帝国の騎士11
黄金の輝きが一際鮮明に煌めいた。
「っっぃいいやぁぁぁぁぁ~っ!」
爆発した感情を押し留めることなどできようはずがない。
自分でもなんと叫んだか分からないほど、その時は全てが空白だった。
焦燥にかられた金色の瞳に映るのは、いっそ歯がゆいほどに細切れに動く褪せた世界。
ゆっくりとたなびく鬣。
抜けそうなほど伸ばした腕の先。
射るように煌めく対峙したペリドットの瞳――――。
そして………。
「掴んだっ!」
神の采配はハニーにあった。
カンザスよりも僅かに早く手綱を掴んだハニーはその手に握った革の冷たい感覚に歓喜を覚えた。
しかしただ掴んだだけで喜ぶには、あまりにも尚早だ。
ただ手綱を掴んだだけ。
ハニーはこの馬を駆り、森の中へと逃げださなければならないのだ。
(とりあえずエルだけでも……)
感情ばかりが先走り、体が思うように動かない。
ハニーは情けなく震え出す指先に叱咤し、勢いよく馬の手綱を自分の方へと引き寄せた。
急速に進路を変えられた馬は状況についていけずに、恐怖に前足を駆った。
悲鳴のような嘶きが深い森にこだました。
煽られるように遠くで鳥達が奇声を上げて飛び立っていく。
森が不穏な音をたててざわめいた。
馬は興奮し、鼻息荒く自分に迫る全てを薙ぎ払おうと身を捻じる。
さっきまで穏やかだったはずの円らな瞳が血走って正気を失っていた。
喜びも僅かの間、次の瞬間には手綱に手をかけたハニーすら薙ぎ払おうと馬が一心不乱に身を捩る。
「っあぁ!」
馬の想像を絶する力強さにハニーは慄きながらも手綱に死に物狂いで掴まり続けた。
しかし千里を駆ける馬の剛力にか弱いハニーが敵うはずもなく、ハニーの足は地面を離れ、宙を舞う。
咄嗟に馬に縋るようにエルの手を離し、その手綱に両手で掴みかかった。
これは最後の希望なのだ。
どんなことがあっても手放してはならない。
躍起になって力を込める拳の中で手綱が擦れて、火が噴き出しそうな激痛が走った。
狼に噛まれた生々しい傷痕に馬の逞しい体嘔がまともにぶつかる。
「っぁああああぁぁぁぁぁっ!」
あまりの痛みに悲鳴に似た呻きが零れる。
焦点すら合わない瞳では自分がどんな状況にあるのかも掴めない。
だがこの手綱だけが最後の希望なのだ。
これを手放せば最期。
ハニーはこの不審な騎士達に捕えられ、聖域に連れ戻されるか、いや、最悪はこの場で殺されてしまう。
(ダメ。諦めちゃダメ。わたしはまだいけるっ!わたしは絶対にやり遂げないと……)
痛みに弾け飛びそうになる理性を必死に押し留め、馬の体に縋りついた。
掴んだ手を手綱に絡ませ、もう一方でがむしゃらに鬣を掴む。
鬣を掴まれた馬は更に興奮し、我を忘れてハニーのか細い身を乱暴に振り回す。
ハニーの体はまるで嵐に晒される哀れな小枝の如く、痛々しい足が地面から遠く離れた中空を薙ぐ。
ハニーにとって最悪としか言いようのない場面であった。
だがその馬の暴挙を前にカンザスも手だし出来ずにいた。
手を伸ばし、ハニーを捕える機会を窺っているカンザスを激しく揺れる視界の中に捉えたハニーは転機を見た。
今しかない。
この窮地にあって、ハニーは今が運命の時と知った。
嵐の真っただ中――うねる運命の波に翻弄された金色の瞳はまるで暗い海の先に灯を見つけたかのように、輝く青い瞳を捉えた。
「エルゥゥゥゥゥゥゥッゥゥゥゥゥゥッ!」
訪れたその瞬間――ハニーは力の限りに叫んだ。
それは慟哭といっても良かった。
覇気に気圧され、森に激震が走る。
呼応するように馬が嘶き、波紋が広がる。
チャンスは一度しかない。
馬が左に身を捩った瞬間、ハニーの正面にいたのはエルだった。
幸いにもカンザスは馬を挟んで反対側でたたらを踏んでいる。
ハニーは片手で手綱に全体重をかけると、もう一方の手をじぶんの道を示す愛らしい天使の方へと伸ばした。
馬が身を捩ったその勢いのままエルの方へと向かっていく。
(早くこの手を掴んでっ!)
