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死の天使2

 狂気に囚われた馬は自ら更なる深みにはまっていく。

 狭く陰鬱な森を行く当てなどなく、ただただ赴くままに馬は駆けた。

 その背にこの世界の運命を乗せているなど知る由もなく、ただただ森の深くへと突き進む。

 地面から隆起した木の根を飛び越える度に両端にぶら下がった二つの荷物が宙に打ち付けられる。

 風の刃が無情にその身を切り裂く。

 暴れ馬の手綱に引っかかったまま、ハニーはまるで馬の鬣のように無残にか細い身を揺らしていた。

 その顔は色を失い朽ちた薔薇のように脆く、常の溌剌とした美しさを失っていた。

 馬が右に舵を取れば、ハニーはなす術もなくそのか細い身を強か側の大木に打ちつける。

 魂のない、まるで汚れた人形――――。


「……ぅうう………」


 生理的な呻きが喉を振動させる。

 ただそれだけ。

 感情すら失った顔には虚ろで、金色の瞳は淡々と流れる景色を映し出している。

 ただただされるがまま、運命に全てを委ねていた。

 その憔悴しきった体ではもう何物にも抗うことは叶わない。

 遠ざかった大切な存在を全身で引きとめる力すらハニーには残っていなかった。

 失ったものが大きすぎて、痛覚すらなくなっていく。

 まるで心が凍りついたかのよう。

 その憔悴しきった金色の瞳が見つめるのは、遠ざかり居場所すらも定かでない少年エルの姿だけ。


(…なんで………)


 無機質な輝きを湛えた瞳には涙も浮かばない。

 心が虚無に侵食されてゆく。

 金色の瞳が闇に染まっていく。

 それはある意味、死と言っても差し支えない。

 そんな中、偶然にもきつく絡まった手綱だけがハニーをこの世に留めていた。

 もし一瞬でもその手綱と腕の間に隙間ができれば、ハニーは地面に激しく叩きつけられることになるだろう。

 そしてその結果は今もはらはらと空から舞い落ちる落ち葉と同じだ。

 朽ちて森の肥しとなるのみ。

 そんな抜け殻のようなハニーの側ではカンザスが喚き散らしていた。

 それこそ生きる者として当然の姿だった。


「ぅううおおおおぉぉぉぉぉぉぉ~っ!」


 カンザスは渾身の力をその腕に込めると意を決したように馬の腹を蹴り上げた。

 無謀な行為かもしれない。 

 更に馬が暴れ出すことを承知でカンザスは賭けに出た。

 蹴り上げた勢いのまま空を舞うと、馬の背目がけてその腰を落とした。

 どしんと衝撃がカンザスの身を振動させる。

 その衝撃に更に馬は我を忘れ、猛り狂った。


「っっぅくううぅぅぅ~っ!こいつっ!いい加減落ちつけやっ!」


 暴れ馬の背に跨ったカンザスは下手な曲芸師のように常識では考えつかない格好でなんとか馬に縋りついている。

 暴れながら狭い木々の間を駆け抜ける馬をうまく御せずにカンザスは何度も鞍から落ちそうになりながらも必死に食らいついていた。

 懸命に手綱を引きながら、馬の勢いを殺す。

 だがカンザスの何倍もあるその巨体をそうそう簡単に抑えることなど出来ようはずもない。

 カンザスは余裕なく彼の眼下で無残に揺れる赤い髪の乙女へと目を向けた。

 それは世界を震撼させる稀代の魔女――カンザスが探し求めていたレモリー・カナンだ。

 しかし彼の瞳に映るのは、非力で儚げなちっぽけな乙女だ。

 圧倒的な力でカンザスを退けることはおろか、暴れ馬一匹彼女は止めることができない。

 目の前の事実と聖域の告げる真実、どちらが本物なのだろう。

 不意に胸をついて湧き上がる苦い感情を必死に飲み込むとカンザスは一際大きな声で怒鳴った。

 

「おいっ、ブラッディー・レモリー!早よ手ぇ貸せっ!このままやったら手首が引き千切れてまうでっ!」

 

