死の天使1
遠くで聞こえるのは馬の軽快な足音と甲高い男の悲鳴。
しかし音さえも飲み込むこのゴモリの森はすぐに彼らの足音を消し去る。
森の深くで人知れず滾々と湧き出る泉の広場には変わらない清浄の空気が漂う。
そう―――静謐に引き締まった空気の中、見つめあう異質な存在があっても。
「………いいんですか?行ってしまいましたよ?」
泉の淵に膝をついたまま、アクラスは自分を見つめてくる幼い顔を仰ぎ見た。
光の糸のような煌めく金髪は美しく、その下にある柔らげな愛らしい顔は世界広しとはいえ、彼以上の美少年はそうそういないだろう。
その身を包むのは、修道士のような時代がかった古風な巻頭衣。
デザインなどあったものではないシンプルな黒衣がまた少年の稀有な美しさを引き立てていた。
唯一の例外は引き裂かれた片方の腕のみ。
そこから覗く白く滑らかな腕は細く、目の前の彼がどれだけ非力な存在かをアクラスに伝えていた。
しかしアクラスの紫の瞳に浮かぶのは、ハニーと対峙した時には存在しなかった不安定さ。
その爽やかな笑みには余裕の笑みが張り付いているが、その下に隠された本心はまったく違った。
彼は幼い子どもに人好きのする顔で微笑みかけながら、目の前の少年の正体を必死に探っていた。
血に濡れた女王を追っていたはずなのに、まさかこんな子どもが側にいるなんて。
しかもやり取りを見ていると彼らがお互いに助け合う関係のようだ。
女王に協力者がいるこの状況を他の者はどう見るだろうか………。
そこまで思考を巡らせ、アクラスは自嘲気味に顔を歪めた。
(いや、そんなことはどうでもいい。このおれが思考することを逃げるなんて………この予想外な存在に自分を見失っている………)
余裕なはずの笑みが凍りついたように強張り、その頬を冷や汗が流れる。
騒がしい者達が去り、水鏡のような水面に小波が立つ。
水面に映り込んだアクラスの姿が小刻みに波打った。
はらりはらりと儚げに一葉の枯葉が緊迫した空を優雅に追い落ちてくる。
じれったいほど緩慢な時が二人の前に流れる。
枯葉はアクラスの背でくるりと宙返りをすると、音もなく水面の上を滑った。
その間エルは瞳を逸らすことなく、ただアクラスにその美しい眼差しを向けていた。
怒りも悲しみも喜びも……感情らしいものが何一つ感じられない、硬質な輝きを湛える青の瞳。
滔々とした大河を想わせる瞳から目が離せない。
それはその少年の特異な美しさゆえか……いや、違う。
アクラスは無意識に喉を鳴らした。
きっと、この小さな体から発生られる刺すような威圧感のためだ。
目に見えないその圧倒的な空気に飲み込まれそうになる。
アクラスのあっさりとした端正な顔に冷や汗が流れた。
強張った顔に浮かんだ笑みはもう微笑みとは言い難いほどに歪になり、素顔を隠す仮面でさえなくなっていた。
アクラスは余裕無げに乾燥した口を開くと、ぽつりと言葉を零した。
「……なんで………」
「それは僕の科白です。何故こんなにも貴方が気になるんだろう。僕は貴方を知っている。そう、自分のことよりもはっきりと貴方のことが分かる」
抑揚なく紡がれる言葉は幼い少年のものとは思えないほどに硬質で、静かに、だがはっきりとアクラスの方へと向かってくる。
小さな足が一歩前に出た。
アクラスはその動きを俊敏に察知して、身構えた。
このような幼子に何を大げさなと自嘲気味に呟くが、そうでもしないとこの緊迫から逃れられない。
そう、気を抜けばいつこの幼い姿の奥底に隠された巨大な力に踏みつけられるか。
そんな幻想を半ば本気にしてしまいそうだった。
(こんなに緊張を強いられるのはいつぶりだろう―――)
だが目の前の存在は自分の奥底に秘められたその力に気が付いていない。
そのアンバランスを素早く見抜くとアクラスは蠱惑的な紫の瞳を細めた。
その瞳に映るのは幼き一人の少年。
しかしアクラスには違う姿をして見える。
(それでも…嗚呼………この快感、堪らないな)
自分を翻弄し、押し寄せるその圧倒的な覇気を前にアクラスは悦楽に喉を鳴らした。
それでも冷静を装い、好奇に紫の瞳を輝かせて次の言葉を促す。
「それで?」
「僕の直感が告げるんだ。貴方は危険だと。ハニーに近付けてはいけない………」
そう厳かに告げたエルの瞳は奇妙な色合いに輝いた。