きな刃の鎌。
そして――――その鎌の側に佇むのは一人の少女。
ハニーのか細い身を切り裂かんと、その小柄の体躯で大鎌を流れるように操る。
逃げ惑う風が少女の長い髪を揺らし、哀れな葉を捲れ上げる。
滔々とした眼差しは変わらず、カンザスを通り越してハニーにのみ注がれている。
ハニーの鼓動が大きく跳ねて、慄いた。どっどっと脈打つ心臓が目に焼きついた存在を前に絶望する。
(……あぁ……あれは死の天使サリエと同じ………)
ごくりと喉を鳴らした。
ハニーよりもいくつか年下だと思われる小柄な姿がその大鎌には不釣り合いで、それ以上に繊細そうな美貌が森の中で浮いて見えた。
だがどんな姿をしていようが目の前にいるのはハニーを追う者。
凍りついた金色の瞳が捉えたのは、彼女が纏う黒のマントと真っ赤な花十字だった。
その下にあるのは喉の詰まった白の襟が目を引く黒のドレス。
胸元に揺れる白銀の十字架が弱々しい陽光を頼りなげに照り返す。
「……あんたは聖域の司教か?」
圧倒的な存在を前にカンザスは冷静を心掛け、抑揚なく問うた。
そんなことは聞かなくても彼女を包む服装で容易に想像が付く。
しかしそう聞くカンザスの心境がハニーにはよく分かった。
目の前の少女はハニーの知っている死の天使サリエと違い、か弱く儚げなのだ。
ハニーよりも小柄で痩身の体躯に、雪の結晶のように精巧で壊れやすい美で作った人形めいた顔つき。
サリエの全てを凍りつかせる絶対零度の美と違い、彼女は触れれば溶けてしまいそうなほどに脆く、儚い。
瞼の上で綺麗に切りそろえられた長いストレートの髪は黒に近い濃紺で、その下にある大きな瞳は薄氷のように淡いアイスブルーをしていた。
そっと大事に箱に入れておきたいほど愛らしい姿をしたこの少女が黒衣を羽織る司教など信じられない。
しかし感情の欠片のない氷の瞳はじっとハニーを見据えて、抑揚なく答える。
「私は異端審問官アシュリ。お前の絶望に終止符を打ちに来た――――……さぁ、悔悛し神の息吹にその身を晒せ。この切っ先がお前を地獄まで誘う道標となろう」
言うが早いか、アシュリと名乗った少女の異端審問官はその鎌を横に薙いだ。
風があまりの鋭さに悲鳴を上げた。
禍々しい光を放つ切っ先がハニーの喉元を標的に見据える。
ぶれることなく淡々と吐き出された言葉に彼女の実力を感じた。
きっと今まで何度もハニーのように聖域に仇をなす者をその鎌の雫としてきたのだろう。
感情なく、ただハニーを殺すことのみを見据える目の前の少女が恐ろしい。
それはあのいけすかないサリエとは違う恐ろしさを醸し出していた。
守る術を全て失い、傷つき、もう抗うことすら叶わないか細い体が絶望に凍りつく。
冷え冷えとしたアイスブルーの瞳に心の奥底から戦慄する。
あの大鎌の届く範囲はどれだけ広いのだろう。
もしうまく逃げ出せてもあの鎌に足を狩られれば全てが終わりである。
……ああぁ……なんて運命は残酷なのだろうっっっ!