 身を低くすると馬の手綱に片手を捕らわれた眼下の乙女に向け、思いっきり自分の手を差し出した。

 そうだ――――。今はどちらが本物の彼女であるかなどどうでもいいことだ。

 大切なのはこの危機から脱することだ。

 胸を巡る不快なものを押さえ、カンザスは自分に言い聞かす。


「早くっ!ブラッディー・レモリィィィィィィィッ!」


 カンザスの劈く怒声がハニーの鼓膜を揺さぶる。

 しかし凍りついた心までは届かない。

 ハニーの瞳にカンザスは映らない。

 そうこうしてる間にも馬は更に森を深くに突き進む。

 叫ぶカンザス。

 揺れるハニー。

 次の瞬間、一際大きく馬が飛び跳ねた。

 手綱に僅かな隙間ができ、ハニーの手がそこから抜け落ちる。

 手綱から解き放たれたハニーの華奢な体が空を舞った。


「……ぁああっっ!」


 カンザスは信じられないと目を剥いた。

 彼が必死に手を伸ばした先、ペリドットの瞳が映し出すのは歯痒いほどゆったりと空を舞う一人の天使。

 透き通った赤い髪はまるで深い森に暁を告げる光のよう。

 ふわりと風に漂い、カンザスの視線を奪う。

 その赤に包まれたか細い体はまるで血など通っていないかのように青褪め、同じ人とは思えなかった。

 だが、目の前の存在は魔女と呼ばれても所詮人だ。

 空に舞うことはあっても、そのまま飛び立つことはできない。

 そう、一度宙に飛び立てば後は堕ちるのみ――――。


 空を漂いながらハニーは呆然と流れる情景を見つめていた。

 深い森から僅かに差し込む日の光。

 風に揺れる木の葉。

 暴れる馬の背から自分を見つめる淡く強烈な閃光―――。


(あぁ……このままわたしは………)


 虚無に染まった心には死への恐怖はない。

 ただその美しい金色の瞳に浮かぶのは、悔恨の念のみ。


(このまま死んでしまうの?何も果たせず、約束もエルも全て失って……わたしは何のために………)


 きらりと陽光を照り返した木の葉に優しい少年の姿を見た。

 そしてその少年と同じ名を持つ、この世で一番慈しみ深い乙女の姿を………。

 誰の心をもほぐし温めるこの世で一番清らかな人。

 思い出の彼女は柔和な笑みをハニーへと向けてくる。

 まるでもう休んでもいいのよと労わるように。


(……エル、エル、ごめんなさい。わたし、約束守れないか……も………)


 悲壮な瞳に最後の祈りであるとばかりに清らかな雫が浮かぶ。

 一度根幹から打ち砕かれた信念はそう簡単には元には戻らない。

 どれだけの苦難の道を歩んだハニーにも今はなす術がなかった。

 

 突風に煽られながら、急速に地面に引き寄せられるハニーの体はもう舵さえ取れず、最悪の結末へと邁進してゆく。

 最後の足掻きとばかりに掴めるはずもない空へと手を伸ばし、ハニーは頭上高く小さく光る空を睨みつけた。


(……でも、命ある限り………わたしは………)


 ぐっと奥歯を噛みしめ、来るであろう衝撃に身を固くした。

 旋風に巻き上げられた赤い髪の向こう――光に包まれた世界に愛しい人の姿を見て、ハニーは湧きあがる情熱に胸を燃やす。


(そうだ……手が捥げようが、足が無くなろうが、そんなことは関係ない。わたしは這ってでもゼル離宮に行かなくては……エル、あなたの側にはまだ行けない………)

 

 絶望の淵から這い上がった金色の瞳が遠ざかる穏やかな光に背を向けた。

 その光を受け入れれば穏やかな心のまま天上の世界へと向かえると知りつつも、その世界で待つであろう愛しい人の側に行く訳にはいかなかった。

 轟々と身を切り裂く突風。

 迫り来るはハニーの信念よりも強固な大地。

 ハニーが覚悟を決めたその瞬間、時は悪戯にその流れを速める。

 一気に空中から地面へと叩きつけられる。

 真直に土の湿気った香りがした。


(来るっ!)


 全身を言い知れない緊張が包んだ。

 その時、縋るように見上げた視線の先で小さな太陽が鋭い光を放った。


「っっぅぅぅぅううううううおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ~!!!!!」


 金色の瞳いっぱいに映ったのは、自分の方へと向かってくる猛々しい騎士の姿だった。

 驚きに息を飲んだのと、その逞しい腕に包まれるのは同時だった。

 そして今までに味わったことのない衝撃に身を揺さぶられるのも………。

 次の瞬間、頭から足の先まで雷の矢が駆け抜けた。


 

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