祈るような気持ちでハニーはただエルの静謐とした青い湖沼のような瞳に訴えかけた。
伸ばした指の先があと一歩の距離まで来た。
一時でも気を抜くと無情の時に振り落とされそうになる。
「エルッ!早くぅぅぅぅぅぅぅぅうううぅうぅうぅ~っ!」
喉が裂けるほど悲痛な叫びをあげ自分に向かってくるハニーをエルは穏やかな笑みを浮かべて見つめていた。
(何してんのっ!お願いっ!分かるでしょう?)
エルの頬笑みの意味を分かりかね、焦る気持ちが更に不安に染まっていく。
伸ばした指がエルの滑らかな髪を撫でた。
掴もうとする前にその希望の糸はハニーの手をすり抜けていく。
(………えっ?)
激しく燃え上がった激情が瞬く間に凍りつく。
信じられない。今一体何が起こったというのか。
確かにこの手で触れたはずなのに……。
伸ばした手には引っ掛かったのは希望でも大切な存在でもなく、ただの虚無感だけだった。
理解できないと強張ったハニーの金色の瞳が捉えたのは、寂しげな笑みを浮かべる天使。
「……な、なん………」
理解できない事に目が焦点を失う。
もう言葉を紡ぐこともできない。
体が全身でその事実を否定していた。
しかしその金色の瞳が映し出す残酷な情景こそが現実だった。
遠ざかるエルの姿。
愛らしい紅顔が切なげに歪み、今にも泣き出しそうに見えた。
「……ごめん……」
風に乗ってそう聞こえたのはハニーの空耳だったのか。
だがそれを確かめる術はない。
馬の手綱に片手を捕らわれたまま、ハニーは急速に遠ざかるその愛しい少年の姿を見つめていた。
ハニーの心をめちゃくちゃに切り裂く旋風に赤い髪が舞い乱れる。
猛り狂った馬の勢いをか弱いハニーが止められる訳もない。
ハニーはただ振り落とされるのを待つ哀れな枯葉のように、身を裂く風にその体を晒していた。
赤い光の糸の向こうで、ハニーに背を向ける小さな姿があった。
(な、なんで………)
呆然と後ろに遠ざかる小さなその背中を見つめるが、誰よりも近くにいたその少年が振り向くことはなかった。
その代わりにハニーを地獄に突き落とす音がすぐ側で聞こえた。
「ぃぃ逃がすかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
馬の首に無理やり捕まったカンザスの咆哮がやけに遠くに聞こえた。
一度統制を失った馬はそう簡単には止められない。
もはや生きた凶器だ。どんな大剣でもこの勢いを止めることはできないだろう。
地鳴りのように響く馬の蹄の音がハニーを更なる茨の道へと誘う。
「………なんで……?エル………」
ハニーは運命に翻弄され、また忘却の森へと迷い込んでいった。
大切な心をその場に残したまま……。
不意に引き離された、血に濡れた女王と付き従う天使。
互いに必要としあった存在は運命の悪戯に切り離され、勢いのまま絶望へと続く道を突き進む。
誰よりも心を通わせた二人を待ち受けるのは天使の抱擁か、それとも悪魔の愛撫か。